ネヘミヤ9、10章「神の真実を思い起こす」

2022年3月20日

キリスト教会では、時に、神のさばきを語り、罪の自覚を強く促した上で、十字架による赦しの喜びを告げようとしますが、それは人を委縮させる方向に働く場合があります。しかも、恐怖心によって人を支配するのは、人を奴隷状態に留めることに他なりません。

しばしば、「あの人は、罪の自覚が足りないから、救いが分からない」と言われることがあり、それは確かに間違ってはいないのですが、それよりも切実なのは、生きることへの不安や心の奥底にある無力感、主体性のない奴隷根性ではないでしょうか。

9章に記されるレビ人たちの祈りは、旧約の時代のほとんど最後で、旧約聖書の要約とも言えます。その内容は「神の真実を思い起こす」という一言で表現できましょう。それは神の愛の物語と言えます。

1.「あなたは正しい方だからです……彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与え」

9章1節の「その月の24日に、イスラエルの子らは集まって断食をし、荒布をまとって土をかぶった」とは、仮庵の祭りが終わった直後に、罪を告白する集会を持ったという意味です。

これは通常のリズムの逆です。レビ記23章27節では、現在の9~10月にあたるこの月の十日が「宥め(贖罪)の日」で、その日に、断食をして全国民が悔い改めの祈りをささげました。

しかしこのときは、城壁の再建を心から喜び、ヨシュア以来の盛大な仮庵の祭りを祝い、豊かな祝宴の時を持ちました。この断食の集会は、それに続くものです。主の導きを心から喜んだ上で、真剣な悔い改めに導かれるというのは極めて合理的です。

そこで「イスラエルの子孫はすべての異国の人々と関係を絶ち、立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した」(9:2) とは、エズラ9、10章の連続です。外国人の妻を娶った者は、彼女たちと縁を切り、神の民としての自覚を深める必要がありました。

そして、「彼らは……立って、昼の四分の一は、彼らの神、主 (ヤハウェ) のみおしえ(律法)の書を朗読し、次の四分の一は、彼らの神、主 (ヤハウェ) に告白をして礼拝した」(9:3) と記されますが、彼らは一日の半分を主との交わりのために用いました。

いけにえを献げることよりも、みことばの朗読を聞き、罪の告白に多くの時間を費やすことが礼拝の中心となって行きました。

それから「ヨシュア、バニ、カデミエル……」など八人のレビ人は、「レビ人の台の上に立ち」、「彼らの神、主 (ヤハウェ) に向かって大声で」「叫び」ながら賛美をリードします (9:4、5)。

その核心は、「ただ、あなただけが主 (ヤハウェ) です。あなたは天と、天の天と、その万象を、地とその上のすべてのものを、海とその中のすべてのものを造られました。あなたはそのすべてを生かしておられます。天の万象はあなたを伏し拝んでいます」(9:6) というもので、イスラエルの神が全宇宙の創造主であることを告白することでした。

イスラエルの歴史は、神がアブラハムを選んで、「カナン人、ヒッタイト人、アモリ人……の地を、彼の子孫に与えるとされ……約束を果たされ」(9:8) ということに始まります。そのことは創世記15章に記されていますが、その約束がダビデ、ソロモンの時代に成就しました。

その理由を、「あなたは正しい方だからです」と述べられますが、これこそ聖書のストーリーの核心、「神の真実」を表現したものです。なお、6節の初めと、8節の終わりでは、ヘブル語の「あなた」という人称代名詞に注目が集まるように記されています。あなただけが主 (ヤハウェ) ……あなたは正しい方だからです」ということばの重さを味わってみましょう。

さらに9章9節では、先の「あなた」を受けて、「(あなたは)エジプトで私たちの先祖の苦難を見て……ファラオとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、数々のしるしと不思議を行われ……私たちの先祖の前で海を裂き……昼間は雲の柱の中にあって彼らを導き、夜は火の柱の中にあってその行くべき道を照らされました」(9:10–12) と記されます。これはエジプトからの脱出の要約です。

13節では律法の授与が、「(あなたは)シナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことのみおしえ(律法)、良き掟と命令を彼らにお与えになりました」と描かれます。シナイ律法の中心の「十のことば」は「集会全体に大声で告げられた」ものでした (申命5:22)。それは人を罪に定める基準である前に、イスラエルの民を神の民として整えるために神からの最高の贈り物でした。

その中心は「あなたの聖なる安息(シャバト)彼らに教え」るものでした (9:14)。実は安息日律法こそ、主からの最高の恵みの教えなのです。労働がすべての富の源泉となると思う人は、権力や富の奴隷となる可能性があります。それで、主は、ご自身の恵みこそがすべての源であることを荒野の旅路を通して教え、「彼らが飢えたときには、天からパンを、渇いたときには、岩から水を出し」、働くことができない彼らの必要を満たされました (9:15)。

9章17節では、不思議にも「彼らは聞き従うことを拒み……奇しいみわざを思い出さず、かえってうなじを固くし、逆らって奴隷の身に戻ろうとしました」と描かれます。イスラエルの民は、自由な民となるように召されたその始まりの時期に、目に見えない神を愛し、安息日を守るという主体的な生き方よりも、考えること自体を停止する奴隷の状態に戻ることを望みました。

第二次大戦時にドイツ人をマインドコントロールする先頭に立ったナチスの宣伝大臣だったゲッペルスは、「民衆は上品に支配されること以外なにも望まない」と豪語しましたが、残念ながら多くの人は、明日何が起こるかわからない新しい冒険に踏み出すよりも、何も考えなくてもパンが与えられる奴隷のような状態を待ち望んでいる面があります。

そしてイスラエルの最も大きな罪が、「自分たちのために鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ』と言って、ひどい侮辱を加えた」ことでした (9:18)。

しかしそれにもかかわらず19節では再び「あなた」が強調され、あなたは大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れず、道中を導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました」と描かれます。

ただし、主が彼らに示されたのは、その日その日の導きであって、一年後、二年後の計画ではありません。それは私たちにも言えます。それはヘンリ・ナウエンが、「今から一年、十年、二十年後に、私たちはどこにいるかを知らない。しかし、わかっていることは、人間は苦しむものであり、その苦しみを分かち合うことにより前進することができるということである」と言っている通りです。

なお9章20節では、不思議にも「(あなたは)彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与え」と、聖霊が与えられたことが描かれます。これは極めて珍しい表現で、先に彼らが「奴隷の身に戻ろうと」願った状態を逆転させる神のあわれみです。

さらに続く「彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには水を与え……四十年の間……養われました。彼らは荒野で何も不足することなく、上着はすり切れず、足も腫れませんでした」(9:20、21) という表現は申命記8章2-4節に由来します。

イエスは荒野で空腹を覚え、悪魔から石をパンに変えるようにとの誘惑を受けたときに、この申命記を引用し、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4) と言われました。

主は、彼らの信仰を成長させるために、試練とパンをセットで与えてくださいました。私たちの人生でも、振り返って見ると、試練とパンはセットで与えられていたのではないでしょうか。しかし、私たちはしばしば待つことができず、目先の現実に不満ばかり言います。これこそ、聖霊の導きを拒否する、奴隷根性と言えましょう。

2.「あなたは、情け深くあわれみ深い神です……ご覧ください。私たちは今、奴隷です」

9章22–24節では、主が目に見える地上の王たちとの戦いに勝利を与え、約束の地を占領させてくださったことが描かれます。そこでの「あなたは彼らの子孫を空の星のように増やし、彼らの先祖たちに、『入って行って所有せよ』と言った地に、彼らを導き入れられました」(9:23) という告白は、創世記15章のアブラハム契約の要約と言えます。

その上で、ダビデ、ソロモン時代の繁栄に至る祝福が、「こうして、彼らは城壁のある町々と肥えた土地を攻め取り、あらゆる良い物に満ちた家、掘り井戸とぶどう畑、そしてオリーブと果樹を豊かに手に入れました。彼らは食べて満腹し、肥え太って、あなたの大いなる恵み(善)を楽しみました」(9:25) と振り返られます。

ただ、その祝福の中での落とし穴が、申命記8章17節で、「あなたは心のうちで、『私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」と警告されていました。まさに彼らの転落は、「食べて……肥え太った」ところから始まったのです。

そのことが26、27節では、「しかし、彼らはあなたに逆らい、反逆して、あなたの律法をうしろに投げ捨て……彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、数々のひどい侮辱を加えました。そこであなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました」と描かれます。

興味深いのは27、28節には、「彼らが苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ……敵の手から救われるようにし……しかし、一息つくと、彼らはまたあなたに悪事を行い……あなたは彼らを敵の手に捨て置き……彼らが再びあなたに叫び求めると……たびたび彼らを救い出されました」という、士帥の時代と同じことが記されていることです。

これはダビデが過ちを繰り返し、また赦してもらい、救い出されたことを指すと同時に、ソロモン以降の王の時代をも描いたものです。

ただ後の時代の悔い改めはますます不徹底な状態になり、そのことが、「あなたは彼らを戒めて、あなたの律法に立ち返らせようとされました。しかし、彼らは傲慢にふるまい……肩を怒らして、うなじを固くし、聞き入れようとはしませんでした」と描かれます (9:29)。

それに対する主の対応が、「それでも、あなたは何年も彼らを忍び、あなたの霊により、あなたの預言者たちを通して彼らを戒められました」と記されます。

それにも「耳を傾け」なかった民に対する主のさばきが、「そのため、あなたは彼らを地のもろもろの民の手に渡されました」と描かれます (9:30)。これはアッシリア帝国によって北王国イスラエルが滅ぼされ、南王国ユダがバビロンによって滅ぼされたことを指します。

信仰の落とし穴に、「安価な恵み」ということばがあります。それは、「神は最終的には赦してくださる」という確信のもとに、罪を犯すことに心を痛めなくなることです。しかしそれは、カエルを水に入れて時間をかけて水を徐々に熱くして行くと、痛みを感じることなく「ゆでガエル」になるという作り話と同じです。神は良心の麻痺した者たちを悔い改めに導くため、彼らを国の滅亡というどん底に落とす必要がありました。

31節では、「しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことはせず、お見捨てにもなりませんでした」ということばで6節以降の歴史の振り返りが閉じられます。

神は、イスラエル王国を滅ぼすことによって、ユダヤ人を「神の民」として整えられました。皮肉にも彼らはバビロン捕囚という苦しみを経て初めて「神の真実」に目覚め、現代まで続く神の民としての自覚を持つようになりました。そのことが最後に再び「あなた」が強調され、あなたは、情け深くあわれみ深い神です」と言われます。

そして32節では、「そして今、私たちの神、大いなる神よ。力強く恐るべき方、契約と恵み(ヘセド)を守られる方よ」と呼びかけて、神の「契約と恵み(ヘセド、真実の愛)」に訴えます。

その上で嘆願の内容が、「どうかすべての困難を御前に小さなこととしないでください、私たちと私たちの王たち……あなたの民全体に降りかかったものを、アッシリアの王たちの時代から今日までの」と述べられます。これは、自分たちは「小さくない」十分にさばきを受けたので、再び回復させてくださいという率直な懇願です。

一方で33節では8節と全く同じように「あなた」を強調して「あなたは正しくあられます」と宣言し、「私たちにふりかかったすべてのことにおいて」と、それが神の公正なさばきであったことを告白します。

そのことが、さらに「あなたは真実(エメット)を行われましたが、私たちは悪を行ったのです」と言われます。その上で34、35節ではバビロン捕囚に至る歴史を振り返りながら自分たちの罪を告白します。

そして、36節では再び、自分たちの悩みを訴えながら、「ご覧ください。私たちは今この日)、奴隷です。この地で、あなたが私たちの先祖に与え、その実りと、その良い物を食べるようにされたところの。ご覧ください、私たちは奴隷です、ここで」と、「奴隷」ということばを強調しながら、神にある真の救いを求めます。

彼らはこのとき、ペルシアの王のもとで束の間の平和と繁栄を享受し、エルサレム神殿も城壁も再建することができましたが、彼らの立場は、王の心次第ひとつで変わる不安定なものです。実際、その後も、ギリシャ、ローマなどの異教徒の王に支配され続けることになります。

ただ37節では、彼らを「あなたが私たちの上に立てられた王」と呼び、自分たちを支配する地の王たちが、イスラエルの神の支配下にあると告白します。ただ同時に、「私たちは大きな苦しみの中にいます」と、神のあわれみを願います。

イエスの時代の人々も、この「奴隷」状態から解放を願っていました。ただ、目に見えるローマ帝国の支配を打ち破っても、次の地上の王国は必ず次の奴隷状態を生み出します。奴隷根性のままの人間は、目先の恐怖にばかり反応するからです。

しかし主の救いは、この世の王国の暴力による支配、すなわち「死の力」を無力化することでした。ヘブル書の著者は、神の御子が人となり十字架にかかられた意味を、「それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、無力化するためであり、また、死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」と記しています (2:14、15)。

3.「このようにして私たちは、自分たちの神の宮をなおざりにしない」

これらの祈りに同意した者たちが、「これらすべてのことのゆえに、私たちは盟約を結んだ、文書によって、それに、私たちの高官たち、レビ人たち、祭司たちは印を押した」(9:38) と描かれます。

そして、10章では、印を押した者のリストが「総督ネヘミヤ」を先頭に、「祭司、レビ人、民のかしら」たちの順番に記されます。

興味深いのは28、29節では、「このほかの民……宮のしもべたち、また、諸国の民と関係を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々と歩調を合わせつつ……主 (ヤハウェ) のすべての命令、その定めと掟を守り行うという、次のようなのろいの誓いとに加わった」と記されます。これは子供までも含む盟約でした (8:2参照)。

「のろいの誓い」とは契約の当事者が、契約を破った者たちを、「二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする」(エレミヤ34:18) と宣言することで、「のろい」が警告されることを指します。

ユダ王国滅亡の直前、ゼデキヤ王は主に立ち返ってヘブル人の奴隷を解放すると一度は約束しましたが、政治状況が一時的に好転すると、約束を反故にしました。その無節操な王に「のろい」が下されました。彼はバビロンの王に捕えられ、目の前で子供たちが虐殺された後、目をつぶされ、青銅の足かせにつながれてバビロンに連行されました (同39:6、7)。奴隷根性に支配された王の結末でした。

そして彼らが結んだ盟約の内容が30節から記されます。それは第一に、「私たちの娘をこの地の民に与えず、また、彼らの娘を私たちの息子の妻にとしない」という、エズラ記9、10章の再確認でした。

第二は、「諸国の民が安息日に商品……穀物を売りに持って来ても……安息日や聖なる日には彼らから買わない」(10:31) という安息日律法に関わるものでした。実際の仕事では大きな覚悟が求められます。

第三は、「私たちは七年目には土地を休ませ、あらゆる負債を免除する」(10:31) というものです。土地の休息はレビ記25章に記され、土地の生産力を回復させるためです。これはサバティカル(長期休暇)の起源です。

また、申命記15章では、七年に一度、同胞に対する負債を免除するという規定がありました。その際、奴隷も解放されました。これは、貧富の格差が広がることへの大きな歯止めになりました。

第四は律法には記されていない盟約で、「神の宮での礼拝のために、毎年シェケルの三分の一を献げる義務を自らに課す」(10:32) というものでした。これは神殿礼拝をより豊かなものにするためにそれぞれが犠牲を払うという約束でした。

現代の私たちの礼拝においても、毎回、決められたことを続けるというのではなく、礼拝を豊かにするために、主体的に互いに犠牲を払うという約束が求められています。

第五は「薪のささげ物」に関しての約束でした (10:34)。これは「主 (ヤハウェ) の祭壇」の火を燃やし続けるために、誰かの命令に従うというより、担当者が自ら進んで、「くじ」で当番を決めるというものでした。

第六は「初なり(初穂)」の献げもの約束でした (10:35)。私たちも収穫の初穂を、労働の報酬と見る前に主に感謝して献げるという思いが大切です。それは子どもや家畜の初子にも適用されました (10:36)。

第七は「十分の一」を主のものとするという約束です。なお「土地の十分の一はレビ人たちのものとする」(10:37) とは、土地の収穫の十分の一の収穫作業自体をレビ人に任せるという意味です。さらに彼らはその十分の一を神の宮に携え上るように命じられました。

そして、それらの結論として、「このようにして私たちは、自分たちの神の宮をなおざりにしない」(10:39) と記されます。収穫の十分の一は、神殿で奉仕をする人々の手に渡り、奉仕者が受ける十分の一が神殿に直接ささげられました。このシステムが機能するとき、礼拝は常に祝福され、主への礼拝を中心として神の民が祝福を受けることができました。

ネヘミヤの改革のもとで、彼らが改めて律法を読み、それを実生活に適用するために約束したことは、現代の私たちにも多くの示唆を与えるものです。そこには民の主体的な応答が認められます。

神は、反抗的で恩知らずなイスラエルの民を、忍耐をもって導きました。神は彼らに、神を恐れることを教えるために、様々な試練を与えました。

彼らはそれを通して「神の真実」に応答する責任を自覚できるようになりました。私たちも、自分の信仰心によってというより、神の真実によって、救われるのです。

信仰の成長とは、「神の真実」に関して霊の目が開かれて行くことに他なりません。そのとき人は、目先の恐怖に反応する代わりに、不安定な中で神の救いを待つという心の自由を持つことができます。

なお、律法の核心は、何よりも、安息日の教えにあります。それは人間を、富や権力の奴隷にしないための教えでした。

そして、隣人愛の核心とは、人を力で脅して動かそうとしないことです。イスラエルが七年に一度、奴隷を解放し、借金を棒引きにしていたら、その地は地上の楽園になっていたことでしょう。