僕は昨日、福音伝道教団(群馬県、埼玉県を中心の戦前からある福音派の教団)の夏期聖書講座で、猛暑で有名な熊谷市の近くの会議場で詩篇の講義をしてきました(摂氏38.9度だったとか……)。火曜日朝10時半から3時半までの講義でした。新型コロナウィルス感染対策のために延び延びにしていましたら、何と、感染者数過去最高水準のときに開く羽目になってしまいました。参加者は当初二十数名程と予想していたのですが、何と約50名も集まってきました。昨年10月から今年3月まで、同教団の聖書学院で詩篇の講義をしていたのですが、それが好評だったようで、猛暑のコロナ最盛期にもかかわらず多くの方々が集まって来て下さいました。感染対策を徹底して、窓を大きく開けながらエアコンをつけていたような環境でしたが、みなとっても熱心に、詩篇の講義を受けてくださいました。
その中の最後の質疑応答で改めて明らかになったことですが、聖書の教えは、全身全霊で神を愛し、また自分の隣人を自分自身のように愛することです。まさに、「自分を捨てるように……」と聖書全体で教えらています。
ところが、詩篇の中には、神様が自分の訴えを無視しているとか、神様は自分に意地悪をしているかのような訴えが記されています。また、自分の愛にかえて憎しみを報いて来る隣人に、厳しい報復的なさばきを訴えるような祈りが満ちています。
その理由を、僕は以下のように説明しました。聖書のほとんどの教えは、全知全能の神が、私たちの人生に必要な知恵を与えるための啓示です。それはすべて神の深い愛と慈しみに満ちた教えです。しかし、詩篇の祈りは、神の真理が私たちに啓示されるというよりも、私たちの混乱した、整理できない赤裸々な気持ちを、神への祈りへと変えるための啓示の書です。詩篇の祈りは、私たちの心を神様の前に開くための祈りの導きの書です。聖霊が私たちの混乱した気持ちを神にささげてくださるのです。
ですから、詩篇には驚くほど、自意識過剰な身勝手な祈りが登場します。しかし、それは霊感された祈りです。それを用いて、隣人に対する恨みの気持ちを訴える時、結果的に、不思議にも、恨んでいる人への執り成しの祈りが生まれてきます。また自分一人に目を向けて欲しいという趣旨の身勝手な祈りをする中で、結果的に、隣人の痛みに寄り添いたいという思いが生まれてきます。
詩篇109篇は、自分に悪を働く者に対して、その家族までも、神のさばきにあうことを願うような、おどろおどろしい祈りが満ちています。ところがその直後に、以下のような祈りが記されます。これは昔の新改訳第三版のことばが、意訳が入っていますが、心に響きやすいものです。
しかし、私の主、神よ。
どうかあなたは、御名のために
私に優しくしてください。
あなたの恵みは、まことに深いのですから、
私を救い出してください。
私は悩み、そして貧しく、
私の心は、私のうちで傷ついています
詩篇109篇21、22節
お気づきになられる方も多いかもしれませんが、拙著、「心が傷つきやすい人への福音」のタイトルは、ここから生まれています。
今週月曜日に最終稿を受け取って、急いで最終確認をし、月曜日には電車でセミナー会場の近くのホテルに向かい、夜まで原稿の最終確認をしていました。
詩篇講義自体は、とってもとっても喜びに満ちた働きでした。聞いてくださる方の喜び表情を見ていると、次から次と、みことばとみことばの解釈が自分の心の内側から湧いて来るという感動の奉仕でした。
でも、今日、ほっと一息つこうを思ったら、電話とインタネット接続の最新化の作業の必要が生まれ、右も左も分からない中、またあたふたとしてしまいました。人生には恵みとストレスがいつも同時並行するようにやってきますね。そして、この心は、ほんとうに簡単に傷ついてしまいます。
しかし、拙著の中に一貫して書いていることですが、ダビデの詩篇に、彼の傷つきやすい心が描かれています。そしてイエスご自身も傷つきやすい姿となられ、ダビデの詩篇を敢えて用いながらご自分の心の痛みを表現して行かれました。実は、神の愛には、神の痛みが伴っています。神の痛みとは、神が愛することにおいて「傷ついておられる」という気持ちです。
自分の傷つきやすい心を優しく受け止めるとき、そこから新しい世界が広がってきます。私たちが受ける心の傷は、いつも、あなたの人生が、新しい世界に導かれるために再出発の起点になります。なぜなら、人は痛みや傷を負って初めて、自分の生き方を謙遜に見直すことができるからからです。傷つきやすさこそ、新しい喜びの世界、創造性の原点になるとも言われます。