共に生きる幸い

去る月曜日、私たち福音自由教会の牧師が三年ぶりに一泊二日の会議と研修のために集まりました。今回は、まだコロナ下のため全体の三分の二の約60名の出席でした。その集会が始まって間もなく、一人の同労者が、背中と胸に激しい痛みを訴え、救急車で搬送されました。僕は彼の所属するミニストリーの責任者であるため、困難な手術を行える病院に行くまで、二回に渡り救急車に同乗することになりました。しかし、救急搬送に至るまでも、救急搬送される間も、60名の牧師たちがそろって熱い祈りをささげていました。

そして、大量の輸血を伴う大手術が、驚くほど速やかに終わりました。発症のの対応によっては死に至るケースが多いほどの困難な事態でした。しかし、翌日にはタブレットを通して会話できるまでに、手術がうまく行きました。今も驚くほど順調に回復しています。

またその間、家族や僕のためにも様々な気遣いをしていただきました。また、手術を受けた方の教会の二か月間の礼拝説教者が一瞬のうちに皆、備えられました。

私たち福音自由教会の交わりは、それぞれの自主性を尊重し、その交わりの持ち方も驚くほど淡白な部分があります。ときには激しい議論も交わします。ですから、ふだんは「愛の交わり」という雰囲気は感じられないと言ってよいほどかもしれません。でも今回は、「私たちは互いに愛し合っている」という自覚を深く持つことができました。

キリストにある交わりのすばらしさを何よりも語るのは詩篇133篇です。次のように記されています

  1. 見よ なんという麗しさ なんという楽しさだろう

兄弟たちが一つになって ともに生きる(住む)ことは

  1. 頭に注がれた麗しい油のようだ それはひげに滴(したた)り落ちる
  2. それはアロンのひげに、そこから衣の端にまで滴り落ちる

  1. ヘルモンの露のようだ。それはシオンの山々に滴り落ちる
  2. 主 (ヤハウェ) がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたのだから

主がとこしえにいのちの祝福を命じたのは、兄弟姉妹の交わりにあります。それは日本の村社会に見られるような、序列関係とか排除される恐れがあるような、互いの思惑を過度に気にするような交わりではありません。

たとえば、日本の組織では、長い期間に渡ってそれぞれの役割が固定化する場合があります。その結果として、金銭的な不祥事が起きることがあります。

ドイツの組織では、四ツ目原則というのがあり、お金は必ず二人の人の二つの目によって管理されています。しかも、夏休みは四週間以上連続で取るというのが原則になっています。その人が休んでいる間に、その人の代わりに仕事をする人が配置されます。そのため、不正があればすぐに発覚します。それ以前に、代わりを立てられないような仕事の仕方が軽蔑されます。

今回は、同労者の入院という事態に陥って、改めて自分の仕事の仕方も振り返らざるを得なくなりました。自分で言うのもなんですが、僕は牧師なって33年間、一度も、講壇説教に穴を空けたことはありません。他の牧師たちよりは、休みをきちんと取っていますし、他の説教者にお願いすることもあるのですが、礼拝に支障をもたらすような事態は避けられております。

しかし、その反面、緊急事態が起きたときの体制が整っているかと言えば、とうてい、「大丈夫です」とは言えない現実があります。多くの働きを、自分しか理解できないかもしれない未整理の状態のまま抱え込んでいます。

ドイツと同じように4週間から6週間、長期休暇を取り、他の人が僕の仕事の仕方を公平な目で審査できる必要があるのかもしれません。もちろん、この教会に集うお一人お一人が日々の働きで疲れておられるのですから、そう簡単に何でも代理を立てるなどとは言えません。しかし、今回の事態にも見られるように、いざとなったら、一瞬のうちにチームワークを築くことができる信頼関係を日頃から培っていることは本当に大切だと思わされました。