毎年、年の終わりには、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2) というみことばを思い起し、「今年の感謝の思い出を一つひとつ思い起して数えよう……」と訴えられがちかもしれません。
でも、どう考えても、感謝とはならない思い出も多くあります。まったく整理できない思いもあります。それを「感謝しましょう!」と言われても、心がついて行きません。
たとえば、僕の場合は、父が精力を注いで守り続けてきた北海道の水田を手放さざるを得なくなりました(姉と妹との共同所有ではありましたが……)。それは町が決めた水田の大拡張工事に対応するために生まれた必要です。
それまでの父母の労苦のことを思いながらいろんな思いが湧いてきます。それを整理しようとしてはいけないのだとも思わされています。
しかし、詩篇103篇1–5節は 以下のように訳すことができます。
わがたましいよ、主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。 (1)
わがうちなるすべてのものよ。聖なる御名を。
わがたましいよ、主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。 (2)
すべての恵みのみわざを忘れてはならない。
主はあなたのすべての答(とが)を赦し、 (3)
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓の穴から贖い、 (4)
あなたに慈愛 (ヘセッド) とあわれみの冠を授け、
あなたの渇きを良いもので満ち足らせる。 (5)
あなたの若さは鸞(わし)のように新たにされる。
原文に従うと先の2節のことばは、「良くしてくださった」という過去のことではなく、時間を超えての意味で、「すべての恵みのみわざを忘れてはならない」と訳すべきかと思います。
なぜなら、3、4節にあるように、「恵みのみわざ」とは、最終的な救いの完成を前提に、その将来の救いを覚えながら、現在の不遇な状況を、神の視点から見るということだからです。
事実、3節にある「すべての病を癒し……いのちを墓から贖い」は、私たちの復活のときまで成就しないことです。
この地ではいろいろ腹の立つ出来事が起こりますが、最終的には、「あなたの渇きを良いもので満ち足らせる」という感想を持てるように、すべてのことが益とされる……という将来を見据えての感謝が、この詩篇では歌われています。
ドイツの友人がこのコロナ禍の中で、1633年に作られた讃美歌を味わっていると書いて来てくれました。それはドイツの人口が半減したと言われる三十年戦争の暗闇の時代に生まれた讃美歌です。
15番まである讃美歌ですが、その1–3番は以下のような意味になっています。
- 私のすべての行いにおいて、
いと高き方の助言に任せよう。
この方はすべてのことを最善へと導いてくださる
私自身が思いもつかない方法によって。 - 私の日々の労苦にとって
遅すぎることも早すぎることも何もない
私の心配は無用のことだ。
主は私のことを心配してくださり
ご自身のみこころをなしてくださる。
私は御父に配慮に任せよう。 - 主が予知されたこと以外
私に何も起こりはしない。
それはすべて私の祝福へとつながる。
私はそれらすべてをあるがままに受け止める
主が私のために考えてくださることを
私自身も喜んで受け入れて行く。
この賛美歌が作られた約百年後、J.S.Bach はこの讃美歌をもとに のようなカンタータを作曲しました。
暗黒の時代に生まれた讃美歌が、驚くほど希望に満ちた雰囲気で演奏され、歌われています。
それは、現在のこのコロナ禍に適用できることです。これから後に時代になって、私たちはこのことを通して、世界と神のみわざを新たな観点から見ることができるようになったと感謝できることを期待したいと思います。