キリスト教はユダヤ教やイスラム教とルーツが同じですが、根本的に違うのは、目に見える生活規定が驚くほど少ないということです。ある意味で非常に分かりにくく、達成感も得られ難い「教え」とも言えます。
当時のパリサイ人は社会で尊敬され、外面的には正しく見える人々でした。彼らは聖書の教えを生活の中に生かす達人でした。しかし、イエスは彼らを「偽善者」「目の見えない案内人」と非難されたのです。
神の教えを、分かりやすい達成感を得られやいものとすることには、大きな危険が伴います。それは、教えの本質が忘れられてしまうからです。そこに「考えさせない教え」の危険があります。
私たちに問われているのは、いつも「神への愛」と「隣人への愛」という心のあり方であることを忘れてはなりません。
1.「わざわいだ、目の見えない案内人たち」
イエスは23章13-36節で七回にわたって「わざわいだ(第二版「忌まわしいものだ」、聖書協会共同訳「災いあれ」)」と繰り返し、そのうちの六回が「偽善の律法学者、パリサイ人」と続きますが、残りの一回が16節の「目の見えない案内人たち」と続く教えです。
15章1、2節では、パリサイ人たちが、イエスの弟子たちが「言い伝え」の通りに「パンを食べるとき」に「手を洗っていません」と訴えたことが記されます。それは「こぶし」を使う洗い方で (マルコ7:3で「よく洗う」の「よく」の原文は「こぶし」)、「一回に使う水の量は卵一個半程度で、指先を上にして手を差し出し、他の人に上から水を注いでもらい、そのしずくが手首から落ちるのを確かめた上で、一方の手を握ってこぶしにし、他方の開いた手とこすり合わせ、同じ動作を手を入れ替えて行い、最後に手の指を下に向けて水を注いでもらう」というものでした。
それに関して、イエスは預言者イザヤのことばを用いて、「彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから」(15:9) と批判した上で、パリサイ人について「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし、盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます」(15:14) と言われました。
さらにイエスはそこで彼らの「言い伝え」によって「父と母とを敬え」という教えに反する行動を取ることが可能になると非難しました (15:3–6)。並行記事のマルコ7章11、12節によると、両親に差し上げるべき物に対して「コルバン」と宣言すると、それが「(神への)ささげもの」に変えられるとのことでした。それが親不孝の言い訳になって、親を助けないことが正当化される事態が生じてしまったことをイエスは非難しました。
そのような中で、イエスは「誓い」について5章33–37節に続く話をします。なお5章34–36節は「決して誓ってはいけません、天にかけても……地にかけても……エルサレムにかけても……自分の頭にかけても」と続けて訳すべきです。
つまり、「誓う」こと自体を排除したのではなく、天とか地とかを指しながら、神の御名を持ち出さないことで、誓いを果たせないときの言い逃れの道を用意するような誓い方を排除することが目的でした。彼らはどんなときにも自分の正当性を主張できる道を見出す達人でした。
そして16–18節では、「神殿にかけて誓う」ことと「神殿の黄金にかけて誓う」こと、また「祭壇にかけて誓う」ことと、「祭壇の上のささげ物にかけて誓う」ことの区別がつけられていたことが引用されます。それは、「黄金」でも「ささげ物」に関しても、誓いを果たせなかったときの賠償責任を明確にできることに意味があったからだと思われます。
パリサイ人たちはすべての教えを具体化することに情熱を傾けていましたが、神殿や祭壇にかけて誓って果たせない場合の罰則規定を定めることは困難なので、「黄金」や「ささげ物」にかけて「誓う」ことを勧めることで、罰則規定を明確にできたことに意味があったのでしょう。
それに対しイエスは、誓いを果たせなかったとき言い訳を排除し、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」(5:37) と言われました。それは、自分のことばを信用させるために神の御名を持ち出すことを禁じ、自分のことばに責任を持たせるためでした。
23章22節でも、イエスは「天にかけて誓う者は、神と御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ」と言い逃れの余地を無くしています。
イエスは17、19節で、「目の見えない者たち」ということばを繰り返し、パリサイ人たちが黄金やささげ物よりも、神殿や祭壇の方が重要であることが見えなくなっていることを非難しています。
彼らは主の律法の具体的な適用ばかりに目が向かいすぎて、律法の本質を忘れてしまっていたのです。
イエスが非難した「目の見えない案内人」というのは現代にも適用できることかと思います。たとえば現代、「LGBTは聖書で罪とされているか、多様性の一環として認められるか」という議論が熱くされることがあります。
しかし、聖書が強調しているのは、何よりも一組の男女が永遠の愛を誓って家庭を築くことの大切さです。その大枠を忘れ、「同性間の結婚は許されるか……」「離婚はどのようなときに許されるか……」などという部分の議論に走りすぎることには注意が必要です。
まず聖書が描く結婚の意味について真正面から受け止め、その上で、その枠にはまらない現実に向き合うというプロセスが必要でしょう。
しかもその際、ある種類の人を徹底的に断罪することこそが、より大きな罪であることを忘れてはなりません。「人を人とも思わない」罪はいかなる罪にもまさって恐ろしいものです。
当時、他の人を「愚か者」と呼ぶことは、「お前には生きている価値がない」と宣言する意味がありましたが、そのように人を罵倒する者は「火の燃えるゲヘナに投げ込まれる」と、イエスは厳しく非難されました (4:22)。
とにかく、聖書の教えの本質を忘れた議論をする者こそが、「目の見えない案内人」と呼ばれているのです。
2.「おまえたちは白く塗った墓のようだ……内側は偽善と不法でいっぱいだ」
23節でイエスは、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」と非難しながら、「おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」と言われました。
ミントもイノンドもクミンも小さな植物ですが、薬、芳香剤、調味料などとして珍重されました。ただそれは生活に不可欠というほどのものではありません。そのような些細な収穫物の「十分の一」を丁寧に聖別することに熱心でありながら、「正義(さばき、公正)、あわれみ(慈悲、慈しみ)、誠実(真実、信仰)」という律法の核心を軽く扱っていると非難しました。
なぜなら「正義」も「あわれみ」も「誠実」も、「守ることができたか、できなかったか」かの評価が難しいものだからです。それに関してパリサイ人は、生活に適用できたかどうかを確認できなくなり、立場がなくなってしまいます。
なお、預言者ミカは、主が私たちに求めていることを、「公正(正義)を行い、誠実(慈しみ)を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むこと(信仰)ではないか」と言いましたが、それがこの三つのことばに対応します。
ただしイエスは、「十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」と言われました。
つまり、収入の「十分の一」を主に聖別することは新約の時代にも大切であると敢えて付け加えながら、「正義とあわれみと公正」を最も大切なこととして実行するようにと念を押されたのです。
さらに24節で、イエスはパリサイ人たちを再び「目の見えない案内人たち」と呼び、彼らは「ぶよ」のような小さな虫をこして除くことに熱心でありながら、らくだのように大きな、律法で食用に適さないと言われている動物を飲み込むという驚くべき罪を犯していると非難しました。
それは、彼らが「取税人や罪人」たちを社会から排除することに熱心でしたが、それは律法の本質である「真実の愛(旧約のヘセド)」を忘れることだからです (ホセア6:6参照)。
イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言われました (9:13)。
先のLGBTに関してはこれが罪かどうかと問う以前に、そのことで悩んでいる人を教会から排除したこと自体が、「らくだは飲み込んでいる」という態度だったと言えましょう。
25節からは「偽善」の本質が語られます。それは心の内側と見せかけの姿が全く異なることです。イエスは、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている」と非難しました。
イエスは先に、「彼らがしていることはすべて人に見せるためです」(23:5) と言われましたが、そのことが問題とされます。主はそのことを山上の説教で、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」と言われ、「施し」「祈り」「断食」において、「隠れたところで見ておられるあなたがたの父」を意識して行動するようにと勧めました。
パリサイ人たちの「強欲」とは、人の称賛を得ることに対する渇望であり、「放縦」とは「自制心の無さ」(Ⅰコリント7:5) とも記されるように、「聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたり」(23:5) などの見せかけを整えることに歯止めがかからない姿を指しました。
イエスはそれに対し、「目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる」と言われました。それは物理的には成り立ちませんが、霊的に解釈するなら、「杯の内側をきよめる」とは、「隠れたところで見ておられるあなたがたの父」をいつでもどこでも意識した行動を取るということで、そうするときに、父なる神とともに生きていることの心の平安が顔に現れるということではないでしょうか。
私たちは自分の心の乱れを隠そうと必死に笑顔の作り方などを訓練するかもしれませんが、それよりずっと大切なのは、自分の内側の葛藤や不安、怒りなどを正直に神に告白することです。
そのことが詩篇62篇では、「民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(8節) と勧められます。
また詩篇37篇では、「あなたの道を主 (ヤハウェ) にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように、あなたの正しさを真昼のように輝かされる」(5、6節) と記されています。
これこそ内側から外がきよめられるプロセスと言えましょう。
イエスはさらに彼らの偽善の問題を、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ」(27節) と指摘しました。
民数記19章16節には、「野外で……人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる」と記されていますが、「過越の祭り」などの食事の交わりに加わることができるためには、この「汚れ」から離れている必要がありました。
それで当時のユダヤ人は、過越しの祭りの前のアダルの月には、巡礼者の道に近くある墓を「白く塗る」ことで、巡礼者が誤って墓に触れることがないようにしていました。
それをもとにイエスは彼らに向かい、「同じように、おまえたちの外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」(28節) と言われました。
パリサイ人たちは周囲の人々には「正しい人(義人)」として見えることで社会に影響力を発揮しますが、内側はその反対に「偽善と不法でいっぱい」になっているため、人々を神から引き離すことしかできません。
これはダビデが自分の罪深さを正直に分かち合って、罪人たちを神に立ち返らせた (詩篇51:13) のとは正反対です。
イエスは「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(マタイ5:6) と言われましたが、パリサイ人たちは「偽善」によって表面的な「義(正しさ)」を見せるばかりで、「義に飢え渇く」という神への渇きを証しすることはありません。
外側の美しさは内側の汚れを隠す手段に過ぎませんが、パリサイ人の場合は「白く塗った墓」のように、近づく者を汚し、また傷つけることになるという驚くべき皮肉がここに込められています。
しかも、外から見える姿に精神を集中すればするほど、自分の心が見えなくなるものです。事実、イエスは「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」(5:8) と言われましたが、「心のきよさ」は「透明さ」を指すことばです。
自分の「心の闇」をまっすぐに見られることと、「神を見る」ことは切り離せない関係にあります。
3.「義人アベルの血から……地上で流される正しい人の血が、すべて……降りかかる」
さらにイエスは、七番目のことばとして、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、こう言う。『もし私たちが先祖(父たち)の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』
こうして、自分たちが預言者たちを殺した者たちの子(息子たち)であることを、自分らに対して証言している」(29–31節) と言われました。
ここで注目すべきは、「父(先祖)たち」「息子(子)たち」ということばの対比です。
たとえばダニエルは、「預言者エレミヤにあった主 (ヤハウェ) のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」ときに、「主に向けて断食し、粗布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって主を求め……『私たちは罪あるもので不義をなし、悪をもって逆らい、あなたの命令と定めから外れました。私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが、御名によって私たちの王たち、首長たち、先祖たち、民衆すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした』」と祈りました (9:2–6)。
そこでダニエルは自分を先祖たちと一体の者とし、「私たち」ということばで先祖の罪を自分の罪であるかのように告白しました。
ところがパリサイ人たちは、「父たち」の罪を指摘するばかりで、自分たち「息子」の時代も、同じ問題を引き継いでいることを認めようとはしませんでした。彼らは「先祖たち」がまったく別の人種であるかのように批判していますが、彼らを「父たち」と呼ばざるを得ないことで、自分たちがその父たちの息子たちとして同じ問題を受け継いでいることを認めざるを得ません。
たとえば、第二次大戦のとき、日本のほぼすべてのキリスト者は、神社参拝という偶像礼拝を行い、天皇を現人神かのように認める行動を取りました。私たちは先祖たちの偶像礼拝の罪を自分の問題かのように受け止めているでしょうか。
実は私たちは同じ日本人としての「同調圧力」の中に生きているということを認める必要があると思います。自分たちも先祖たちの時代に生きていたら同じ過ちを犯したのではないだろうかと認める謙遜さが見られないこと自体が、同じ過ちを繰り返す原因になります。
それに対しイエスは、「おまえたちは自分の先祖(父たち)の罪の升を満たすがよい。蛇よ、まむしの子孫よ、おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか」(32、33節) と非難しました。それは、彼らが蛇の誘惑によって神に逆らったアダムの子孫であることを真正面から認めない限り、神の目には同じ罪人に過ぎないからです。
自分の中に受け継がれている自己正当化というアダムの罪を真正面から認め告白しなければ、神のさばきを免れることはできません。それでイエスは皮肉を込めて、「なるべく早く神のさばきを受ける方が、子孫の救いにつながる」という趣旨のことを言われたのです。
その上で、イエスはご自分を神の「知恵」の立場に置き (箴言8章)、「だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが(現在形)、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る(下線部未来形)。それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキアの子ザカリアの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ」と言われます (34、35節)。
これは、自分たちが先祖たちとは違うと言っている者たち自身が、先祖たちにもまして神の知恵によって遣わされた者たちを迫害するという意味です。
ここでの「義人アベルの血」とは、アダムの最初の長男カインによって殺された最初の殉教者です。また「バラキアの子ザカリア」とはユダヤ人の聖書では最後に位置する歴代誌第二24章20–24章に登場する祭司エホヤダの子ゼカリヤと同一人物だと思われます。彼の名が聖書に登場する最後の殉教者として、当時のユダヤ人から尊敬されていたのでしょう。ただ、彼はアハブの娘アタルヤの圧政を生き延びた王ヨアシュによって殺された預言者で、イザヤやエレミヤよりも前の時代の人に過ぎません。
何よりもここでは、当時の聖書の最初から最後までの神に遣わされた者を、権力者たちが迫害し、殺したことが振り返られ、先祖たちの不信仰を責めている本人がその罪を大きく上回ることによって、それまでの罪に対するすべての報いをこの時代に実現させると言われます。
なおパウロもパリサイ人だった時、「主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き……会堂ごとに、あなたを信じる者たちを牢に入れたり、むちで打ったりしていた」と、主に自分の罪を告白していましたが (使徒9:1、22:19)、それは「神に対して熱心な者」(使徒22:3) としての生き方であったと振り返っています。
当時のパリサイ人たちは、神への熱心のゆえに「町から町へと」、キリストに従う者たちを「町から町へと迫害して回っていた」というのです。
パリサイ人たちはイエスが預言された「救い主」であることを真っ向から否定し、初代教会のクリスチャンたちの群れを破壊し続つけていました。彼らはイエスが救い主であることを否定することによって、先祖たちの罪にも勝る罪を犯してしまいます。
それに対してイエスは、「まことにおまえたちに言う。これらの報いはすべてこの時代の上にふりかかる」と言われました (36節)。それは、ヘロデによって大拡張工事がなされたばかりのエルサレム神殿とエルサレムの町が、ローマ帝国によって廃墟とされるというさばきとして現わされます。彼らはバビロン捕囚にまさる厳しい神のさばきを招くことになってしまいます。
当時の「律法学者、パリサイ人」たちは、生活に困ることもなく、社会的な尊敬を受けており、既得権益を守る思いから、イエスの「天の御国」の教えを迫害する側になりました。
一方、イエスは迫害を受ける弟子たちに対し、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです」と言われました (5:12)。
それは「死んだ後、天国で慰めを受ける」という意味ではなく、当時の宗教指導者へのさばきが「この時代の上に」目前に迫っている (35、36節) こととの対比で、イエスの弟子への「報い」が、今から永遠に続くことを約束しておられたという意味です。
しかもイエスに従う者は、「今、ここで」、迫害のただなかでも、「大いに喜ぶ」ことができますが、それは永遠の喜びの始まりとも言える大きな神の祝福です。そこから、「味わい、見つめよ、主 (ヤハウェ) のすばらしさを」(詩篇34:8) いう勧めの意味を、ともに味わうことができます。