ネヘミヤ3、4章「一気呵成に進められた城壁再建」

2022年1月30日

聖書では、安息日の教えから始まって季節ごとの様々な祭りなど、休むことが神の前での義務とされている日々が驚くほど多くあります。長い人生を短距離走のように走り抜けようとすると、自分の身にも周りにも様々な害を及ぼします。

ただそれ以外の通常の日では徹夜してでも、多くの人々とともにビジョンを共有し、助け合って果敢に行動すべき時もあるかもしれません。しかもそのような時には、働きを妨害しようとする勢力も生まれがちで、それに対する備えも必要です。そしてすべての基礎に、神への祈りがあります。

ネヘミヤは、百年間近く進まなかったエルサレム城壁の修復を、たった52日間で仕上げるように民を導きました (6:25参照)。彼は慎重に時間をかけて主に祈りつつ、機会をとらえて地上の権力者を味方につけ、再建工事の準備を整えましたが、民に声をかけたときには一気呵成に人々をリードしました。

日常生活での基本的な生活習慣のリズムを大切にするとともに、「今がこの時」という果敢な動きも必要です。

1.「互いの自主性が尊重されながら、互いに連携を持つことができた働き」

3章1節には、「こうして大祭司エルヤシブは、その仲間の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった……ハナンエルのやぐらにまで及んだ」と記されています。エルヤシブはエルサレム神殿の再建を導いた大祭司ヨシュアの孫です (12:10、エズラ3:8)。これはネヘミヤの訴えにすぐに大祭司が応答したことを示します。

彼のグループは神殿の北の部分の城壁といけにえを運ぶ「羊の門」を修復しました。1–5節は城壁の北の部分を八つのチームが共同して修復する様子が描かれますが、「その傍らでは」(2、4、5節) ということばが鍵になります。これは原文では「その手の上に」と記され、作業が積み上がる様子が強調されています。

ただ5節では、「その傍らではテコア人たちが修復を行った、彼らの貴族たちは……工事に協力しなかった」と描かれます。これはエルサレムの南のテコアの町の貴族たちはネヘミヤに協力しなかったという意味です。

どのような工事にも、協力をしぶる人々はいます。それを受け入れる余裕も必要でしょう。

6–13節は城壁の西の部分を十のチームが共同して修理する様子が描かれます。7節では、「ユーフラテス川西方の総督の管轄に属する、ギブオンとミツパの人々が修理した」と描かれますが、これはユダの管轄地域の外に属する人々がエルサレム城壁の再建のために協力したという幅の広がりを示します。同じ地区の人が協力を惜しむ一方で、他の地区の人々が積極的に協力する姿が描かれます。

さらに8節では「金細工人」とか「香料作り」という別の専門の職人までが石を積み上げて城壁を再建するという姿が描かれます。

また、9、12節では「半区の長」ということばが出てきますが、それらはそれぞれの住まいに隣接した城壁を築く様子が描かれています。

特に12節では、「シャルムが、自分の娘たちと一緒に修理を行った」と、当時としては珍しく、「娘たち」までもが石を積む作業に加わる様子が描かれています。

14節の「糞の門」と「泉の門」は町の南端を指します。「糞の門」は廃棄物の処理場への道、「泉の門」は、町の外のギホンの泉からシロアムの池に水を引き込む道です。つまり下水路を含む施設と、上水路のような施設が町の南に隣接しあっていました。

さらに今までの門の修復では、「梁を置き(または「建て直し」)、「扉、錠、かんぬきを取り付けた」と繰り返されましたが (3、6、13、14節)、15節では、この「泉の門」の工事に関し、「建て直し、屋根を付け、扉、錠、かんぬきを取りつけた」とさらに詳細に記されています。

16–32節には城壁の東側の修復が、21のチームによってなされる様子が描かれます。ここはエルサレムで最も荒れ果てた地域で、かつてネヘミヤもこの部分を視察したときに途中で引き返さざるを得なかった所を含んでいます。

16節に登場するネヘミヤはこの書の主人公とは無関係ですが、その人が、「ダビデの墓地のそばまでと、人工貯水池までと、勇士たちの家のところまでを修理した」と描かれます。これは先の「泉の門」のすぐ北に位置しますが、「ダビデの墓地」は明らかに古いダビデの町の中にありましたから (Ⅰ列王2:10)。これは城壁が谷の上側に移動し、町が狭くなったことを示すと解釈されます。

なお、16節以降では、その向こうでは」ということばが繰り返されます。これは長い距離にわたる一連の作業が連続性をもって行われていることを示し、24節までは淡々と町の東側の城壁を南から北に向かって中央部まで修理される様子が描かれます。

17–19節にはレビ人が、22節には祭司たちが工事に加わる様子が描かれます。23、24節では再び、人々が自分たちの住まいに面した城壁を修復する様子が描かれます。

25–27節での三つの「突き出ているやぐら」の位置はよくわかりませんが、26節の「水の門」とはエルサレムの水源である「ギホンの泉」のすぐそばにまで突き出ていた門だと思われます。これは南の「泉の門」から北の「オフェルの城壁」までの地域の城壁が以前よりもかなり高い所になったとも解釈されます。それは住民の減少によってギホンの泉の確保が緊急の課題ではなくなったからだ思われます。

28–32節は城壁の北側の神殿領域で「馬の門」とはその南東の入り口です。そこから再建の出発点であった「羊の門」(3:1、32) にかけて、「祭司たちがそれぞれ自分の家のそばの部分を修復した……自分の家のそばの部分を修復した」(3:28、29)、「金細工人の一人のマルキヤが……宮のしもべたちや商人の家のところまで……を修復した」(3:31)、「金細工人と商人たちが修復した」(3:32) と描かれます。

そこでは「その向こうでは」と五回も繰り返され、いろいろな立場の人々の責任範囲と協力関係が強調されています。

それにしても全体的な働きの様子を見る時に、作業場の状況、作業する人の構成、守備範囲など、どれも一律な法則が見られません。働きの必要と働く人の構成、現場の状況によって異なります。ときに、人の成功例に学ぼうとするほど愚かしく危険な働き方はないとも言われます。

確かに一定の水準を保つためのマニュアルは大切ですが、現場から遊離した方法論はかえって人の個性を殺します。以前、アップルの創業者 の伝記がブームになりました。しかし、凡人が彼の真似をするとほぼ確実に組織の協力関係を壊すでしょう。彼ほど身勝手な人間はいないと言われることがあるからです。

ただ、彼自身もまた彼の協力者も、熱く意見を戦わせながら、同じ目標に向かって互いの才能を最大限に生かし合ったたことは確かです。彼の成功の秘訣は、新たな感動の共有にあります。

それにしても、ウォークマンや豊かな音楽部門ではるかに先行していたソニーが、アップルの iPod に敗北する理由が、「アップルの場合、社内で協力しない部門は首が飛びます。でもソニーでは社内で部門同士が争っていました……自分の利益を守ろうとして、会社全体でエンド・ツー・エンドのサービスを作れずにいた」と記されていました。

この失敗例は多くの日本の組織の問題だと思われます。昔の経営学では事業部制などと部門ごとの独立採算が強調されましたが、それでは市場の変化に対応できません。一方、大昔のエルサレムの城壁再建では、互いの自主性が尊重されながら、互いに連携を保つことができていたように思われます。

2.「私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて昼も夜も見張りを置いた」

4章、1、2節ではサマリヤの総督「サンバラテ」は、城壁の修復の進捗状況を聞くと、「怒り、また非常に憤慨して」、「この哀れなユダヤ人たちは……あれを修復して、いけにえを献げようというのか……焼けてしまった石を瓦礫の山から拾って、生き返らせようというのか」と「嘲った」と描かれます。

前者は、ユダヤ人たちは石を積み上げてもいけにえの祭壇にできるのが精一杯であろうという「嘲り」です。また、後者は、石垣を築く材料にも事欠く様子を「嘲った」ものです。

また「彼のそばにいたアンモン人トビヤ」も、「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」と嘲りました (4:3)。

それを聞いたネヘミヤは神に向かって、「お聞きください……私たちは軽蔑されています。彼らの侮辱を彼ら自身の頭上に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らのをおおい隠すことなく、彼らのを御前から消し去らないでください。彼らが、建て直している者たちを憤慨させたからです」(4:4、5) と祈りました。

軽蔑、侮辱、咎、罪、憤慨ということばの並列が興味深いですが、これは私たちが人間関係で苦しむときの正直な祈りを現わしています。

ここでネヘミヤは、敵に向かって罵り返したり、また自分の保護者ペルシャ王の権威を借りて、政治的な報復をする代わりに、全能の神ご自身に向かって祈ります。ときに私たちは、不当な非難を受けたとき自己弁護に走りますが、大切なのは非難の応酬よりも、目に前の必要な働きを続けることです。

私たちの働きが成功しそうなとき、必ず、それに妬みを感じて謂れのない中傷を浴びせる人がいますが、それに応酬すると、働きが疎かになります。それはパウロも「愛する者たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい」と言った通りです (ローマ12:9)。

そのような神への祈りが積まれる中、「こうして、私たちは城壁を築き直し、城壁はすべて、その半分の高さまでつなぎ合わされた。民に働く気があったからである」(4:6) と記されます。約百年間近くも動かなかった働きが驚くべきスピードで進んで、半分が仕上がりました。

それは一人ひとりに驚くほどの「働く気」、つまり、城壁再建への熱い思いがあったからです。それこそ、神が導いてくださった時のしるしでした。

それに対し「サンバラテ……アラブ人、アンモン人、アシュドデ人たちは……割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、激しく怒り、皆でエルサレムに攻め入って混乱を起こそうと、陰謀を企てた」(4:7、8) と描かれます。

ここの四者は順番にエルサレムの北、南、東、西からの攻撃が示唆され、その理由は「狐」(4:3) が出入りする「割れ目」も塞がり、神の都の誇りが回復され、自分たちの脅威となることを恐れたからです。

それを知ったネヘミヤは、「そこで私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて昼も夜も見張りを置いた」(4:9) と記します。神に祈ることと「見張りを置く」という現実的な対応策は、決して矛盾するものではなく、並行して進むべきことです。

「祈り」と「仕事」は車の両輪のように進みます。すべての仕事は神ご自身から与えられた課題と言えます。ですから、祈りながらするときに、本当の意味で良い仕事ができます。

また、祈りは歩きながら、手を動かしながら、なすべきことでもあります。なぜなら「絶えず祈りなさい……御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:17、19) と命じられているからです。

その意味で2章4節でのように、差し迫った場面において瞬時に祈る arrow prayer(矢の祈り)は、日々実践すべき習慣とすべきでしょう。

ただそのような中でも「ユダの人々」は、自分たちの気持ちを詩文にして、「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにできはしない」(4:10) と弱音を吐きます。しかしこれを否定的に考える必要はありません。ネヘミヤはそのような気持ちを受け止めて9節の祈りを導いたとも言えましょう。

私なども何度も、「今週は、こんなにやることが多い……いつものようにメッセージの原稿を仕上げることはできないかもしれない……」と心の中でつぶやき続けてきました。それでも手を休めずに作業を続けていると、どうにか仕事は毎週末には仕上がっていますし、適度な運動を続けることもできています。

大切なのは、心の奥底の弱音を抑えることなく、それを祈りに変えられることではないでしょうか。

3.「荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を握っていた」

4章11節では、そのような中でユダヤ人の敵たちは、「彼らが気づかないうちに……真ん中に入り込み、彼らを殺して、その工事をやめさせよう」と恐ろしい計略を謀っていたと記されます。そこで「彼らの近くに住んでいたユダヤ人たちは……四方八方から十回も」「戻って来てください」と訴えます (4:12)。これは襲撃の危険がある町から一時避難するようにという勧めです。

それに対しネヘミヤは、「民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い場所の空地に、剣や槍や弓を持たせて配置し」(4:13) ます。これは、家族がそろってエルサレムの城壁の後ろに一時的に移住して、背水の陣を敷くということです。そのことを彼は、「大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい」(4:14) と励ましました。

多くの場合、危険を過度に意識して、逃げ腰になること自体が、危険を増幅させます。「恐怖突入」という言葉がありますが、人生には避けられない、避けてはならない危険があります。そして、多くの場合、主に祈りながら、危険に向かって正面突破を計ろうとするときに、おのずと道は開けてくるものです。

ただし、その際、常に、最悪の事態が起きた時の備えもするということは、決して信仰と矛盾することではありません。たとえば、「今日は、雨が降らないという信仰のもとに、傘を持たずに外出することにした」などという発想は愚かなことです。

信仰とは、全能の神にすべての不安を訴えながら、今ここでなすべき働きに集中することです。信仰と対比されるのは、「恐れ退くこと」です。そのことがヘブル書の著者は、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(10:39) と告白しています。

ネヘミヤはその後のことを、「私たちの敵が、自分たちの企みが私たちに悟られたこと、神がそれを打ち壊されたことを聞いたとき、私たちはみな城壁に戻り、それぞれ自分の工事に当たった。その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていた。隊長たちがユダの全家を守った。城壁を築く者たち、荷を担いで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を握っていた」(4:15–17) と描いています。

これこそ最も感動的な描写と言えましょう。私たちはときに、複数の課題に同時に対処する必要があります。そのときに、まず工事と防衛の役割分担が築かれましたが、荷を担いで運ぶ場合は移動の必要があるので、片手に投げ槍を握って自分を守る必要がありました。

確かに、両手で仕事をした方が進みますし、休息を十分にとった方が、効率があがるということがあります。しかし状況がそのような基本的なリズムを許さない時には、このような両面作戦で臨む必要もあります。これは、私たちの特に、祈りと仕事において常に実践すべきことです。祈りつつ働くことが大切です。

パウロはキリストにある生き方を、「私は……あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリピ4:12、13) と記しています。

スティーブ・ジョブズのもとでは、話を聞くなり「そんなのは無理です……」と言うと、すぐに首が飛んだようですが、私たちは神への祈りの中で正直に弱音を吐きながら、不可能を可能にしてくださるキリストに信頼することができます。

ただ、「築く者は、それぞれ剣を腰にして築き」という中でも、ネヘミヤは、「角笛を吹き鳴らす者は、私のそばにいた」と描くように、兼務してはならない働きがあります (4:18)。それは警告を発し、民をまとめる働きです。

そのことを彼は代表者たちに、「この工事は大きく、また範囲は広い。私たちは城壁の上で互いに遠く離れ離れになっている。どこででも、角笛が鳴るのを聞いたら……集まって来なさい……神が……戦ってくださるのだ」(4:18–20) と言います。

人間の強さは協力できる能力にありますが、国でも組織でも内部に不信が増幅するときに働き自体が無に帰して行きます。しかも、「神が私たちのために戦ってくださる」という現実は、何よりも信仰共同体の一致として現されます。神は愛の交わりの中に住まわれるからです。

神が戦ってくださることと、私たちが互いに協力し合うことはまさに車の両輪のように進んでゆくことです。

そして、最後に、彼らの働きの様子が、「こうして、私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星の現れる時まで、槍を手にしていた」(4:21) と描かれます。これは日没を超えて星が現れるまで敵の攻撃に備えながらも工事を進めていたという意味です。

さらに彼は、「それぞれ自分の配下の若い者と一緒に、エルサレムの内側で夜を明かすようにしなさい。そうすれば、夜には見張りがいて、昼には働くことができる」(4:22) と言います。

これはエルサレムが夜の間、空になって敵に侵入されることを避けるためですが、同時に、若い者や奴隷などが、恐れに囚われて逃亡することを防ぐためだったかもしれません。緊張が途切れると、人は急に弱気になることがあります。緊張を継続すべきときがあるのです。

そればかりかネヘミヤは、「私も、私の親類の者も、私の配下の若い者たちも、私を守る見張りの人々も……だれも服を脱がず、水場でもそれぞれ投げ槍を持っていた」(4:23) と述べます。彼はリーダーとして、自分の身近な者が率先して苦しみを担うように指導しました。

私たちは人生の中で、ときにこのような仕事の仕方をしなければならないことがあるかもしれません。信仰という名のもとに、自分の生活のリズムを崩すことができない、融通の利かない人間になってはなりません。

この場合は、敵の攻撃の危険がある中で、敵から町を守るための城壁を築いているわけで、作業が長引けば長引くほど、危険が増し加わります。また、城壁が完成する前は、それが非常にもろい状態にあるので、一気に仕上げる必要があります。

私たちの人生の中でも時には、夜を徹して仕事を仕上げなければならないことがあるかもしれません。

私たちはだれも自分の身を守りたいという自然な思いがあります。ですから、いろんなことに自分が臆病になっているときには、自分が何のために生かされているかを振り返ってみる必要があります。使命を忘れた生活ほど退屈な人生はありません。そこでは.すべてがマイナスの悪循環に落ち込んでゆきます。

かつて東日本大震災直後の被災地の中学校の卒業式で15歳の少年が、「自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で私たちから大切な物を容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というにはむご過ぎるものでした。つらくて悔しくてたまりません…… しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことがこれからの私たちの使命です」と語ったことが日本中の感動を呼びました。

神がなぜあのような悲惨を、このときここで許されたかはわかりません。しかし、この少年は三人の友を津波で失うという悲劇を通して、自分にとっての「使命」を明確に意識するようになっています。

私たちは自分の生活を守るために生きているのではなく、何かの目的のために生かされています。私たちの場合は、自分の正直な気持ちを訴えるという神との交わりの中で、使命を意識し、互いに助け合い、サタンの攻撃に備えながら、属する共同体に与えられた使命を全うするように召されています。

神のときの中で、自分の人生のリズムを見直すべきときがあります。勝負のとき、熱くなるべき時がだれにもあるのです。