世の終わり?とキリストの勝利〜ヨハネ16:33 

今日は広島原爆の悲惨を覚える日です。松井広島市長が、ロシアの文豪トルストイのことば、「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」を引用して、他者を威嚇して自分たちの安全を確保することの愚かさを語ったのが印象的でした。

最近の報道では統一協会のことが話題になっています。その対策としてドイツやフランスでの宗教教育のことが話題になることがあります。小学校の時代からカトリックやプロテスタントそれぞれの家庭に合わせた宗教教育が公立学校でなされており、その中で異端の見分け方も教えられるとのこと。最近は、移民の増加によって、イスラム教のクラスや無宗教のクラスもあります。

実は、明治維新の際に、欧米の宗教教育に感心した日本の指導者が、日本の子ども教育の根幹に国家神道という新しい宗教を作って教えたという歴史があります。それが、天皇陛下のためにいのちを捨てることの美しさを説く教えにまで発展しました。日本では政治と宗教の分離を説く際に、このトラウマがあるものですから、どの宗教とも距離を取ることを勧めざるを得なくなります。しかし、多くの人にとっての「常識」とできる道徳基準がないことが、様々な危ない宗教の乱立につながっているのだと思います。

旧統一協会から脱会できた何人もの方を個人的に知っていますが、みな驚くほど誠実な方々ばかりです。そのうちの一人で、月刊誌「舟の右側」を発行しいる谷口和一郎兄が、ご自身の体験を次のように書いてくださいました。彼の場合は約八か月で教理の誤りに気づくことができました。彼はその体験をもとに、聖書の教えの根幹を、それぞれの信仰者が自分の心の底から納得できることの大切さを意識して、出版事業を展開しておられます。ご本人の承諾のもとに引用させていただきます。

高専を卒業したら統一協会に「献身」するつもりでいた私は、一方で、両親の激しい反対に遭って苦しみの中にあった。「心が引き裂かれる」という言葉があるが、まさに、自分の心が誰かの手で左右に引き裂かれていくという、その激しい痛みをリアルに感じていた。あとどれぐらい自分の精神状態は持つだろう、とも思っていた。そんなある日、住んでいた学生寮の一室で不思議な体験をした。その時私は、特に目的もなく、ベッドに寝転んでおもむろに聖書(口語訳)を開いたのだが、そこにこう書かれていた。

主はこう言われれる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ。」(エレミヤ書17:5–8口語訳)

「原理講論」には旧新約聖書からの引用もたくさんあり、それらも日常的に読んでいたのだが、この時は何か別次元の感覚があって、この聖句が「私への語りかけ」であると感じた。目が開かれるような思いがした。そして、「神様を信頼していいんだ」と信じることができた。

統一協会では、人間の堕落によって原理原則の中に閉じ込められた可哀想な神様を、人間が100%の努力をすることによって解放してさしあげ、その悲しみを癒やしてあげなければならないと教えられる。つまり、神を頼ってはいけないのだ。しかし聖書は、まったく逆のことを言っている。人の力を頼みとするな、神を信頼せよ、と。むしろ、人間を頼みとする者は、のろわれるのだと。まだイエス・キリストを信じておらず、偽メシアの後をついて行こうとしていた私に、神は語りかけてくださった。そして、神観の逆転が起こった。それ以後も様々な葛藤を経ていくわけだが、このみことばは私の心にアンカー(錨)のように降ろされていて、私の判断を守ってくれたように思う。

かつての日本人は、「天皇陛下のみこころを安んじるために、身を犠牲にする」ということが勧められましたが、多くの誠実な日本人が統一協会の教えにはまってしまうのは、同じような背景があるのかも知れません。

ただし、統一協会が語る「平和」は、共産主義を中心とする悪の勢力との戦い、第三次世界大戦への備えとしての平和です。その心のうちにはいつも「戦い」があります。昔の日本が、「大東亜共栄圏」の確立のために国民を絶望的な戦争に追いやったのと同じ発想があるような気がします。

なお、聖書には世の終わりに向かての苦難が描かれています。それに関してイエスは次のように言われました

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました (ヨハネ16:33)

これは黙示録ばかりか全預言書の要約とも言えます。

イエスはご自分のことを「人の子」と呼ばれました。その背後にはダニエル7章13–14節の預言のことががあります

見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は「年を経た方」のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった

つまり、「人の子が天の雲のうちに」現れるのを「見る」とは、世界中の人々がイエスを、「王の王、主の主」と告白して賛美する時代が来ることを指しているのです (黙示17:14、19:16)。ですから、「人の子の栄光の現れ」は、すでに始まっていることでもあります。それは、イエスの復活であり、またペンテコステの出来事であり、またエルサレム神殿の崩壊とともに新しい時代が始まったことを指しています。

もちろん、これは最終的にキリストの再臨のときに完全に成就することで、そのときの神の平和が、全世界をおおいます。

イエスは今「王の王、主の主」として世界を平和(シャローム)の完成へと力強く導いておられます。イエス・キリストの勝利がすでに始まっていること、それが完成に向かっていることを語らない教えは、人々を絶望的な戦いに追いやることがあります。福音の核心を改めて味わってみたいものです。