箴言29章「幻とみおしえ(律法)が与えられる幸い」

2022年7月31日

箴言のことばはクリスチャンとして生きる際の「常識」のような規範を教えてくれます。ただ、簡潔さを大切にする詩文なので、私たちの感性の現実に合わない、誤解も生まれやすい表現があります。しかし、神の民としての「王道」を示すという意味で、いつも味わうべきことばと言えましょう。

約9年ぶりに箴言の解釈に戻って来て、改めて表現の美しさに感動を味わっています。聖書は私たちの人生のゴールにある「幻」を明確に示すとともに、そこに至る歩み方としての「みおしえ(律法)」が記されています。「律法」は旧約時代の規範ではなく、今も生きて働く神からの「知恵」です。その恵みをともに味わいましょう。

1.「嘲る者たちは……騒がし、知恵のある人たちは怒りを鎮める」

29章1節は、「叱責されてうなじを固くする者は、突然打ち砕かれる、癒されることがないほどに」と訳すことができます。新改訳2017で、「叱責されても、なお、うなじを固くする者」と訳されていますが、ユダヤ出版協会訳では、「One oft reproved may become stiffnecked、 But he will be suddenly broken beyond repair(しばしば叱責される者はうなじを固くしがちであるが、突然、癒しがたいほどに打ち砕かれてしまう)」と訳されています。こちらの方が一般的な人間心理に合っていると思われます。

自分を神としたアダムの子孫は、叱責を受けても反省することがないのが普通です。かえって叱責されればされるほど、頑固になってしまうという現実があります。しかし、目の前の人の行動が変わって欲しいと熱く願う人は、叱責を続け、立ち上がれないほどに追い詰めてしまう現実もあります。それが、「突然打ち砕かれる、癒されることがないほどに」という悲劇です。それは生きる気力さえも失わせる現実です。

これは叱責する側、される側、両方がわきまえるべきことばと言えましょう。叱責を受け入れることができる人は、愛を受けてきた人であり、その人には希望があります。

しかし、叱責を受けてうなじを固くする者は、それがアダムの子孫にとってのごく普通のあり方であっても、それが破滅に向かっていることを知ることは大切です。

2–4節は、「正しい人が多いとき、民は喜んでいる。悪しき者が治めるとき、民はうめく。  知恵を愛する人は、その父を喜ばせる。遊女に入れ込む者は、財産を滅ぼす。  さばき(正義)によって王は国を建てる。貢物の(貪欲に重税を課す人)はそれを引き裂く」と記されます。

翻訳の困難なところがありますが、「正しい人」「知恵を愛する人」「公正な政治(さばき)」こそが、共同体や国を繫栄させる一方、自分の欲望を満たすことを第一に考える人は、国や共同体を滅亡に導くと簡潔に記されています。

7節は、「正しい人は弱い人の訴え理解できるが、悪しき者はそのような知識をわきまえない」と記されています。

ここで「正しい人」は公正さと言うよりも、弱い人が訴える状況に深い共感を示すことができることを指します。それに対して「悪しき者」とは、人の痛みが理解できない人を指すというのです。

8–11節には、「知恵のある人」に関してのことが記されます。

まず「嘲る者たちは町を騒がし、知恵のある人たちは怒りを鎮める」(8節) と記されますが、「怒り」の第一感情の中心には「不安」があることを考えると意味が分かります。嘲る者は、不安を掻き立てるので「町を騒がせ」る一方で、「知恵ある者」は「怒る」者の背後にある「不安」に誠実に向き合うことによって、「怒りを鎮める」ことができます。

また、9節は、「知恵のある人が愚か者と裁きの場に行くと、愚か者は怒ってあざ笑うばかりで、そこには休み(落ち着き)が生まれない」と訳すことができます。これは、問題の解決を望もうとしない者と和解しようとすることの無益さを説くもので、「聞く姿勢の無い人に向かっての説得は無意味」と言う意味にも理解できます。

さらに、11節は、「愚か者は感情(霊)のすべてをぶちまけ、知恵のある人はそれを背後で落ち着かせる」と訳すことができます。知恵のある人が、感情を「内に収める」と訳すと自分で自分の心を制するという無神論的な世界観になります。しかし、ここを「背後で」と訳すことで「知恵のある人」は、人のいない場での神との交わりの中で、その気持ちを落ちつかせるという真の霊的な生活を思い浮かべることができます。

「知恵のある人」に共通する原則は、神との交わりの中で平安を生み出すことにありましょう。

13節は、「貧しい者と抑圧する者は出会う(向き合う)。主 (ヤハウェ) は両者の目に光を与えられる」と、示唆に富む真理が記されています。

これは22章2節の、「富む者と貧しい者が出会う。どちらもみな、造られたのは主 (ヤハウェ) である」、また、14章31節の「弱い者を虐げる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う」という表現を重ねたような意味があります。

キリストにある交わりの中で、人間の幸不幸は、富の有無を超えたところを知ることができますが、そこで貧しい者は抑圧する者への怒りから解放され、また、「抑圧する者」は自分がそのような行動によって自分の身に不幸の種を蒔いていることに気づきが与えられ、両者ともに、それぞれの目に神の光を受けて歩み出すことができます。

現在の政治に関して、様々なところでこの社会の対立関係を煽るような報道がなされがちですが、キリストにある交わりの中で、それぞれの立場の人の固有の痛みが理解され、和解が進むことが大切でしょう。

箴言の核心は、「主 (ヤハウェ) を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む」(1:7)、「主 (ヤハウェ) を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである」(9:10) ということばにあります。そして、「知恵」ということばが29章前半部分の鍵のことばでもあります。

そして、ここでは神との交わりの中に生きる知恵が、「叱責」を受け入れさせ、共同体を建て上げ、「怒りを鎮め」「和解を生み出す」というようすが記されています。神と人、人と人との交わりを築くための「知恵」を神に求め続けましょう。

2.「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである」

15節では、「むちと叱責は知恵を与える。放っておかれた子は母に恥を見させる」と記されます。

1節では、叱責ばかりを受けて心が頑なになるという現実が描かれていましたが、ここではそれを恐れ過ぎて「むちと叱責を」控えると、社会の秩序に適合できない「母に恥を見させる」ような「子」になってしまうと警告されています(17:21では「愚か者の父には喜びがない」という表現もあり、母の責任だけを問うという意味ではない)。

なお、「むち」の効用に関しては、13章24節では、「むちを控える者は、自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる」と、「愛のむち」の大切さが記されています。

さらに22章15節では、「愚かさは子どもの心に絡みついている。懲らしめのむちがこれを子供から遠ざける」と記され、生まれながらの子が「愚かさ」を身に着けており、「懲らしめのむち」によってのみ、その愚かさから子どもを解放できると記しています。

聖書は生まれながらの神のかたち」としての子供の心に宿るすばらしい性質と同時に、生まれながらの罪人としての性質の問題を扱っています。「教育」においては、「個性の尊重」と「懲らしめのむち」の両面が大切にされていると言えましょう。

キリストの教会はどんな人にも優しくという原則が大切にされますが、怠惰な人や無軌道な人を甘やかすことは決して、神の愛ではありません。子供をともに厳しく訓練するという姿勢も大切にしなければなりません。

そのことがさらに17節では、「あなたの子を戒めよ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える」と記されます。

18節のことばは、多くの教会で大切にされているもので、「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう(共同訳「ちりぢりになる」)。しかし、みおしえ(律法)を守る者は幸いである」と記されています。

「幻」とは、もともと神が預言者たちに与えたもので、イスラエルの民が目指すべき方向を指し示していました。そしてそれは日々の生活を導く、「みおしえ(トーラー)」と不可分の関係にありました。トーラーはギリシャ語でノモス(律法)と訳されてきましたが、中心的な意味は、人をさばく基準ではなく、人を導く愛の教えでした。

この幻 (Vision) と「みおしえ(トーラー)」の関係に関して、出エジプト記19章5、6節では、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されていました。

そこでは「みおしえ(トーラー:律法)」が与えられた目的が、神のとっての「宝」の民となり、「祭司の王国」として創造主を全世界の民に知らせることであり、また「聖なる国民」として、神のみおしえに導かれた民が、どれほどのシャローム(平和、平安、繁栄、すべてが満たされた状態)に満たされるかを証しすることにあると描かれています。

私たちの教会のヴィジョンは、「新しい創造を ここで喜び シャロームを待ち望む」と記されています。神がすべての教会に示しておられるヴィジョンは、この世界が神のシャロームで満たされることです。

私たちは今ここで、その来たるべき神のシャロームを共同体として証しするのです。それは、この教会に来る人が、この場において最終的なシャロームの前味を味わうことができることにあります。それは教会が、主の民としての喜びと平安の場となるというヴィジョンでもあります。

そうならば、教会が政治的な争いの場となるとか、何かに駆り立てられるように奉仕する場であってはなりません。そうなりそうなときに、互いに優しく注意し合うことができれば幸いです。

とにかく、」とは、成長の方向を指し示すものです。それは、15–17節では「子育て」の方向として、また、19–21節では「しもべ」の訓練の方向として、その真ん中に位置しているものです。

19–21節のことばは、奴隷制の中での「しもべ」の訓練を表します。これは日本社会では、職場の訓練に適用できます。「しもべは、ことばだけで戒めることはできない。それがわかっても、反応しない」(19節) と記されますが、現実に、人は怠惰に流れる傾向がありますから、「優しくことばで教える」こととともに、上司の命令に従わない者に対しての、何らかの処罰が必要になるのが常です。それが減給とか降格人事という形で表されるのは必要なことでもあります。

よく私は野村證券での最初の三年間は地獄のようだったと証ししますが、厳しい指導がないと、無差別な「飛び込み営業」などしようとも思わなかったことは確かです。日本の神学校や教会訓練でも、そのような厳しい指導がときに必要なのかもしれません。

「軽率に話をする人を見たか。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある」(20節) とは、軽率に、言ってはならない言葉を口から出す人への戒めです。

ヤコブの手紙3章2–6節では、「もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です……舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのよう小さな火が、あのように大きな森を燃やします。舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます」と記されています。

舌の制御にこそ私たちの最大の課題です。ただ、思っているままを口に出してしまう人は、正直な人間ではなく、愚か者以上に望みのない状態です。しかしそこにこそ、キリストにある罪の赦しの恵みと聖霊のみわざが現わされることも期待できます。

さらに21節は、「自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには手に負えない者になる」と記されますが、この弟子訓練の原則は日本やドイツの徒弟制度の訓練に生かされています。今や、そのような職人の訓練は時代遅れと見られがちですが、少なくとも、昔の親方は自分の弟子を育てようという気概がありました。

しかし、今や、何かあるとすぐに「パワハラ」で訴えられる世の中です。若い者に愛情を注ぎながらも、厳しく「しつける」ということを、今後どのようにするか、それができなければ、自分の思い通りにならないことにすぐに怒りを発し、人に危害を加えるような人がますます増えてしまうことでしょう。

ただ、「子どもの訓練」にも、若者の訓練にも、成長の方向、また目標と言う意味での「幻(ヴィジョン)」は不可欠です。

人は、人生の夢や幻があって初めて、苦難に耐える力が生まれるからです。この「幻」が見せられないままに、人を訓練しようとすると、それがパワハラとされてしまうのでしょう。

3.「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる」

22節は、怒りの人は争いを引き起こす。憤りの所有者には多くの背きがある」と訳すことができます。新改訳2017版の「怒る者」「憤る者」という翻訳は「怒り」や「憤り」自体が悪いかのような誤解を与えるかもしれません。

聖書協会共同訳は敢えて、「怒りやすい者はいさかいを引き起こし、激しやすい者は多くの背きを犯す」と訳しています。怒り」や「憤り」は、「神のかたち」として、神に似せて創造された者が抱いて当然の感情です。怒ることができない人は、傲慢な人や、この世の不正に巻き込まれます。

ですからエペソ人への手紙4章26節の原文では、「怒りなさい。そして、罪を犯してはなりません」と記されています。要は、「怒る」ことと「罪を犯すこと」の間に、境界線が引かれることが必要なのです。拙著「心が傷つきやすい人への福音」において、そのあたりのことを、詩篇を用いて丁寧に解説しています。

23節は、「人 (アダム) の高ぶりはその人を低くし、へりくだった人(謙遜な霊:lowly in spirit)は誉れをつかむ」と記されています。

最初の人間アダムは、「神のようになって善悪を知る者となる」という蛇の誘惑に負けて、自分を神の立場に置き、自分を善悪の基準としました。ですから高ぶり」こそが罪の基本であり、それは神と人からさばきを受けます。

反対にイエスは心の貧しい者は幸いです (blessed are the poor in spirit)。天の御国はその人たちのものだからです」と言われましたが (マタイ5:3)、そこにこのことばがあったのかもしれません。

アダムの子孫はだれしも、高い霊性を求めます。それがギリシャ哲学や禅仏教などの伝統です。それが「the poor in spirit(霊において貧しい者)」とは、神の助けなしに自分は自分を正しい状態に保つことができないという弱さを告白することです。

イエスの「貧しい霊」の姿が、「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7) と描かれています。これはギリシャ哲学や禅仏教の世界では、自分の心を律することができない未熟な者と見られがちです。

24節では、「盗人にくみする(仲間となる)者は自分自身(自分のたましい)を憎む者。その人はのろいを聞いても何も言わない(協会共同訳「気にかけない」)」と記されます。

この背後にはレビ記5章1節の警告があります。そこでは、「人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない」と記されています。

エゼキエル3章18節でも、「悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問うと記されています。

ただ、悪人にいつでもどこでも警告することばかりを考えることにも問題がありましょう。それは神があなたの口を開いてくださるというタイミングがあり、聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らは反逆の家なのだから」とも記されています (エゼキエル3:27)。

自己保身を優先して警告すべき時に警告しないことは罪です。しかし、自己満足的な警告も反発を招くだけです。

25節では、「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる」と記されます。ここでの「恐れる」ことと、「主 (ヤハウェ) を恐れる」というときのヘブル語は似てはいますが、異なった語根のことばです。

「人を恐れる」には「畏怖」のような面はなく、ただ「怯える」という意味が中心にあります。それに対し「主を恐れる」ことと、「主に信頼する」ことは全く違ったことばでありながら、自分の無力さを深く自覚するという同じ意味が込められています。

自分の弱さの自覚が、人の脅しに屈することにつながらず、ただ全知全能の神に、すべての問題を祈りの中でお委ねすることこそが信仰の核心です。それに対し、人を恐れる」態度は、他の人の支配下に自分を置くことで「」にはまる生き方になります。

26節は、「支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主 (ヤハウェ) である」と記されます。

「顔色をうかがう」とは、厳密には「顔を捜す(慕い求める)」という言葉が使われています。それは支配者の好意を得ようと「忖度する」ような行動を指します。

しかしそのようにへつらった行動が最終的にこの世でも有罪とされることがあるように、主のさばきを意識した行動こそが問われていると考えるべきです。

27節は、「不正を行う者は正しい人に忌み嫌われ、行いの真っ直ぐな人は悪しき者に忌み嫌われる」と、私たちを「はっ」とさせる表現が記されています。他の人から忌み嫌われる」ということは、私たちがみな避けたいことです。しかし、それがゆえに不正に加担してしまうようなことは、絶対にあってはなりません。

不正に加担して正しい人に忌み嫌われるか、反対に、「真っ直ぐな道」に留まろうとして、創造主を認めない悪しき者」に忌み嫌われるかのどちらかを選択しなければならないというのが人生だとすると、私たちはもっと心を定めやすくなります。どちらにしても「忌み嫌われる」覚悟が大切なのです。

現代はいろんな意味で伝統的な価値観が揺らいでいる時期です。個性の尊重の名のもとに、正しいことを厳しく教えることや、しつけをすること自体が軽んじられる傾向が見られます。職場でも部下に厳しく接するとすぐに「パワハラ」で訴えられる恐れがあります。

また、社会全体の行くべき方向が見えません。戦前の富国強兵は論外であったとしても、それに戻る動きに警戒を表すだけで、社会全体にヴィジョンを示すことができないという葛藤があります。私たちはもっと聖書から、伝統的な価値観を見直すとともに、「正しい」ことを追求しながら、同時に、愛のことばをもって、この地に神の平和を広げるような地道な働きに目を留めるべきでしょう。

神の救いのご計画のゴールは、この地が神のシャロームで満たされることです。人の顔色をうかがうことなく、忌み嫌われても、神の平和をこの地に広げる働きを続けましょう。