ネヘミヤ11章1節~13章3節「主を賛美する群れとしての成長」

2022年4月3日

聖書の民の礼拝の最大の特徴は、そこに豊かな音楽があることです。それは共同体として専門の聖歌隊や楽器奏者を支えることから生まれます。

ダビデの何よりの遺産は、詩篇の賛美とともに、専門家を育て賛美を組織化したことにあります。ルターの宗教改革の特徴もその音楽の豊かさにありました。

しばしば福音的な教会の礼拝では、みことばの説教が前面に出て、聖歌隊賛美や会衆賛美、祈りにおける音楽の用い方が軽く扱われる傾向があるかもしれません。しかし、それは聖書が描く礼拝の姿ではなりません。説教と同時に、主への賛美に注目する必要があります。

バビロン捕囚から帰還した民にとっての最大の憧れは、ソロモンが建てた神殿が栄光の雲に包まれたことでした。それは次のように記されていました。

「歌い手であるレビ人全員、すなわち、アサフ、ヘマン、エドトン、および彼らの子たちや兄弟たちも、亜麻布を身にまとい、シンバル、琴および竪琴を手にして祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにラッパを吹き鳴らしていた。ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、主 (ヤハウェ) を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主 (ヤハウェ) に向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわち(ヤハウェ) の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。(ヤハウェ) の栄光が神の宮に満ちたからである」(Ⅱ歴代5:12–14)。

1.「組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に基づき、賛美をして感謝をささげた」

11章には城壁が再建されたエルサレムに住んだ人々の名が記されています。6章までで城壁の再建の様子が感動的に描かれ、7章4節で当時の様子が、「この町は広々として大きかったが、その中の住民は少なく、家もまだ十分に建てられてはいなかった」と記されましたが、それに続くのが今日の箇所です。

エルサレムはまだ周辺国からの攻撃にさらされる可能性が高く、それぞれの農地は離れており、人々が積極的に住みたいと願うような魅力的な町にはなっていなかったのかと思われます。

ネヘミヤは城壁の修復作業を52日間で完成するという驚くべき速さで町の外面を整えましたが (6:15)、その後、すぐに城壁の奉献式を行う代わりに、信仰共同体としての中身を整えることに多くの労力を費やしました。

5章では、城壁工事の真っ最中、自分の子供を奴隷に売らなければならない貧しい同胞のために、借金の抵当や利子を返すように強く迫ったことが記されました。6章では城壁の完成が、7章では系図の見直しのことが描かれ、8章では城壁完成直後に盛大に祝った仮庵の祭りの様子が記されます。

そこで強調されたのは、「主を喜ぶことはあなたがたの力である」(8:10) ということでした。そして、9章ではイスラエルの民がそろってモーセの律法の朗読に耳を傾け、悔い改めの祈りをささげていましたが、その中心は、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です」(9:36) という訴えでした。

そして、10章では女性や子供を含む、すべての民が、律法を守るという堅い盟約を結んだと記されました。その中心は、安息日を初めとする「時を聖別する」ことと、十分の一のささげものに象徴される「収穫の実を聖別する」ことでした。

つまり、ネヘミヤは、エルサレムの城壁を再建するということ以上に、イスラエルの民を真の神の民の共同体として整えるということに何よりも心を配っていたのです。私は長い間、新約につながるイスラエルの信仰共同体が、これほどまでにネヘミヤの共同体改革に負っているということに気づいていませんでした。

11章1節は、「民の指導者たちはエルサレムに住んだ」という新しい動きとして訳すべきでしょう。多くの英語訳は「Now(今や)」から始めています。なぜなら、城壁再建の最中、ネヘミヤが民に「それぞれ自分の配下の若い者と一緒に、エルサレムの内側で夜を明かすようにしなさい」(4:22) と敢えて命じる必要があったほどに、人々は離れた町に自分の家を持っていたからです。

そして、「それ以外の民はくじを引いて、十人のうちから一人ずつ、聖なる都エルサレムに来て住むようにし」(1節) と不思議な記され方がします。それは人の目にはまだ危険な町が、神の目には祝福されているという意味でした。

その上で4–6節ではエルサレムに住んだユダ族の系図が、7–9節はベニヤミン族の系図が記されます。興味深いことにⅠ歴代誌9章では、「エルサレムには、ユダ族、ベニヤミン族、エフライムおよびマナセ族の者が住んだ」(3節) と記されます。

つまり、失われた北の十部族の一部もエルサレムに住んだと記されているのです。それは新しい神の民としての真の意味でのまとまった再出発のときだからです。

11章10–14節にはエルサレムに住んだ祭司の系図と人数が、15–18節にはレビ人の系図と人数が記されています。

特に17節では、「祈りの時に感謝の歌を歌い始める指導者……副指導者」のことが言及されます。また19節には「門衛」のことが記されますが、Ⅰ歴代誌9章17–32節には彼らの働きが、「神の宮」を守るとともに、礼拝の際の様々な用具や香料などを整える大切な働きであると描かれます。

そして22、23節には「レビ人の監督者ウジ」のことが、「アサフの子孫の歌い手の一人で、神の宮の礼拝を指導していた」と「アサフの賛歌」などで知られる由緒ある「歌い手」の伝統のことが記されます。Ⅰ歴代誌25章には、ダビデの時代の「主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった」(7節) と描かれた者の系図が記されていました。

さらにこの23節では、「歌い手たちには王の命令が下っていて、日課が定められていた」と、神殿礼拝において主への賛美の歌がどれほど尊重されていたかが明らかにされます。なお、ここでの王とは12章24節からするとダビデ王の命令と考えられますが、24節での王とはペルシアの王を指していると思われます。どちらにしても「歌い手」の背後には厳かな王命があったというのです。

25–30節にはユダの子孫が住んだエルサレム以外の町々が記されます。キルヤテ・アラバとはヘブロンのこと、27節のベエル・シェバとはそのはるか南です。エルサレムこそユダ族の中心都市でした。

また31–35節にはベニヤミン族の居住地が記されますが、それはエルサレムの北西に広がっていました。

12章1–11節には紀元前537年にエルサレムに戻ったバビロン捕囚からの第一次帰還者の祭司とレビ人の名が記されます。

また12節のエホヤキムとは第一次帰還の大祭司ヨシュアの後継者で (10節)、これ以降の祭司とレビ人は、約90年後の紀元前445年に帰って来たネヘミヤの時代の人々です。彼らの名は廃墟エルサレムで主への礼拝を復興させ、受け継いだ者たちとして、永遠に記憶されました。

興味深いのは、12章8節では「感謝の歌を受け持っていたのはマタンヤとその兄弟たちであった。また彼らの兄弟……は向かい側に立った」と記され、24節では組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に基づき、賛美をして感謝をささげた」とペアーになった聖歌隊の働きが特筆されることです。

新しい神の都では、聖歌隊の働きが何よりも重視されていました。ダビデが記した多くの詩篇には、それぞれ固有のメロディーがついて歌われるようになっていたと思われます。それは二つのグループに分かれて、交互の歌うように作られていました。レビ人たちは、それを親から子へと代々受け継いでいったのです。

私たちの礼拝でも、翻訳しなおした交読文の形で、多くの場合、それぞれの節の前半と後半を分けて朗読するようにしていますが、詩篇にはことばとともに読み方、歌い方が指定されていました。

残念ながら、三千年前の歌い方は想像もつきません。今後の研究に任せたいと思いますが、詩篇を二つに分かれた聖歌隊が組になって、交互に歌ったということは確かです。

そして、エルサレムを聖なる都として建てなおす何よりの原動力は、主への賛美にあったということを私たちは思い起こすべきでしょう。

2.「ユダの長たちを城壁に上らせ、感謝の歌をささげる二つの大きな賛美隊として配置し」

12章27–43節には「エルサレムの城壁の奉献式」のことが描かれます。31節でネヘミヤ自身の働きが「私」という主語とともに登場するのは7章5節以来です。彼は城壁の完成直後に奉献式を行う代わりに、イスラエルを神の民の共同体として整えることを最優先しました。

そしてこの奉献式では聖歌隊の働きが重んじられ、「あらゆる場所からレビ人を捜し出してエルサレムに連れて来た。シンバルと琴と竪琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びをもって奉献式を行うためであった。歌い手たちは、エルサレムの周辺の低地やネトファ人の村々から、またベテ・ギルガルや……の農地から集まって来た(27–29節) と描かれます。

さらにその理由が「この歌い手たちは、エルサレムの周辺に自分たちの村々を建てていたのである」(29節) と説明されます。彼らはエルサレムと自分の村を行き来するようにして奉仕していたのだと思われます。礼拝のための奏楽や聖歌隊賛美は、レビ人にとっての最も大切な責任と見られていました。

さらに奉献式の始まりに際し、「祭司とレビ人は自分たちの身をきよめ、また民と門と城壁をきよめたと記されます (30節)。

これは奉仕者が水を浴び衣服を洗い全焼のいけにえを献げ (民数記8:5–13)、また、「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を……振りかける」(ヘブル9:13、民数記19章) ことによってなされました。

その上でネヘミヤは、「ユダの長たちを城壁に上らせ、感謝の歌をささげる二つの大きな賛美隊として配置し」(31節)、それぞれ左右別の方向から城壁を半周させて神殿で合流させるようにします。

その出発点はエルサレムの南半分のダビデの町の西側の「谷の門」であったと思われます。そこはネヘミヤが最初に町の城壁を密かに調べたときの出発点でした (2:13)。

そしてこのとき「一組は城壁の上を右のほうに糞の門に向かって進んだ」と記され、この隊は反時計回りに谷の門から南端に向かい、その中心には学者エズラがいて (36節)、民の長たちの半分が従いました。その際、35節では祭司たちのある者はラッパを持ちと描かれ、36節でのレビ人たちは神の人ダビデの楽器を持って続いた」と描かれます (Ⅰ歴代誌23:5参照)。

そして、彼らの歩いたルートが、「彼らは泉の門のところで、城壁の上り口にあるダビデの町の階段をまっすぐに上り、ダビデの家の上を通って、東のほうの水の門に来た」(37節) と描かれます。

そして12章38節では、「感謝の歌をささげるもう一組の賛美隊は左のほうに進んだ」と記されますが、これは谷の門からエルサレムの西側を時計回りに北上するルートで、その中心にはネヘミヤがいました。

その進み方が私はそのうしろに従った。民の半分は城壁の上を進み、炉のやぐらの上を通って、幅広の城壁のところに進み、エフライムの門の上を通り……魚の門と、ハナンエルのやぐら……を過ぎて、羊の門まで進んだ」(38、39節) と描かれます。「羊の門」とは、神殿北部のいけにえを運び入れる門でした。

その最後に、その少し東にある監視の門で立ち止まった」と描かれるのは、この二つの組がそこで落ち合って、神の宮に入ったからでしょう。この二つの賛美隊に導かれた民は、半分ずつに分かれて、城壁の上を一周し、神殿での礼拝に臨んだのです。

その結論が「こうして、感謝の歌をささげる二つの賛美隊は神の宮で位置に着いた。私も、私とともにいた代表者たちの半分もそうした」(40節) と描かれます。

その際、彼らは詩篇48篇を歌いつつ城壁の上を歩いたのかもしれません。次の箇所が印象的です。「主 (ヤハウェ) は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山 私たちの神の都で……北の端なるシオンの山は大王の都。神はその都の宮殿でご自分を砦として示された……

シオンを巡り その周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなく われらの神。神は 死を超えて私たちを導かれる」(1、2、3、12–14節)

41節には、エルサレム神殿の庭に入った七人の「祭司たち……もラッパを持って、そこにいた」と描かれ、42節では8人のレビ人の指導者の名が記され、「歌い手たちは歌い、イゼラフヤが指揮をした」と記されますが、彼はウジの子だと思われます (Ⅰ歴代誌7:3)。

ですから、ここでは民の指導者たちが前に立っている中で、イザラフヤの指揮で二つの聖歌隊が詩篇の賛美を交互に歌ったのだと思われます。

そしてその結論が、「彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」と描かれます (12:43)。

神殿の礎が築かれた際には、喜びの叫びと民の泣く声が混ざっていましたが (エズラ3:12、13)、このときは喜びの声」で満たされ、それが遠くまで聞こえたというのです。とにかく彼らはこの日、数多くのいけにえをささげるとともに「喜び歌った」のでした。

新約の時代は、イエスの十字架によって動物の犠牲の必要はなくなりました。それで、「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか」(ヘブル13:15) と勧められています。

3.「全イスラエル人は、歌い手と門衛のために定められた分を日ごとに渡していた」

12章44節では突然、「その日、財宝や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人たちが任命され、祭司とレビ人のために律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた」と記されます。これは祭司やレビ人の働きを民全体でささえるということを改めて明確にしたものです。

そしてその理由が、「これは、職務についている祭司とレビ人をユダの人々が喜んだからである」と記されます。

そして、神殿奉仕者のことが、「彼らは、自分たちの神への任務ときよめの任務を果たした。歌い手や門衛たちも同様であった。ダビデとその子ソロモンの命令のとおりである」(12:45) と描かれ、その由来が、「昔から、ダビデとアサフの時代から、歌い手たちのかしらがいて、神への賛美と感謝の歌がささげられた」(12:46) と改めて描かれます。

そしてバビロン捕囚からの帰還者が何よりも主への賛美を大切にしたことが、「ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代、全イスラエル人は、歌い手と門衛のために定められた分を日ごとに渡していた」(12:47) と描かれます。

その際、レビ人には民の収入の十分の一が分けられ、レビ人の収入の十分の一はアロンの子孫である祭司に分かち合われました。現在の教会の礼拝では動物のいけにえをささげる必要はないのですから、その分、このダビデやネヘミヤの伝統に従って、礼拝賛美の奉仕者をみなで支え、礼拝音楽をより豊かにするという工夫があっても良いかもしれません。

13章1節では「その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった」と記されます。

これは申命記23章3–5節に由来し、その理由がここでは「それは、かつて彼らが、パンと水をもってイスラエル人を迎えることをせず、かえってバラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからであった。私たちの神はその呪いを祝福に変えられた」(13:2) と改めて記されます。

これによってイスラエルの民は祝福されましたが、「アモン人とモアブ人」は自分たちに「呪い」を招くことになりました。神の民を呪う者は自滅せざるを得ません。ただ、モアブの女ルツの場合のように、その信仰のゆえに神の民へと加えられ、ダビデ王家の先祖となる者もいました。神はひとりひとりの信仰を見ておられます。

ただこのときは「民はこの律法を聞くとすぐに、混血の者をみなイスラエルから切り離した」(13:3) と描かれます。これは、非常に厳しい措置のように思われますが、エズラの改革の基本が外国の女をすべて追い出すことであったのですから、当然とも言えます。

彼らは神の民としての純粋さを保ち、それを後の子孫に受け次ぐ必要がありました。彼らは神の民としてようやく約束の地に戻され、これから再出発を図ろうとしていました。小さな妥協が、神の民の存在価値自体を無に帰してしまう可能性があったのです。

ネヘミヤ記で何よりも感動的なのは、城壁の再建という外枠の働きと並行して、主を礼拝する共同体としての形が整えられて行くプロセスが記されていることです。バビロン捕囚から解放された神の民は、祭司やレビ人が礼拝音楽において訓練され、それを通して民の礼拝を導くということを重んじました。

そこには何と多くの礼拝音楽の専門家が育っていたことでしょう。今も昔も、音楽の訓練にはお金と時間が必要ですが、彼らはそれを共同体として支えていたのです。私たちも今、礼拝音楽をより豊かにするためにそのような原点に立ち返って考える必要があるかもしれません。

そこにはもちろん、みことばの学びが何よりも大切ですが、その中には詩篇の構造に従って、それを交読することの大切さも含まれます。

旧約の時代と新約の時代の何よりの区別は、動物のいけにえをささげる必要がなくなったということにあります。しかし、旧約の時代から現代まで一貫して流れている礼拝の形の強調点が礼拝音楽にあるということを、多くの人は忘れているのではないでしょうか。

主への賛美は、レビ人にとって親から子へと受け継がせる最大の働きでした。そして、祭司やレビ人にとって、最高の奉仕とは、主を賛美すること、会衆の賛美をリードするということでした。礼拝音楽はみことばの説教と並んで礼拝の要です。

なお、ネヘミヤのときは、栄光の雲が宮に満ちはしませんでした。彼らはそれを実現する「救い主」を待ち望んでいました。それから約500年近くたって、神の御子がエルサレム神殿に入って来られました。人々はその方を十字架にかけましたが、主は三日目に死人の中からよみがえり、神の栄光を現されました。

そのことは「キリストは人の手で造られた聖所に入られたのではありません。それは本物の模型に過ぎないからですが、天そのものに入られたのです(ヘブル9:24私訳) と説明されます。

キリストこそ最高の神の栄光の現れでした。それゆえ新約時代の礼拝のことが、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」(コロサイ3:16) と記されています。そのような礼拝を目指しましょう。