ヴィジョンの共有の大切さと地に足の着いた歩み〜箴言29章18節

旧ソビエト連邦の最後の指導者ゴルバチョフ氏が亡くなられました。彼の奥様もお母様もウクライナ出身者で、今回のロシアのウクライナ侵攻に誰よりも心を痛めながら亡くなられたと報じられています。彼は西側諸国では尊敬されていますが、実は、誰よりも熱く共産主義の指導者レーニンを尊敬していたようです。レーニンが抱いた理想社会にソ連を近づけようとして、それまでの独裁的な共産党支配のあり方を正そうとしていました。スターリンが築いた体制が本来の共産主義の理想からかけ離れていることに心を痛め、改革開放路線を進めました。

一方、現在のロシアのプーチン大統領は、共産主義の理想が達成できないことを早くから見抜いており、国家的な統合を大切にしながら、どのように市場経済を生かすことができるかを考える現実主義者です。ただ、彼は誰よりも、スターリンを尊敬していたようです。市場経済を大切さを意識しながら、スターリンによる強権主義を用いるプーチンと、レーニンがかかげた共産主義の理想を求めながら、政治的な自由を実現しようとしたゴルバチョフ、そのどちらにも問題があるように感じます。

そのような中で最近亡くなられた、稲盛和夫・京セラ創業者の経営理念が話題になっています。彼は次のように述べています

リーダーとして人の上に立つ人というのは、思いやりの心を持った人でなければならないと思っています。それを私はひと言で「利他の心」と言っているのですが、「利他の心」を持っているかどうかというのがリーダーとしての必須条件だと思っています。

稲盛氏は日本航空の劇的な再生の功労者として高く評価されています。ただその手法は日産の業績を急回復させたカルロス・ゴーン氏とは対照的かもしれません。彼は最終的に日産の役員の内部告発を受け、国外逃亡せざるを得なくなりました。彼の経営手法は一時期高く評価されていたことは事実ですし、社員の方の中には彼を最後まで尊敬し応援していたかたもいるとも聞いています。ただ、結末を見ると対照的と見ざる得ない面があるような気がします。

一方、稲森氏の死は、日本航空を初め多くの方々から悼まれています。稲盛氏が日本航空に着任して何よりも驚いたのは、「利益」の感覚が希薄であったことでした。「JALは絶対に潰れない」という幻想のもとで、「利益よりも安全が絶対」「公共交通として地域の要請があれば赤字でも飛ばすべき」という考えが支配的だったとのことです。それに対し稲盛氏は、「利益があってこその安全運航、路線の維持だ」という発想の転換を迫りました。たとえば、「東京電力は、安全よりも利益を優先して事故を起こした」と言われることがありますが、本当にそうでしょうか。かえって、原価積み増し方式で電気料金を決めるシステムによって、社員の危機意識が弱くなりすぎていたためとは言えないでしょうか。稲盛氏のアメーバ経営のように、一人ひとりに利益意識を要求すれば、各自の主体性、創造性、責任意識などが刺激され、非常用電源を原子炉建屋とともに置くような初歩的なミスは早い段階で正されていたことでしょう。積極性が失われ、自分の立場を守ることに汲々とする組織になると、問題に気づいた人も、「余計なことは言わない」という雰囲気ができてしまいます。

稲盛氏のリーダーシップのあり方は、一人ひとりにヴィジョンを共有しながら、一人ひとりのモチベーションや利益意識を高めるという、理想主義と現実主義が合わさったものでした。そして、それこそ聖書が描くヴィジョンと現実的な社員訓練とのあり方と言えましょう。

箴言29章18節には、「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう(共同訳「ちりぢりになる」)。しかし、みおしえ(律法)を守る者は幸いである」と記されています。「幻」とは、もともと神が預言者たちに与えたもので、イスラエルの民が目指すべき方向を指し示していました。そしてそれは日々の生活を導く、「みおしえ(トーラー)」と不可分の関係にありました。トーラーはギリシャ語でノモス(律法)と訳されてきましたが、中心的な意味は、人をさばく基準ではなく、人を導く愛の教えでした。この幻 (Vision) と「みおしえ(トーラー)」の関係に関して、出エジプト記19章5、6節では、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されていました。そこでは「みおしえ(トーラー:律法)」が与えられた目的が、神のとっての「宝」の民となり、「祭司の王国」として創造主を全世界の民に知らせることであり、また「聖なる国民」として、神のみおしえに導かれた民が、どれほどのシャローム(平和、平安、繁栄、すべてが満たされた状態)に満たされるかを証しすることにあると描かれています。

箴言の文脈ではこのことばは、自分の子を厳しく戒め育てることの大切さ、また、ことばだけでしもべを戒め、指導することはできないという現実的な社員教育に適用できる教えに挟まれて記されています。

理想主義と現実主義をいかにバランスさせて社会を導くか、最近の指導者たちの死を通して改めて考えさせられています。