マタイ23章37節~24章8節「産みの苦しみの始まり」

2022年7月3日

多くの人々は様々な困難に直面しながら、それが速やかに終わることを期待します。それがときに、余りにも安易な、短絡的な問題の解決を望んで、問題をさらに大きくするという過ちにつながります。

しかしイエスは、エルサレム神殿の崩壊も、戦争も飢饉も地震も「産みの苦しみの始まり」であると言われました。それはこれから苦難がさらに激しくなることと同時に、それに耐えるときには新しいいのちの誕生という途方もない感動が待っているということを意味します。

インスタントな問題解決を望む人が問題をさらに大きくするという皮肉が見られます。一方、イエスの守りのうちに生きる人は、問題に直面する勇気を与えられます。それと同時に、イエスにあって困難に耐える人が、新しい時代の誕生を喜ぶことができます。これらのことを私たちはセットに考えるべきでしょう。

「世の終わり」というイメージの代わりに、キリストにあるシャローム平和)の実現を信じ、今ここでなすべき働きに目を留めることこそが幸いな生き方です。

1.「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか」

23章37節は以前の訳では、「ああ、エルサレム、エルサレム」と、「ああ」という嘆きのことばが入っていましたが、原文にはないので、2017年版では省かれました。ただ、「ああ」が入っている方が臨場感が湧きます。

詩篇69篇21節には、イエスが十字架で受ける苦しみが、「彼らは……私が渇いたときには酢を飲ませました」と預言されると同時に、イエスを苦しめた者たちに対するさばきが、「彼らの宿営が荒れ果て その天幕から住む者が絶えます(ように)」と記されています (25節)。

ヘブル語では、「絶えますように」という嘆願と、「絶えます」という直接法の区別がありません。イエスはご自分を十字架に架けるエルサレムに対して、神の厳しいさばきがくだることを預言しておられるというのが基本的な趣旨です。

ただそれ以前に、エルサレムは今までに積み重なった神への不信の罪に対するさばきを受けるというのが、ここでの直接的な趣旨となっています。

それで「エルサレム」のことがまず、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者」と非難されます。それは29–36節の要約でもありました。

さらにイエスはご自分の今までの働きを、「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのにおまえたちはそれを望まなかった」と述べられます。これはイエスがはるか昔から、エルサレムを救うために労してきたという意味です。

しかし人間的には、まだ30歳を少し超えたばかりのイエスには、それは無理なこととしか思えません。ここにいる聴衆にそれは意味不明なことばとしか聞こえなかったことでしょう。

しかし箴言8章27–30節では、「知恵」を主語として、「主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた……地の基を定められたとき、わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であったという表現があります。神の「知恵」が人格を持った存在として描かれているのです。

もしイエスを神の「知恵」と見られるなら、イエスが神の「知恵」として、預言者たちを遣わし、イスラエルの民を導いていたという説明は、当時の人々にも決して理解不能なことばではありません。

もちろん、私たちにとってのキリストは、御父とともに世界を創造した方であられ、この世界を父なる神と共に導いておられる全能の神です。ただそれは当時の人々には理解が困難なことではありました。

なお、ここでの、「めんどりがひなを翼の下に集める」とは、火災になったときの情景を現わしていると思われます。火災が迫って、自分の「ひな」が逃げることができないと「めんどり」が危機感を抱くとき、まさに本能的な動きですが、「めんどりがひなを翼の下に」隠します。そして現実に、火が消えた時、丸焦げになっためんどりの「翼の下」に、生き長らえた「ひな」を発見することができたということがありました。

ですからこのイエスの嘆きは、歴史的には「神の知恵」である方が、預言者たちを何度も遣わしながら、イスラエルの民がその招きを拒絶したということに対するものでした。

ただし、それと同時に、ここではイエスがイスラエルの民が受けるべき「のろい」を引き受けるために十字架にかかることをも指しています。

ガラテヤ人への手紙3章13節には、キリストの十字架の意味が、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです」と記されています。

申命記28章15節~68節には神の律法(みおしえ)を軽蔑する者たちに対する神のさばきが多岐にわたって生々しく描かれます。特に63節では、「かつて、主 (ヤハウェ) があなたがたを幸せにし、あなたがたを増やすことを喜ばれたように、(ヤハウェ) は、あなたがたを滅ぼし……根絶やしにすることを喜ばれる。あなたがたは、あなたがたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる」と預言されていました。

それがバビロン捕囚として現わされましたが、そのさばきが今、イエスの救いを否定する人々に実現するというのです。

しかしイエスの御翼の下に身を寄せる人々には、「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受ける」(ガラテヤ3:14) という救いが実現するというのです。

御翼の下で救いを受けるか、その招きを拒絶して神の「のろい」を受けるかという二者択一の選択が迫られています。

そして23章38節では、エルサレムにくだる「のろい」が詩篇69篇25節を引用する形で「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる」と記されます。

さらに39節は原文の順番で、「わたしはおまえたちに言う。今から後、決して、わたしを見ることがない、おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで」と記されます。これは21章9節にも引用されていますが、イエスを神が遣わされた「救い主」と告白することばです。

これはしばしば、キリストの再臨を指しているとも理解されますが、イエスの弟子たちにそれは理解できる概念でしょうか?一方、イエスはご自身の復活については何度も弟子たちに語っておられます。それが当時は理解できなかったとしても、イエスが復活した後、弟子たちに何度も主がご自身を現わされたとき、彼らにはこの意味が理解できたことでしょう。

ですからこれは、イエスが神によって遣わされた救い主であると認めていながら、その信仰が揺らぐ者に、ご自身が救い主であることを、復活を通して明らかにされるという預言と理解できます。

一方、イエスを救い主として認める用意の無い人には、イエスはご自身の姿を隠されたままにされます。その意味で、イエスを偽預言者と断罪している人には、永遠にイエスを見る機会が失われるという警告となりましょう。

2.エルサレ神殿崩壊の預言と、主の栄光の現れ(パルーシア)と世の完成のしるし

24章1節では「イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した」と記されています。なお、マルコ13章1節では、当時のエルサレム神殿の壮麗さに感動した弟子たちが、イエスに「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったことが記されています。

それに対するイエスの反応が、「すると、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはこれらのものすべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここでどの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません』」と記されます。

これはエルサレム神殿崩壊の預言です。「神の家」と呼ばれる場が、跡形もなく滅びさるということばは、イエスの弟子たちにとっては世界の終わりとしか思えない出来事です。日本で言うと、「日本沈没」の預言のようなものです。

当時のエルサレム神殿はヘロデ大王が大拡張工事を行ったもので、敷地面積は南北が450m、東西が300mという壮大なものでした。ソロモンが建てた神殿は神殿内部の調度品の豪華さが強調されていましたが、ヘロデが建てた神殿は、その神殿広場の敷地面積の広大さとそれを取り囲む壁の厚さに特徴がありました。

ソロモンの神殿では祭壇を含む神殿の庭の構造はほとんど描かれていませんでしたが、それに対し、預言者エゼキエルに神が示された神殿は四方が250mあまりの広大なもので、神殿の聖なる領域がこの世の政治権力から隔てられるという城壁の壁の厚さに特徴がありました (42:15–20)。

ヘロデは自分をイスラエルの救い主であるかのように見せるためにこのエゼキエルに示された神殿構造を目に見える形に表そうとしました。その結果、ヘロデが建てた神殿では、異邦人の庭、婦人の庭、いけにえをささげる祭壇のあるイスラエルの庭が区別される三重の壮大な壁に囲まれる構造になっていました。

神殿はシオンの丘に建てられていましたが、神殿の庭の領域を平らにする工事には途方もない労力がかかり、完成までに約50年がかかりました。イエスと弟子たちがオリーブ山から神殿を見ているときは、まさにこの神殿がほぼ完成したときです。

以下(Jerusalem Modell BW 2 – エルサレム神殿 – Wikipedia)で想像図を見ることができます

ヘロデの神殿の模型(イスラエル博物館、エルサレム)
ヘロデの神殿の模型(イスラエル博物館、エルサレム)

その後、イエスと弟子たちはエルサレム神殿の東側にあるオリーブ山に登ります。それはエルサレムからは数十メートル高い程度の山です(標高818m)。

そこからエルサレム神殿を一望できます

そして、「イエスがオリーブ山に座っておられると、弟子たちがみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。またそれはどのようなしるしなのですか、あなたの現れ(パルーシア)と世が終わる(完成する)時は』」と記されます。

弟子たちは不思議にも、エルサレム神殿の崩壊と、イエスの栄光に満ちた現れ(パルーシア)、また「新しい天と新しい地」の実現の預言をセットに考えています。

たとえばイザヤ60章には1、2節には、「起きよ。輝け。まことにあなたの光が来る。(ヤハウェ) の栄光あなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主 (ヤハウェ) が輝き、主の栄光があなたの上に現れると記されています。

イエスの弟子たちは、イエスが新しい「神の国」を目に見える形で実現してくださると信じていました。その際、当時のエルサレム神殿を中心とした歪んだ権力システムが、神によってさばかれるということは知っていました。

彼らはイエスのことばを聞きながら、それが目に見えるエルサレム神殿の崩壊につながるということが分かりましたが、それは同時に、イザヤが預言した主の栄光の現れ(パルーシア)のことを指すということも分かりました。

そしてイザヤによればそれは、主 (ヤハウェ) ご自身が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する……見よ。わたしは新しいエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」(65:17、18) と約束しておられたこととセットであると考えられました。

どの預言書においても、救い主の栄光が現されるとき、この世の歪んだ権力システムが破壊され、「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」が実現することはセットで期待されるように記されていました。ですから、弟子たちが期待したことは聖書の預言に沿った考え方でした。

私たちの教会のヴィジョンでは、「新しい創造を ここで喜び シャロームを待ち望む」と記されています。最終的な神の「平和(シャローム)」の実現は、この世界の「終わり」というより「完成の時」を意味します。

ペテロ第二の手紙でも、「主の日」の到来によって「天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます」と恐ろしいことが記されながら、その直後に「しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と述べられます (3:12、13)。

つまり、世の人々が恐怖とともに考える「世の終わり」とは、クリスチャンにとっては神のシャロームの実現の時に他ならないのです。

そして、私たちの教会のヴィジョンは、キリストは二千年前にご自身の十字架と復活によって、この世界を決定的に造り変え始められたということを信じ告白することにあります。「新しい創造」はキリストによって既に始められています。それはすべての人に基本的人権が認められたことや一夫一婦制の確立によって女性の地位が決定的に高められ、女性を伝道者として用いることで社会を変え始めたことに現わされています。

3.「そういうこと(戦争)は必ず起こりますが、まだ終わりではありません」

それに対するイエスの答えが、まず何よりも、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします」(24:4、5) と記されています。ここでは「惑わし」ということばが重なって登場します。これは「真理」の道から「滅び」の道へと招くサタンの「誘惑」です。

最初の人間のアダムとエバがエデンの園に創造された時、サタンは蛇を使って、「善悪の知識の木」を指し、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」と誘惑しました (創3:5)。

それは全くの嘘ではありませんでしたが、被造物に過ぎないものが自分を神の立場に置き、自分を善悪の基準としたとき、そこからあらゆる争いが生まれました。

一見、美しく見える約束に、人々を破滅に導く恐ろしい罠が隠されています。

イエスの時代にも、エルサレムをローマ帝国の支配から解放するという指導者が何人も現れています。それぞれが勇ましい独立運動の指導者として現れています。そして、多くの人々は、目の前の問題をすぐに解決すると豪語する指導者に「惑わされ」て行きます。

また、歴史上に現れた独裁者はほぼ例外なく、最初は人々から大きな期待と歓呼をもって迎えられています。それはドイツのアドルフ・ヒトラーばかりか、ヨシフ・スターリンなどに適用できるでしょう。スターリンなどはその猜疑心のゆえに、ヒトラーよりもはるかに多くの人々を死に追いやっています(ヒトラーは1、100万人、スターリン2、000万人を虐殺)。

さらにイエスは、「また戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありませんというものです (24:6)。

ここでの「終わり」とは先に弟子たちが言った「世の終わり(完成)」とは違うことばで、「当面の目的地」とか、「現在の政治体制の終わり」ということを意味します。

当時の人々にとってはローマ帝国がイスラエルを武力支配しているという状態の「終わり」を意味したと思われます。これは現代的には、ロシアが一瞬のうちにウクライナを支配下に治めることができる当面の目標が果たされず、世界中が混乱に陥れられたようなことを指します。

私たちは「うろたえる」必要のない安定を望みますが、それはそう簡単には実現しません。

そしてイエスはさらに、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これはすべて産みの苦しみの始まりなのです」と言われます (24:7、8)。

ここでは民族間や国家間の戦争が起こるばかりか、さらに「飢饉」や「地震」までが起って、人々がパニックに陥るような状況になっても、それでもそれは「産みの苦しみの始まり」に過ぎないと言っています。

それは、これらかなお激しい苦しみがやってくるということへの恐怖への覚悟を求めることばです。当時の出産は病院でなされることはなく恐怖が伴いました。しかしそれでも、それは最終的な「新しい時代」の始まりのための一時的な苦しみに過ぎないという希望があります。「産みの苦しみ」には、恐怖と希望の両面があるのです。

それと同時に、この文脈では、そう簡単に平和への夢は実現しないということをも指します。フランス革命からナポレオンの台頭と没落までの時代を横目で見ていたドイツの詩人フリードリッヒ・ヘルダーリンは、「国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、人々が国家をこの世の天国にしようとしてきた、あの努力以外の何ものでもない」と、不思議なことばを言いました。

それはまさに20世紀の共産主義革命の夢が破れたことに如実に現れています。一瞬のうちに目の前の問題を解決できると豪語できる政治指導者には気を付ける必要があります。そこには独裁の危険が待っています。

イエス・キリストは人間が人間を奴隷とすることに誰よりも強く反対していました。しかし、奴隷制が社会から無くなるまでに1、800年間もの長い時間が必要になりました。全能の神のご支配は、そのように人の目には、あまりにもゆっくりとしか現わされないという現実を忘れてはなりません。

民主主義という政治体制だって、何度も何度も、衆愚政治に陥るという失敗を経て、ようやく実現されるものに過ぎないということを忘れてはなりません。

しかし、同時に私たちは、キリストの「再臨」のときに主ご自身がこの地に平和を実現して下さるという約束を常に信じながら、目の前に問題を少しでも良い方向に動かすようにと、「夢」を持ち続ける必要もあります。それは核兵器廃絶の「夢」のようなものかもしれません。

現在のような戦争の中で、核兵器廃絶をすぐに実現することは、「夢のまた夢」と思える部分があります。しかし、その夢を共有していることが、同時に、核使用を控えさせる強力な国際世論となっていることも忘れてはなりません。ですから、夢を持ち、夢の実現を待ち望むことは、本当に大切なことです。

ただし、それを簡単に実現できると言い張ることこそが、同時に、別の戦争や独裁政権への道を開くということも忘れてはなりません。夢も持ちながら、目の前の問題を解決するために一歩一歩、慎重な歩みを続けることが何よりも大切なのです。

詩篇91篇には、神に信頼する者が敵の攻撃や疫病の危険から守られるという約束が記されています。しかし現実には、神を恐れる者が不当な苦しみに会うことは避けられないことです。

しかし、そこで約束されていることの中心は、この世の富や権力ではなく、主ご自身が私たちを「御翼の陰」に隠して私たちを守ることができるということです。

私たちは、主の御許しなしにわざわいに会うことはないと信じられるからこそ、危険な状況下にさえ自分の身を置き、この地に神の平和を広げるために働くことができるのです。

主の御許しなしに私たちはわざわいに会うことはありませんし、主はそのわざわいさえも益に変えて、この世に平和を広げることができます。

だからこそ私たちは困難な中で、働き続けることができるのです。