NCC「国葬」反対声明〜ローマ14章1節「信仰の弱い人を受け入れなさい」

日本のプロテスタント諸教会の過半数を占めるNCC・日本キリスト教協議会(日本基督教団、聖公会、バプテスト連盟、福音ルーテル等の主流派諸教会)が安倍元首相の国葬に関しての反対声明を以下のように発表しました。閣議決定から三日後という素早い対応です。私たち日本福音自由教会はこれとは違う日本福音同盟に属していますが、同じ日本の教会に属する者としてこのような声明が出されたことに敬意を示しつつ、文書を読んでおくべきかと思い紹介させていただきます。それに対する個人的な感想はその下に書かせていただきます。

安倍晋三元首相の「国葬」は人間の自由と平等を葬ります

凶弾に倒れた安倍元首相の「国葬」を、去る7月22日、岸田内閣が閣議決定したことに、わたしたちは抗議します。明治憲法下の勅令としての「国葬令」(1926年)は、1947年12月31日をもって失効させられました。なぜならそれは人間の自由と平等の保障を謳う日本国憲法の精神に矛盾するものであったからです。 にもかかわらず、岸田内閣の閣議の恣意的判断によって国葬とされる葬儀に国費を支出することは、国の財政権限を国会決議に基づかせる憲法第83条の違反です。

国葬となれば、全国の都道府県と教育機関への弔旗・記帳台設置などを指示する通達が発出されます。それによって国民の弔意が事実上、権力によって強いられることを意味します。人の死を悼む弔いという人間の内面における精神的営みに国家権力は介入してはならないのです。それは様々な理由から弔意を表すことを拒む立場や言論を封じことにつながり、人間の思想・良心の自由を保障する憲法第19条の重大な違反となります。

安倍元首相が首相として在任した8年8カ月の間に、憲法第9条を逸脱して集団自衛権の承認が閣議決定されました。それは戦争への道を開く安保法制(2015年9月)の制定につながりました。また、人権と民主主義の危機として多くの批判を受けた特定秘密保護法(2013年12月)、そして共謀罪法(2017年6月)が制定されました。さらに、赤木俊夫さんの無念の自死を引き起こす結果となった森友学園問題をはじめ、加計学園、そして「桜を見る会」問題など、権力の私物化として厳しく問いかけられた事件の真相は未だ不問に付されたままです。

また、この度の銃撃事件を契機に、岸信介元首相以来、安倍元首相に至るまで、自民党をはじめとする政界が、霊感商法などで人生と家族の破産や崩壊をもたらしてきた旧統一協会と根深い関係を築いてきたことが明らかになりつつあります。今こそ政治とカルト集団との癒着の真相が徹底して究明されなければなりません。

このようなときに安倍元首相の国葬が強行されようとすることは、安倍政治の内実の批判的検証と、特定の宗教団体、とりわけカルト団体と政治の癒着関係の真相を究明する言論を、政治権力で封殺することにつながりかねません。

思想・良心の自由を保障する憲法第19条に違反する特定の人間の国葬化は、聖書が警告する“人間の神格化”を意味するものでもあります。そのように死者の神格化にもつながる国葬を計画する権力の企てとは、自らの政治路線で国民を上から統合しようとする権力の絶対化であります。それは、明治憲法下の日本を敗戦まで支配した国家主義と権威主義の亡霊による国民的思考停止状態への誘導とさえ懸念されます。あたかも故人の遺志を国家的に継承するかのような「国葬」の政治利用によって、憲法改定の国民的気運の形成につなげられることは決してあってはなりません。またそれは、平等なる人間の自由と尊厳に対する冒とくです。そして暴力から民主主義の根幹を守ると発言し岸田首相の言葉とは裏腹に、むしろこの国の民主主義の根幹を揺るがすことになると言うほかありません。

以上の理由により、わたしたちはここに、安倍元首相の国葬に断固反対の意思を表明いたします。

2022年7月25日
日本キリスト教協議会
議長吉髙叶
総幹事金性済

以上に書かれていることはすべて、とっても大切な視点が記されており、このような見解に同意される方々が私たちの交わりの中に数多くおられます。このような見解を心から大切に思うとともに、このような意見を率直に言える国に生活できていることを感謝したいと思います。

ただ、一方で、このような声明が、日本キリスト教協議会の名で出されるとき、多くの信仰者は、「私たちもこのように考えるべき」という同調圧力を感じたり、また、他の未信者の方々から、「これがクリスチャンの考え方だ」と見られることには抵抗を感じます

少なくとも僕は約50年近く前に米国で信仰告白に導かれて帰国し、上記協議会に属する日本福音ルーテル教会で受洗しました。当時は靖国神社国営化法案に対する反対運動が盛んな時で、教会の中でもデモ行進への参加を促すアピールがありました。ただ、僕は既に証券会社への就職を決めており、当時の日本社会党との強い連携した運動の進め方には強い違和感を覚えていました。しかし、信じたばかりの僕は、日本のキリスト教会に属する者は、「この法案に反対しなければならない、反対運動に参加しなくてはならない」という無言の圧力を感じていました。たしかに、どう考えても、「靖国国営化法案」のようなものには、決して賛成することはできませんでしたが、何か運動の進め方に違和感を覚えていました。それは、「靖国神社を大切に思う人々に対する愛が感じられない……」という極めて感覚的なもので、議論することもできませんでした。

しかし、そのような中で、間もなくドイツに行き、当時の共産主義諸国と対峙する西ドイツの教会の雰囲気やクリスチャンたちの交わりの中で、どちらかというと、自分が大切にしてきたような政治や経済に対する見方に共感できる信仰者のほうがはるかに多いことを感じました。

僕が先週、先々週と書いた記事で、「高橋牧師は安倍政権のやり方に賛成し、安倍元首相を応援していたのだ」とご理解なさった方も多かったかもしれません。また最近、この教会に集うようになった方々の中には、「この教会は自民党を支持する人が多いのか……」と思われた方がいるかもしれません。

それは事実ではありません。どちらかというと安倍政権に批判的だった人がはるかに多かったように感じますし、僕も上記の日本キリスト教協議会の主張には賛同できる部分が多くあります。何度も書きましたように、僕の趣旨は、「政治指導者に対しての優しい見方をしなければ民主主義が機能しない……」ということに過ぎません。

ただそうはいっても、もともと僕の政治経済的な視点は、日本の教会では少数派に属します。また神学的な視点でも、少なくとも、日本福音自由教会の中では長らく少数派に属していたと思います(最近は変わってきましたが……)

ですから、くれぐれも、僕の発信する文書を見て、日本のクリスチャンはこのように考えている……とか、私たちはこのように考えるべき……などとは思わないでください。僕が福音自由の牧師になったのは、何よりも、それぞれの良心の自由を最大限尊重するという視点があったからです。ただ、僕はいつも、いろんなことに疑問を感じ、「このように考えるべき……」という一律的な見方が嫌いです。ですから、僕は少数派に属することが多いです。もしみなさんが僕の見解に違和感を感じるなら、そのように感じる人はこの日本の教会にはるかに多くいることをご理解ください。どうか、くれぐれも高橋と意見が違うことを恥じないでいただきたいと思います。

ローマ人への手紙が書かれた理由の一つに、ローマ教会では異邦人クリスチャンが多く、ユダヤ人クリスチャンが少数派で、ユダヤ教の習慣から自由になれない彼らに対する批判があったということがあります。 現代の私たちからしたら、ユダヤ人クリスチャンの方が信仰が強いように見えるかもしれませんが、パウロは、異邦人クリスチャンに向けて、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」(ローマ14:1) と厳しく迫りました。それが今、私たちが互いに持つべき態度です。私たちはイエスを愛することにおいては一致します。しかし、政治的な見解や神学的見解の違いは、徹底的に尊重し合います。「信仰が弱い」と見える方々の視点を尊重することが共同体を成り立たせる原点です。実際、そこから素晴らしい視点が見えてくるものです。