残念ながら多くの方々は旧約聖書のイスラエルのという国の大枠の物語を理解しないまま、「イエスが救い主である」と理解しようとしますが、それでは「救い」の意味は理解できません。そこでは、個人というよりも社会全体の「救い」が課題になっています。
アダムの罪は自分の神の立場に置くことで、それによってこの世界は神々の戦いの場になりました。広島の原爆犠牲者記念式典で小学生代表が、「自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと、それは強さとは言えません」と述べていましたが、イエスの強さとは、徹底的に自分の身を低くして犯罪人の仲間となり、人々の罪を負って十字架にかかることができたということに現わされていました。そのように強がりを捨てる生き方こそが、愛の交わりを建て上げる原点になります。
一方、この世界の人々はますます、自己主張を激しくしてきています。その結果、終わりに近づくに連れ、混乱が増し加わります。しかし、イエスはご自身の十字架と復活によって、自分を神とする「罪」の力に勝利を収められ、この世界をシャローム(平和)の完成に導いておられます。
ですからイエスは弟子たちに、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33) と言われました。
イエスが世の終わりに関して語るのは、私たちがキリストにあって平安(シャローム)を得るためですが、それは苦難に直面する覚悟から生まれるものでもあります。この世のさまざまな困難は、キリストの勝利を現す舞台に過ぎません。どんな悲惨が起きようとも、キリストにあっての勝利はすでに保障されています。
イエスはご自身を「人の子」と呼ばれましたが、それはダニエル書を意識してのことです。その書のテーマこそ、「人の子」がこの世の様々な帝国を従える王の王、主の主であるという勝利に他なりません。
統一協会の誤った教えが話題になっていますが、彼らが過剰な奉仕や過剰な献金に駆り立てられるのは、この世界の問題が解決するかどうかは、信者の行動にかかっているという過剰な責任を負わせる教えのためです。彼らは自分たちが徹底的な献身をしないと、自分の先祖もこれからの子孫も、地獄の苦しみに会うと脅されて動かされています。
そして脅しからは戦いが生まれます。もし、あなたが「人の子の栄光の現れ」という霊的な事実を知らないまま信仰生活を送るなら、同じ悲劇が起り得ます。
1.「人の子の到来は」だれの目にも明らかなものとして現れます。
マタイ24章23節で記されている「そのとき」とは、エルサレム神殿が汚され (24:15)、歴史上最悪の「大きな苦難」(4:21) が訪れる、世の終わりの混乱のときを指します。そのような困難のただ中で、人々は「救い」を求めますが、そこでは同時に「偽キリスト」が現れます。
それを前提にイエスは、「だれかが『見よ、ここにキリストがいる』と『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません」と警告します。つまり、厳しい時代に突入すると、あちこちに「救い主」が出没するという歴史の現実を知るようにという勧めです。
さらに、「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、大きなしるしや不思議を行います、それは、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとするためです」と言われます(24節)。
つまり、「偽キリストたち」や「偽預言者たち」が「大きなしるしや不思議」を「行う」ことは、驚くべきことではなく、想定内のことで、それによって、世の多くの未信者ばかりか、できれば、神に選ばれたキリスト者さえをも惑わそうとするというのです。
実際に、イエスを十字架にかけたあとのイスラエルには、次から次と偽キリストや偽預言者が現れ、人々を惑わして行きました。皇帝の息子自らがローマの大軍を率いてエルサレムを包囲するようになるのは、それらの偽キリストや偽預言者がユダヤ人を惑わして、彼らを独立運動に駆り立てた結果でした。
そしてそれが本当に大切な警告であることを、「いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました」と述べます (25節)。
イエスはご自分の弟子たちを「あなたがた」と敢えて呼びながら、心を込めて警告しながら、「ですから、たとえだれかがあなたがたに、『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません」と述べました (26節)。
ここでは、キリストの現れに関して、遠い荒野と身近な家の奥の部屋の両方の現れが否定されています。
それに対し、「稲妻が東から出て西にひらめくのと同じように、人の子の到来(王としての現れ)も、そのようなものです」と言われます (27節)。つまり、「人の子の到来」は、誰も稲妻を見落とすことがないのと同じように、すべての人に明らかになることだというのです。
歴史上、多くの人々が自分の真の姿を隠しながら人々の心に寄り添い、その心を自分になびかせ、最後に、自分こそがこの世界を変える者であると証しします。それは、旧統一協会が、自分たちの姿を隠しながら人々の不満や不安の気持ちを引き出し、世界の闇の原因を理屈で説明し、最後に文鮮明を救い主として提示する方法に似ています。
それに対し、イエスは最初から、ご自身が神によって遣わされた救い主であることを明らかにしておられました。また、イエスはご自分が預言された救い主であることを公言することによって十字架に架けられました。当時のエルサレムにいた人は、みな、イエスが偽物か本物かの判断を迫られていました。
しかも、イエスは死から三日目に復活することを公言し、弟子たちの復活の姿を現されます。当時の人々は、弟子たちがイエスの復活をでっち上げたと信じるか、また本当にイエスは復活したかのどちらかの選択を迫られていました。
それほどにイエスの十字架と復活は、誰の目にも明らかな出来事でした。
それと同時に、「死体のあるところには、禿鷹(はげたか)が集められることになります」(28節) とも言われます。これは、「人の子の栄光の現れ」とセットに歴史上最悪の苦難が訪れるということを描いた文脈の中で、その地に禿鷹または鷲が集められることを預言したことばです。これも誰もそれを見落とすことができないほどに明らかなこととなりました。
なお、禿鷹を表すギリシャ語は「鷲」をも意味し、ローマ軍の軍旗のシンボルは鷲ですから、これはローマ軍がエルサレムを包囲することをイエスが示唆したとも解釈されます。つまり、エルサレム神殿の崩壊とイエスの栄光の現れがセットで描かれているとも理解できます。
当時のイエスラエルに住む人々にとって、エルサレム神殿の崩壊は、イスラエルの歴史の終わりを意味するような大きな悲劇でした。
しかし、イエスはそれをご自身の十字架ととともに預言し、イエスを十字架にかける者たちが神のさばきを受けることと結びつけました。それはイエスご自身が23章35、36節で「地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。まことにおまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる」と言われた預言の成就でした。
しかも、その驚くべき悲劇が、「人の子の栄光の現れ」となるのは、そこからイエスを救い主と告白する福音が、全世界に広がったからです。それまでクリスチャンの集まりは、ユダヤ教の「セクト(異端)」と見られていましたが、これを契機に、キリスト教がユダヤ教から分離した信仰として世界に広げられてゆきます。
今や、全世界で、イエスという名前にキリスと(救い主)という称号がセットに告げられるようになりました。
なお、この預言は、もちろん、キリストの再臨という将来的なことを私たちに教えることでもあります。そこでも明らかになることは、「人の子の栄光の現れ」は人々の目に秘密のうちに起きることではなく、誰の目にも明らかなこととして現れることです。
朝目覚めたら、誰かが天に引き上げられて、あなたが知らないうちにこの地に取り残されて、大患難の中に入れられるというようなことではないとも解釈できます。
2.「彼らは見るのです、人の子が天の雲のうちに、力と偉大な栄光とともに来る(現れる)のを」
29節では、「そうした苦難の日々の後、ただちに、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます」と記されます。
これは太陽系が銀河系の片隅にあり、地球が太陽の周りを、また月が地球の周りを動いているという現在の天文学的な知識に反する記述とも見られますが、これは預言書に繰り返し登場する、巨大な国の没落を表す象徴的な表現です。
たとえばイザヤ13章ではバビロン帝国に対するさばきが、「天の星、天のオリオン座は その光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない。わたしは、世界をその悪のゆえに罰し、悪しき者をその咎のゆえに罰する」(10、11節)と記されています。
またイザヤ34章4節では国々に対するさばきの際のことが「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる」と描かれますが、このことばはマタイでの「天のもろもろの力」の表現に結び付いていると思われます。
なおエゼキエル32章ではエジプトに対するさばきが、「あなたが吹き消されるとき、わたしは空をおおい、星を暗くする。太陽を雲でおおい、月が光を放たないようにする。わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地を闇でおおう」(7、8節) と描かれます。
またヨエル2章では、エルサレムに対する主 (ヤハウェ) のさばきが、「地はその前で震え、天も揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う」(10節) と描かれながら、「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ……主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者はみな救われる」(28–32節) と約束されます。
そして使徒ペテロはペンテコステの日にこのヨエル書を引用しながら、使徒の働き2章で、エルサレムの人々にイエスこそは預言された救い主であることを明らかにしました。
つまり、「太陽は闇に、月は血に変わる」という絶望的な状況は、「主の御名を呼ぶ者」の「救い」と、セットになっていたのです。
そしてイエスが十字架に架けられたとき、「十二時から午後三時まで闇が全地をおおった」(マタイ27:45) とは、これらの旧約預言の成就と見ることができます。
神の御子の苦難に、全被造物がともに「うめいていた」ことのしるしでした。しかし、それこそ神の民の救いが成就するときとなっていたのです。
さらに、「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみます」(30節) と記されます。「人の子のしるし」を見て、「胸をたたいて悲しむ」という表現は、ゼカリヤ12章10節でイスラエルのすべての部族が、「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように……その者のために激しく泣く」という表現の七十人訳のギリシャ語と同じです。
これは十字架に架けられた方が預言された「人の子」としての救い主であることを認め、その方を「自分たちが突き刺した」と、激しく泣きながら認めるという意味です。ペテロは、ペンテコステの日に、そこに集まったイスラエルの民に向かい「このイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです」(使徒2:23) と語って、そこに集まっていた三千人を悔い改めに導きました。
今も私たち異邦人も、自分たちの罪がイエスを十字架に架けて殺したと告白してバプテスマを受けます。
さらに「そして彼らは見るのです、人の子が天の雲のうちに、力と偉大な栄光とともに来る(現れる)のを」と記されます (30節)。
ダニエル7章では四頭の大きな獣の現れが描かれ、それはバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国を示唆するとも考えられますが、第四の獣の時代に「大言壮語する口」とともに横暴な権力者が現れ、また滅亡しますが、そこで「見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった」と描かれます。
ですから、「人の子が天の雲のうちに」現れるのを「見る」とは、世界中の人々がイエスを「王の王、主の主」と賛美する時代が来ることを指しているのです (黙示17:14、19:16)。
つまり、「人の子の栄光の現れ」は、すでに始まっていることでもあるのです。それは、イエスの復活であり、またペンテコステの出来事であり、またエルサレム神殿の崩壊とともに新しい時代が始まったことを指しています。
もちろん、これは最終的にキリストの再臨と時に完全に成就することではありますが、「人の子の栄光の現れ」は、歴史上何度も起きていることとも言えます。それはたとえば日本では、第二次大戦の大敗北とともに、基本的人権を明記した日本国憲法が施行され始めたことにも現わされています。
しかも、キリストの栄光はあなたの人生の中にも現わされてきました。それが「新しい創造をここで喜ぶ」という当教会のヴィジョンにも現わされています。
3.「これらのことがすべて起こるまでは、この時代(世代)が過ぎ去ることは決してありません」
31節では、「人の子はご自身の使い(弟子たち)を大きなラッパの響きとともに遣わします。すると彼らは天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」と言われます。
新改訳で「御使い」と訳されることばは英語のエンジェル(天使)ですが、同時に、「(バプテスマの)ヨハネの使い」などと記されるように、遣わされた弟子たちを指し示すことばでもあります。どちらにしても、その目的は天の果ての四方から。イエスを信じる民を集めることです。
それはイザヤ11章12節では、「主は国々のために(救い主の)旗を揚げ、イスラエルの散らされた者たちを集め、ユダの追い散らされた者を地の四方から集める」と預言されていました。
さらにイザヤ27章13節では、「その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリアの地にいる失われた者やエジプトの地に追いやれた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で礼拝する」と預言されました。
イザヤ預言の中では、直接的にはイスラエルの家の失われた者たちが地の四方から集められることですが、新約においては異邦人が、「御霊による心の割礼を受けた」(ローマ2:29) 者として、神の民に加えられ、天から地に下って来た「新しいエルサレム」において、イスラエルの神ヤハウェを礼拝することを指します (黙示21:2)。
私たち異邦人が、イエスによって遣わされた「使い」によって信仰に導かれ、今、イエスの父なる神を礼拝しています。
それをイエスは、「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です……神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と言われました (ヨハネ4:23、24)。
つまり、異邦人が神の民に加えられイスラエルの神ヤハウェを礼拝していること自体が「人の子の栄光の現れ」として理解できるのです。
なお、テサロニケ人への手紙第一4章では、主の再臨のことが、「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」と記されています。
これは携挙とも理解できるかもしれませんが、黙示録で「新しいエルサレム」が「天から下って来る」と記されるように、私たちは天に引き上げられたままではなく、キリストとともに「新しい天と新しい地」を治めることになります。
その上でイエスは、「いちじくの木から教訓(たとえ)を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」と言われます (32、33節)。
ここで「これらのことすべてを見たら」とは、24章2節で預言されたエルサレム神殿の崩壊、偽預言者の現れ、「苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり……」(29節) というような世の終わりの苦難を指します。
そして、「人の子の到来は」、神の民にとっての喜びの時です。それはイエスの勝利が、この世界すべての人に知られる時であり、神の救いを軽蔑した者たちに対するさばきのときです。ただそれは、この世界が神の平和で満たされるときです。
またここでも、「人の子の現れ」は、最終的な再臨とともに、この地にキリストの栄光が現されるときを指すことばでもあります。
イエスはそのことを、「まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまで、この時代(世代)が過ぎ去ることは決してありません」と言われました (34節)。
なお、「この時代(世代)」ということばは、23章36節では、「これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる」と言われ、それはエルサレム神殿の崩壊に至る神のさばきを指していました。
そして35節の「消え去る」は「過ぎ去る」と訳す方が正確だと思われます。それは、「天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることはありません」と訳すことができます。それは、この世界が次々と変わりゆく現実と共に、最終的に、「新しい天と新しい地」が実現することを指します。
目に見える世界は変わっても、神のことばは、時代遅れになることも「過ぎ去る」ことがなく、いつも新鮮であるとともに、その預言はみな必ず成就します。
「人の子の栄光の現れ(到来)」は、弟子たちに対しキリストの復活として現わされました。福音の核心はキリストの復活です。イエスの死はだれの目にも明らかなことでした。ですから、死者の中から復活したと弟子たちが嘘を言ったか否かは、だれに目にも明らかなことでした。
弟子たちが、嘘や根拠のない「幻」のためにいのちを賭けることができたと信じることの方が不合理なことです。
またイエスの十字架から40年近く経ってエルサレム神殿は崩壊しました。これも歴史的な事実で、ローマ帝国が攻め入る前にキリスト弟子たちがエルサレムを後にして、そこから福音が世界に広がったということも歴史的な事実です。
そして、イエスの弟子たちはとんでもなく臆病であったのに、聖霊を受けてこの世界の隅々までいのちがけで福音を伝えたというのも歴史的な事実です。聖霊降臨こそ「人の子の栄光の現れ」です。
このように「人の子の栄光の現れ」とは。死者の中からの復活、ペンテコステ、エルサレム神殿の崩壊の三つに少なくとも明らかに表されています。
そしてそれは同時に。この目に言える世界が終わる時にも「人の子の栄光の現れ」はだれの目にも明らかになります。「人の子」の勝利こそ、福音の核心です。
この世界の混乱は、神の御手の中で起きていることです。それは神のさばきであるとともに、苦難を通しての信仰の純化、再創造のときです。しかし、キリストのうちにある者への勝利はすでに確定しています。