コンセンサスの大切さ——「神のかたち」とは……

新型コロナウィルスの感染者が急増している中で、政府や自治体の対応が後手後手に回っていることが問題にされています。

コロナ判定は自分で行うようにと言われながら、検査キットを手に入れることはできない……会社に休みを申請するためにはPCR検査が求められるけれど、病院からは検査に来ることを断られる……今回、政府は、何の行動制限も発令しないのであれば、感染者急増に対する医療機関の対応に対する具体的な応援が不足しているのではないか……

日本での感染症法は感染症を危険度に応じ、1~5類に分け、新型コロナは結核などと同じ「2類相当」に分類されます。そこでは、就業制限や治療費の公費負担、入院勧告が可能になりますが、同時に医療機関への大きな負担があります。そして現在主流のオミクロン株は重症化率は低いとされているので、季節性インフルエンザと同じ5類への引き下げを求める声が上がっていますが、それに対する国民的なコンセンサスができていないとも言われます。懸念されるのは、コロナが季節性インフルと比較し、特に高齢者の致死率がなお高く、感染力が強いということです。それに対して、「医療が逼迫(ひっぱく)すれば、特措法に基づく強力な感染拡大防止対策が取れるようにするのが必要な状況だ」と、分類の引き下げを躊躇しています。

私は感染症に関してはまったくの専門外ですので、それに対する意見は何も言えませんが、政府の対応に矛盾があるのはだれに目にも明らかと言えましょう。

日本でのコンセンサスの作り方は、みなが悲鳴をあげて、「このようにしてほしい……」という声にまとまるのを待っているような面があります。それは、古事記に記された物語で、天皇家の祖神アマテラスオオミカミが、弟スサノウの乱暴に心を痛めながらも判断を先延ばしにして天の岩戸に隠れ、この世を暗闇にするという悲惨のあとで衆論の一致をはかり、スサノウにさばきを下すことができたようなことに現わされています。

紀元604年 聖徳太子が定めたと言い伝えられている十七条の憲法には

第一条、和を以って貴しと爲し、忤(さから)ふこと無きを宗と爲す……。

第十七条、夫れ事は獨(ひと)り斷(さだ)むべからず必ず衆(しゅう)と與(とも)に論(あげうら)ふべし……。

と記されています。要するにこの憲法の最初と最後で、みんなとの調和を大切にすること、また独断専行によらずみなと議論をしてコンセンサスを作ることが大切にされているのです。まさに、これが日本での物事の決め方であり、和の作り上げ方なのです。どれほど、このようなスタイルを批判しても、縄文時代以降、数千年間にわたって守られているこの国の体質は変わらないことでしょう。

それにはとっても良い面もあります。東日本大震災の際の日本人の忍耐、秩序だった行動、助け合いの姿勢は、世界中の人々から賞賛されました。

しかし、同時にそれが、第二次大戦の終わり方と同じように、みんながとことん困らなければ、体制を変えることができないという問題にもなってきます。

しかし、判断を先送りしながらコンセンサスができるのを待つという方法は、この激しく変わる世界でどこまで通用するのでしょうか。

健全なリーダーシップを尊重しながら、誰かが責任をもって決めることをまず応援するという雰囲気がなければ激変する世界の情勢に対応することはできません。日本では、各個人の人格よりも、それぞれが所属する村社会が作り上げる性格が尊重される傾向があります。ですから、官僚組織の意思決定などでは、あえて誰が決断したかが分からなくなるような進み方がなされます。

しかし、聖書は、一人一人が「神のかたち」としてユニークに創造されていると語っています。創世記1章26、27節で神は次のように仰せられました。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」

私たち一人一人がこの世界を治める責任があります。そして一人一人に課せられている責任と意思決定があります。

日本の良さを生かしながら、必要な時には、健全なリーダーシップのもとに、良いタイミングで政治的な決断がなされるように、私たちはそのために祈って行きたいと思います。