カーリング女子チームと詩篇148篇

北京オリンピックでのカーリング女子チーム「ロコ・ソラーレ」の大活躍が話題になっています。ちょっと調べて、とっても嬉しくなったのですが、このチーム名は「太陽の常呂(ところ)っ子」という意味だそうで…… のHPに説明が記されています。

常呂(ところ)町は、北海道北見市にある本当にさびれた町でした。オホーツク海岸のサロマ湖の東にあります。僕は高校時代に天文部に所属していました。従弟に誘われて、何も知らないまま部長に就かされました。夏休みには晴天率の高い海沿いの田舎に3泊程度天体観測に行くというのが、一番の活動でした。そして、この常呂町にも行ったような気がします。僕の責任のときではなかったので、記憶があいまいですが……

今朝、そんなことを思い出して、がぜん嬉しくなりました。あと一試合しか残っていないのに、遅すぎますが……

どちらにしても、オリンピック日本代表チームの名前に、誰も知らないし読むこともできない「常呂(ところ)町の子」という名がついているなんて、本当に面白いですね。

ソラーレはイタリア語で太陽を意味します。この北見地方は、日本で一番雨量の少ない地域として有名です。冬も雪が少ない中で、とてつもなく寒いので、氷の競技は魅力的なスポーツになります。

あのカーリングチームの明るさ、北海道弁を丸出しにして、喜び励まし合っている姿は、日本中に元気を与えてくれます。とんでもない過疎の町と見られたところの子たちが、世界の舞台で活躍して日本中を明るくするなどというのは、本当に新しい現象ですね。

HPをご覧いただいて分かるように、過疎の町が嘘のような発信力で、日本中に喜びを知らせています。新しい時代の始まりを予感させる現象です。

そして、太陽(ソラーレ)を喜ぶと言えば、詩篇148篇です。その1—6節は次のように歌われています(私訳)。

ほめたたえよ 主 (ヤハ) を

ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 諸々の天から

ほめたたえよ主(彼)を いと高きところで。

ほめたたえよ主を すべてのみ使いよ

ほめたたえよ主を 主の万軍よ

ほめたたえよ主を 日よ 月よ

ほめたたえよ主を すべての輝く星よ

ほめたたえよ主を 諸々の天の天よ

諸々の天の上にある水よ

ほめたたえさせよ 主 (ヤハウェ) の御名を

この方が命じて それらは創造されたのだから

この方がそれらを立てられた 世々限りなく

この方が定めを置かれた それは過ぎ去ることがない

この詩では、不思議にも、意識を持っていないはずの太陽や月に向かって、「主をほめたたえよ」と命じられています。これは今から2,500年前の自然科学を知らない人への訴えとして退けるべきことではありません。たとえば、太陽には11年周期の黒点数の変化と、より長期的な活動の周期があり、まるで長期的な呼吸をしているようにさえ見えます。

僕は高校時代に天文部に所属していましたが、昼にできることと言えば、この太陽黒点を観測することぐらいでした。ですからこの太陽に向かって、「主をほめたたえよ」と言って、その存在を通して神の栄光を現わすようにと願う気持ちは理解できます。

常呂町と同じように晴天率が高いイタリアのアシジに生まれ育った は、太陽を自分の兄弟、月や星を自分の姉妹と呼びながら、創造主をほめたたえました。私たちは、健康を求めすぎることで病気になり、お金を求めすぎることで貧しくなるという逆説をこの世界で味わいます。それから全く自由な生き方を、1200年代初めの中部イタリアの自由都市アシジを中心に活躍したフランシスコに見ることができます。

彼は当時恐れられていたハンセン病の患者を抱擁し口づけすることで、また裕福な父に対し、息子の立場を捨てるという証しとして衣服を返すということで、心の底からの喜びに満たされ、生涯を通してキリストにある自由を体験しました。たとえば、十字軍の時代に、イスラム教国であったエジプトに出かけて行って、そこの支配者を回心に導いたという話があります。また、近くの町の人々が獰猛な狼に苦しめられているという話を聞くと、単身で狼の前に出て行って「兄弟」と語りかけ、定期的に餌を与える代わりに町の人々を襲わないという平和協定を結んだなどの逸話があります。

フランシスコはキリストの苦しみにあずかることを願い続けたため、死の直前にはキリストの十字架の傷跡と同じ聖なる傷跡を受けたとも言われます。死後二年のうちに聖人と認められ、現在は「環境保護聖人」として世界中の人々から尊敬されています。「平和の祈り」も彼の精神に由来するとされ、世界中で唱和されています。彼は徹底的にキリストの貧しさに倣うことを実践したことによって世界中の人々に驚くべき影響を与え続けています。

キリストに倣って「何も所有しない」ことの驚くべき強さと豊かさを証しした人です。詩篇148篇は、彼がすべて被造物を「私の兄弟」と呼んだことの原点になる詩とも言えましょう。