マタイ21章33〜46節「捨てられた要(かなめ)の石の上に建てられる」

2022年3月6日

すべての国は、内側から滅びると言われます。日本が第二次大戦を始めた無謀さも確かに問題なのですが、誰も目にも敗北が明らかになりながら、戦争を終結させる指導力が日本の政治になかったということが、東京大空襲ばかりか二度の原爆投下を招いた原因とも言えましょう。

誰のために政治権力を与えられているかを忘れた指導者が国を治めていた悲劇です。それは現代の大国にも言えます。

イエスの時代のユダヤ人たちは自分たちの独立国を作ることを憧れてきました。しかし、かつて繁栄を極めたダビデ王国は二つの王国に分裂し、互いの足の引っ張り合いによって滅びました。

その後、捕囚から帰還したユダヤ人たちはペルシア、ギリシャの支配下で細々と自治権を与えられますが、ユダ・マカベオスによる独立運動によって築かれたハスモン王朝は、内部分裂によってローマ帝国の支配に屈することになります。

そして、イエスの時代のユダヤ人の国も、内部分裂のあげくに愚かな独立闘争に走り、滅びました。地上の神の国を実現するはずが、みにくい権力闘争によって自滅したのです。

1.「ある家の主人が……ぶどう園を造って……それを農夫たちに貸して旅に出かけた」

21章33節でイエスは、「もう一つのたとえを聞きなさい」と言っておられます。これは「ぶどう園と二人の息子のたとえ」に続く「たとえ」で、一連の会話は、「祭司長たちや民の長老たち」がイエスに「何の権威によってこれらのことをしているのですか、だれがあなたにその権威を授けたのですか」(21:23) と尋ねたことから始まっています。

イエスはそこで、「ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を(酒ぶね)を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出かけた」と言われます。

当時の人々はそこでイザヤ5章の記事を思い起したことでしょう。そこで神は最初に、「今、エルサレムの住民とユダの人よ……わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか」(3、4節) と問いかけますが、その前には、ぶどう園の主人の働きが一つひとつ描写されていました。

つまり、このたとえでは、ぶどう園の主人が、必要なすべてを備えていたので、その収穫はすべて主人に属するものであり、農夫たちには定められた賃金以上のものを受け取る権利はないことが前提になっています。

なおここで「それを農夫たちに貸して」とは、神がイスラエルの民に約束の地の管理を任せたこと、「旅に出かけた」とは、神がしばらくの間、沈黙していたことを指すと思われます。

かつて神は、イスラエルの民のためにエルサレム神殿を与えましたが、それは神が彼らの真ん中に住んでくださるというしるしでした。ところが、彼らの心はしだいに神から離れてしまい、特に宗教指導者たちは神殿を利用して私腹を肥やすようになりました。

今も、昔も、宗教は金儲けの最も効率的な手段になりえるからです。彼らの心が神から離れたとき、神も彼らから離れて行かれました。彼らが外国の軍隊によって苦しめられたのは、神が無力だったからではなく、主の栄光がエルサレム神殿から離れてしまった結果でした。

ただし、それでも神は、イスラエルの民を見捨てることなく、忍耐をもって多くの預言者を遣わし、イスラエルの民に語り続けてくださいました。

そのことがここでは、ぶどう園の主人が、「収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした」と描かれます (34節)。これは神が、人間を働かせ、その労働の果実を獲る必要があるという意味ではありません。神は飢えることなどはないからです。

これは何よりもイスラエルの民とその指導者たちに、主ご自身から委ねられた責任を自覚させるという目的のためでした。彼らは世界に対して、神の栄光とあわれみを証しするために選ばれた「祭司の王国、聖なる国民(くにたみ)となる」(出エジ19:6) と言われていました。

人生には喜びよりも苦しみの方がはるかに多いと言われます。そんな人生を、人は何のために生きる必要があるのでしょう。

その答えを使徒パウロは、「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです」(ローマ14:7) と記しています。人はみな、誰かのために生き、誰かのために死ぬのです。それは家族や共同体や国のためかもしれません。

現代の日本人はその使命感を忘れてはいないでしょうか。その結果、自殺が広がる一方で、その場限りの快楽を求める刹那的な生き方が生まれます。

それはイスラエルでも同じでした。彼らはぶどうの収穫を主人に渡す代わりに、ぶどう酒を心行くまで飲みたいと願いました。彼らは約束の地という理想的な環境を手にしたとたん、それを与えてくださった神を忘れて、自分の快楽のためだけに生きるようになってしまったのです。

かつて米国の投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻した理由を、「それは強欲の故である」と言い放った人がいます。真のロマンを忘れた仕事は必ず行き詰まります。富は使命を果たすことへの報酬であることを忘れてはなりません。

ここでも、「ぶどう園の収穫」は、ぶどう園の主人のものであり、農夫たちはその管理を任されている者に過ぎませんでした。これは、基本的に私たちのすべての仕事に適用できる原則です。私たちは数え切れないほどの恵みによって生かされています。土地も空気も水もすべて神の賜物です。仕事も神によって与えられたものであり、私たちは神に対して説明責任を負っています。

そのことをパウロは続けて、「私たちはみな、神のさばきの座に立つことになる……ですから、私たちはそれぞれ自分について神に申し開きをすることになります」(ローマ14:10–12)と記しています。ところが、多くの人々は、それを忘れ、自分のためだけに生き、自分を管理する方を心の中で消し去ろうとします。

2.「私の息子なら、敬ってくれるだろう」

「ところが、農夫たちは(収穫を受け取りに来た)そのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした」(35節) と描かれます。

これはたとえば、イスラエル王国の最初の預言者エリヤが神に向かって、「イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを殺しました(Ⅰ列王19:10) と嘆いたことを思い起させます。

ところが、その後も状況は悪くなるばかりで、彼らはますます神を忘れ、神が遣わした預言者たちを迫害し続けました。

そのことが、「主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした」(36節) と描かれます。

たとえば預言者イザヤは、アッシリアの攻撃からエルサレムを守るために用いられた偉大な預言者でしたが、その後の王マナセのもとで、のこ引きの刑によって殉教したと伝えられます。

彼の前後にはアモス、ホセア、ミカなどが遣わされ、エルサレム陥落の前にはエレミヤが遣わされましたが、彼は「嘆きの預言者」と呼ばれるほどにその生涯は苦しみに満ちていました。その前後には、ハバクク、ゼパニア、エゼキエルなどがいましたが、みな民から無視され、苦しみました。

そしてずっと時代が進んで、最後の預言者「バプテスマのヨハネ」は、領主ヘロデに首をはねられました (14:10)。

それにしてもぶどう園の主人は、ご自身の力を隠して、「しもべ」に託した「ことば」だけで彼らを悔い改めさせようとしています。ルカの並行記事では、「ぶどう園の主人」の善意に満ちた姿が、「どうしようか」と思案し、「そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子ならきっと敬ってくれるだろう」と言ったと描かれます (20:13)。

それがここでは、「その後、主人は『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした」と記されます (37節)。

また、マルコの並行記事では「主人にはもう一人、愛する息子がいた」と、「愛する息子」を最後の切り札として送るようすが記されています。

どの表現でも、主人が最後まで、農夫たちの善意に期待する姿勢が強調されています。それこそが、神の姿だというのです。

ところが、「その農夫たちは」、その主人の愛を恐れ敬う代わりに、「その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った」というのです (38節)。

農夫たちは、主人が軍隊を送ってこないことを、主人が既に死んでしまったしるしと解釈したのだと思われます。しかも、当時は、相続者のいない土地は、そこに住んでいる者の所有とされるという法律があったと言われ、彼らは跡取り息子を殺すことで、ぶどう園を手に入れることができると思いました。

実は、農夫の姿は、当時の宗教指導者たちが神殿を自分のために利用して利得を得ていたことを示していると思われます。

その後のことが、「そして、彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」(39節) と描かれますが、これは「神の御子」のイエスが、エルサレムの城壁の外で十字架にかけられて殺されることを示しています。

神がご自身の御子を、ユダヤ人の指導者に殺されるままにされたとは、何とも不思議です。

この世の不条理がなくならないのは、みことばによって人々の心を変えようと、神が忍耐しておられるためです。

そのことをペテロは後に、「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです……主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ3:9、15) と記しました。

しかし、主の忍耐のゆえに、主を侮ってはなりません。主は時がきたら、私たち一人ひとりが、誰のために、また、どなたへの説明責任を意識して生きてきたかを問われるからです。

預言書の解説をまとめながら、「主 (ヤハウェ) は王である」(詩篇96:10) というみことばこそ、その核心であるとわかりました。主は世界の歴史を導いておられます。ですからペルシアやギリシャやローマ帝国の支配下にあっても、自分たちの王国を建てようと戦う代わりに、地上の王国の上にある神の王国を認めることが求められていました。

当時のユダヤ人の英雄ユダ・マカベオスは武力でギリシャの王を圧倒しましたが、それこそユダヤ人の悲劇の始まりとなりました。日本の場合は、ロシアとの戦いに勝利したことが、その後の悲劇の始まりとなりました。なぜなら、自分を東アジアの盟主だと思うほど傲慢になったからです。しかし、日露戦争に勝利できたのは、ロンドンの銀行団やユダヤ人資本家から莫大な借金をして戦費を調達できたからです。当時の日本政府は彼らの前に非常に謙遜でした。

しかし第二次大戦のときの戦費の調達の一部は、中国人にアヘンを栽培させ、それを中国人に買わせることによってなされました。それがアジアの盟主の素顔でした。現在のロシアもウクライナに対して驚くほど傲慢な態度を取っています。

すべての悲劇は、自分の知恵や力の限界を忘れ、自分が王であると傲慢になったことから始まります。聖書が語る罪とは、人々の期待に沿う立派な行いができないことなどではなく、真の王である方を忘れ、自分が王になってしまうことです。

預言者が繰り返し語っていることは、善い行いの勧め以前に、真の王である神に立ち返ることでした。自分が一人で生きているように思うことこそ、罪の根本なのです。

3.「家を建てる者たちが捨てた石、それが要(かなめ)の石となった」

イエスは、ここでこの話を聞いてきた宗教指導者たちに、「ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするでしょうか」(40節) と問いかけます。

彼らはこの時点では、イエスがご自分を跡取り息子にたとえたことまでは気づいていなかったのか、何の躊躇もなく答えて、ぶどう園の主人は「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を別の農夫たちに貸すでしょう、季節ごとに収穫を納める者たちに」(41節) と言いました。

ただ、同時に彼らはそこに、神が約束の地からイスラエルの民を追い出し別の民族を住まわせた、アッシリア、バビロンによる捕囚の意味を理解することができたかもしれません。

そこでイエスは彼らの理解を深めさせるために、「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか」と言われながら、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要(かなめ)の石となった。これは主のなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ」と言われました (42節)。

これは詩篇118篇22、23節からの引用です。家を建てる者たちは、自分の計画に合った石を捜し出しますが、多くの場合、枠にはまりやすく、組み合わせやすい石を探し、規格外の石は捨てます。私たちの社会でも、枠にはまらない人間は見捨てられます。

しかし、主は、そのような石をご自身の働きの「要(礎)の石」として豊かに用いてくださるというのです。なぜなら、枠にはまりやすい人は、周りに合わせることばかりを優先して、主だけを見上げることはできないからです。そのような人からは社会を変えるような働きは生まれません。

同時にそこにはイザヤ8章13–15節の記事が背景にあります。そこではまず、「万軍の主 (ヤハウェ) 、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき」と記されますが、私たちはどの方を「恐れ」とするかが問われます。

「そうすれば、主が聖所となる」とはイエスご自身が神殿となられることを指し示しますが、「しかし、イスラエルの二つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられる」と記されます。

残念ながら「人はうわべを見る」(Ⅰサムエル16:7) とあるように、それまでイエスに将来の希望を託していた民衆たちは、数日後、彼がローマ兵に無力に捕らえられている姿を見てつまずき、「十字架につけろ!」(27:22、23) と大合唱してしまいます。

彼らにとってローマ帝国の前に無力な「救い主」などあり得なかったからです。しかし、主は、意外な形でご自身の力を現しておられました。イエスは人々から罵られ、嘲られる道をご自分から選ばれました。それこそ主の強さです。

弱い人は、人の前で強がります。しかし、真に強い人は、その必要がありません。実は、神に支えられていることを自覚している者こそが、軽蔑されることを恐れずに、自分の弱さを現すことができるのです。

しかし当時の人々は、イエスが「神の御子」であるからこそ、すべての地上的な栄誉を捨てることができたという逆説を理解できませんでした。主は人々から見捨てられた「要の石」であられたからです。

イエスは続けて、「ですから、わたしは言っておきます」とご自分のことばに注目させながら、「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」と言われます (43節)。これこそこのたとえの結論です。

後にパウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく」「文字ではなく、御霊による心の割礼」を受けた「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人です」と、何とも不思議なことを言います (ローマ2:28、29)。

それは、「神の民」の枠が外見上のユダヤ人から取り去られ、御霊を受けたユダヤ人とすべての異邦人にまで広がられることを現わしています。現代の教会こそが「神の国の実を結ぶ民」なのです。

さらにイエスは、「この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします」(44節) と恐ろしいことを言われます。これはイエスに信頼する者は救われるという一方、ご自身を救い主として認めないものは、自滅するということを語ったものです。

事実、これから約40年近く経過した後に、エルサレムはローマ帝国の軍隊によって滅ぼされ、ユダヤ人はその後、約二千年間近くにわたって国を失うことになります。そこには、目に見える権力者よりも神から遣わされた「要(礎)の石」であるイエスをこそ恐れなければならないという意味が込められています。

地上のすべての王国は、次から次と滅びてゆきました。しかし、イエス・キリストの王国は、二千年前にパレスチナの片隅で始まり、今も世界中に広がり続けています。あなたの周りに百年以上にわたって活力を保ち、繁栄を続けているような会社があるでしょうか。しかし、イエス・キリストの教会は今も活力を保ち成長を続けています。

このことばの背景には、ダニエル2章に記されたバビロン帝国の大王ネブカドネツァルが見た夢があります。そこではバビロン、ペルシア、ギリシャなどの歴代の巨大帝国が示唆されながら、最後のローマ帝国は、鉄の強さと粘度のもろさが共存し、強いように見えて、団結力のない国として描かれます。それは現代のロシアに似ているかも知れません。

それらの国々を「一つの石」から生まれた「一つの国」が、「打ち砕いて、滅ぼし尽くします」と預言されます (44、45節)。「鉄が粘土と混じり合わないように」(43節)、この地上の権力は脆いものに過ぎず、キリストによって結びつく共同体に打ち勝つことはできません。

キリストに敵対する権力は、一時的な繁栄を誇っているように見えても、あっけなく消え去ってゆくのです。

最後に、「祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである」(45、46節) と記されます。

宗教指導者たちはイエスが自分たちを非難していることを理解し、怒りに燃やされながらも、民衆を恐れてイエスに手出しをすることができません。彼らは口先では、神への信仰のためなら命をも捨てるべきと説きながら、自分の身に関しては危険を避けることばかり考えていました。彼らは人の目ばかりを意識し、真に恐れるべき方から目をそらしていました。

この世の権力機構などは、鉄と粘土の組み合わせのように脆いものです。イエスは当時の宗教指導者たちから見捨てられた石でしたが、それこそが、神の国の「要(礎)の石」でした。

それは私たちにも適用できます。この世の評価や力を恐れて生きる者は、強いように見えても驚くほど脆い存在です。私たちは今、驚くほど不透明な時代に生きていますが、そのようなときこそ、主の目をだけを意識し、孤独に耐えるような生き方が求められています。

人を人とも思わない傲慢な生き方も問題ですが、人に合わせることばかりを優先するような生き方はもっと問題です。塩気を失ってしまっては信仰の意味がありません。

なお、教会はキリストのからだとして、キリストのご支配のもと、この世界を治めるために置かれています。ただし、教会も地上の一つの組織として自己保存本能が働く時があります。

私たちは「地の塩」、「世の光」として (4:13、14)、この世界に対する責任を果たすために召されています。教会が何のために存在するかという原点は、常に問い返す必要があります。

そして、私たちは何よりも、自分たちは決して「王」ではなく、真の王である方と、王のしもべたちによって支えられているということを決して忘れてはなりません。どの地域教会もひとりで立っているのではなく、協力関係の中で立たせてもらっているのです。