ウクライナ——人間の奴隷とならないための戦い

先日、以下のNHKの報道特集で、日本の高校生の平和を広げるための取り組みが紹介され、そこにウクライナの学生も招かれていました。 でご覧いただけます。

そこで以下のような会話がなされていました

Q. 日本人学生:ウクライナに物資を供給して欲しいという話で、物資の中でも、特に武器を供給したら、いつまで経っても戦争は終わらないと思うのですが……?

A. ウクライナ人学生:武器の供給は必要。装備がないとウクライナの民間人は死んでしまう。

Q. 最初の質問者:……何て言ったらいいか分からないんですが……戦争って一筋縄ではいかないんだなと……

この番組をご覧になっていたウクライナ人女性が、本当に心を痛めておられたとのことです。その趣旨は、「ウクライナ人が武器を捨てるということは、奴隷になれと言われているようなものだ……日本の方々は、その恐ろしい意味が分かっているのか……」ということのようです。

日本では、第二次大戦の反省に立ち、戦争を「絶対悪」と呼ぶことで、77年間もの世界史上稀に見る平和を享受して来ました。

しかし、それは驚くべき神の恵みです。それを前提に、ウクライナの方々の自衛の戦争を非難することは、まさに上から目線の意見になってしまいます。

「右を頬を打つ者には左の頬を向けなさい」というイエスのことばは、ご自身の弟子たちに対しての愛のことばでした。そこには、イエスとイエスの父なる神が、全能の御手で弟子たちを守ってくださるという保証がありました。また、永遠のいのちという保証がありました。また、ローマ軍と戦うことが、エルサレムの崩壊を招くという断固たる見通しがありました。

神が守ってくださるから……というのは、信仰の領域です。それを私たちは確信する結果として、争いを避けることができます。

ところが、現実に、家族を殺され、大切な人がレイプされている状況を見ながら、その人に「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」ということは、人間を奴隷扱いすることばの暴力になり得ます。自分で確信しながら従うことができるなら良いのですが、それを人に強制することは絶対にあってはなりません。

みんな真剣に平和を求めながら、それでも戦争になってしまう……という現実を冷静に直視しする必要があります。

「平和を求め それを追い続けよ」(詩篇34:14) ということばに従いながら、同時に、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23) いうみことばを味わってみたいと思います。