世の多くの人々は、家内安全、商売繁盛や災いを退ける厄払いを願って神社に参拝します。そのような中で、「イエスを救い主と信じることによって、今ここで、何が変わるのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。
私はしばしば、「どの人の人生にも闇の時期が訪れます。しかし、イエスに信頼する者は、痛み、苦しみ、悲しみの中にも、喜びと平安と希望を見いだすことができます。それを知っていることで、自分の損得勘定を超えて目の前の課題に真正面から向かう勇気をいただくことができるのです」と答えるようにしています。
預言者イザヤは、イエスの十字架への歩みの中に、神の救いのご計画を全うする「ユダヤ人の王」としての威厳を見させてくれます。神のご支配が十字架に現わされたという視点こそ、この世界の常識を逆転させる教えです。そして、そこに神の平和(シャローム)が広がります。
1.「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる」
52章1節では、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ。聖なる都エルサレムよ」と呼びかけられます。これは、主のさばきを受けて、ちりの中に伏していたシオンの神殿と「聖なる都エルサレム」に「目を覚ませ」と呼びかけ、これらが、栄光に満ちた姿へと変えられることを、私たちの霊の目で見ることの勧めです。
そしてそうできる理由として、「無割礼の汚れた者が、もう二度とあなたの中に入っては来ないのだから」と説明されます。これはエルサレムが「もう二度と」異教徒に蹂躙されることはないという保証を主ご自身が与えてくださるからです。
そして、改めて、エルサレムに向かって、外国の支配から解放されることを喜ぶように勧めることが、「ちりを払い落として立ち上がれ。もとの座に着け、エルサレムよ。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚の娘シオンよ」と呼びかけられます。
これは、エルサレムがバビロン帝国の支配から解放されて、エルサレム神殿が再建されたときに一部成就したようにも思えますが、当時、それは新たな支配者ペルシア帝国の王の勅令があって初めて可能になったことでした。それでエズラは、ペルシア帝国の応援を受けている自分たちの立場を、「事実、私たちは奴隷です」と告白していました (エズラ9:9)。
そればかりか、イエスの時代に大拡張工事がなされていた神殿は、イエスの十字架から約40年後にローマ帝国によって破壊され、イスラエルの民は再びその地から追い出されました。ですから、「バビロン捕囚からの解放」は七十年で終わったのではなく、今も続いていると考えることができます。
真の意味で上記の預言が成就するのは、イエスが再臨するときで、黙示録ではそのようすが、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た」(21:2) と記されています。私たちはイエスの贖いによって「救い」が成就したと理解したいですが、それは再臨の日まで完成が延ばされているのです。
今も、この世界は富と権力の圧政のもとにあるということを忘れてはなりません。キリストにある「救い」には「既に実現している」部分と、「未だ実現していない」部分の両方があることを覚える必要があります。そうでないと、異端の教えが言うように、イエスは世界を何も変えることはできなかったという解釈になります。
3、4節ではイスラエルの民が奴隷状態から解放されることに関して神の視点から解説されます。そのことが、「なぜなら、主 (ヤハウェ) はこう言われるから。『あなたがたは、ただで売られた。だから、銀を払わずに買い戻される。』 なぜなら、主ヤハウェはこう言われるから。『わたしの民は最初、エジプトに下って行ってそこに寄留した。ついには、アッシリア人が彼らを苦しめた』」と描かれます。
かつて神の民は、最初、飢饉から逃れるため神の導きでエジプトに下って行って増え広がることができましたが、その結果として奴隷状態に置かれて苦しめられ、この直前にはアッシリア帝国によって苦しめられました。しかし、どちらの場合も彼らは借金の抵当で売られたわけではなりませんから、神のみこころ一つで、奴隷状態から解放されることができます。
この二つの文章において、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) に由来する主 (ヤハウェ) の御名と、その「ことば」が強調されながら、「主 (ヤハウェ) は言われる」また、「主ヤハウェは言われる」と記されています。つまり、そこではことば一つで世界を創造された創造主ご自身のご支配の中で、このイスラエルの苦難の歴史が導かれていると宣言されているのです。
ただし、イスラエルの苦しみは、主ご自身が、彼らを懲らしめ、反省させるために行ったことですが、当時の人々は、エルサレムの滅亡は、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) が無力であったためだと思いました。
その状況に対して、主ご自身が自問自答するように、「さあ、今、ここでわたしは何をしよう。─主 (ヤハウェ) のことば─わたしの民はただで奪い取られ、支配者たちは泣きわめいている。─主 (ヤハウェ) のことば─また、わたしの名は一日中絶えず侮られている」と言われます (5節)。
ここでイスラエルの支配者たちは、自分たちの民がただで奪い取られたことを「泣きわめている」のですが、それは、主への信頼が裏切られたという嘆きでもありました。つまり、イスラエルの民が捕囚とされたことによって、周辺の諸国の人々ばかりか、イスラエルの支配者たちの間でも、主の御名が「一日中絶えず侮られる」ことになってしまったのでした。
ところで、世界の「救い」の完成とは、神の平和(シャローム)がこの地を満たすときであり、それは、主 (ヤハウェ) の栄光が世界中で崇められることで実現しますから、主はご自身の名が「侮られている」状況を放置はしません。
それに対して、神の救いは、「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日、わたしこそが『ここにわたしがいる』と告げる者であることを……」と、主のご支配が明らかになることとして描かれます (52:6)。
神の民が神の「名を知る」とは、主がどのようなお方であるかが理解されることですが、ここでは主ご自身こそが「『ここにわたしがいる』と告げ」て、私たちが主の御名を呼び求めるように導いてくださると描かれています。
多くの人は、天地万物の創造主に向かって、「お父様!」と祈ることができることが、どれだけ大きな特権であり、そこに、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:7) という神秘が実現するかを知らずにいます。「永遠のいのち」とは、そのような創造主である神との生きた交わりの現実を指します。
黙示録17章には、この世界の目に見える現実が、なお「大バビロン」(17:5) という富と権力の複合体の支配下にあることを告げています。世の人々は、知らないうちにお金と権力の奴隷とされています。しかし、「新しいエルサレム」の現れはすでに確実なこととして預言されています。
そして創造主ご自身が歴史の支配者であるということを、私たちに知らせてくださいました。今、私たちはイエスの父に向かって「お父様!」と親しく呼びかけることができます。それがどれほど大きな恵みであることを忘れてはなりません。世界は今、確実に、平和(シャローム)の完成に向かって動き出しています。
2.「その足は、平和を聴かせ……救いを聴かせる」
7節からは、「なんと美しいことよ。山々の上にあって福音を伝える者の足は」という詩文になりますが、福音の内容は、「平和(シャローム)を聴かせ、幸い(善good)な福音を伝え、救いを聴かせ、『あなたの神が王となる(王であられる、治める)」とシオンに告げる』と記されます。
ここで、「平和を聴かせ」と「救いを聴かせ」と、「聴かせる」ということばが繰り返されます。それは、「平和(シャローム)」と「救い」が同じことを指すからと考えられます。
私たちは「救い」というと、自分のたましいが神のもとで安らぐという個人的なことを考えがちですが、聖書が語る「救い」とは、この世界が神の平和(シャローム)で満たされるときです。それは、争いも貧富の格差もなく、すべての人が高価で尊いと認められる、何の欠けもない状態を指します。
そして「幸い(善good)な福音(良い知らせ)」とは、何よりもここで「あなたの神が王となる(王であられる、治める)」と「シオンに告げる」というものです。これは多くの人々が思う「福音」とは少し違っています。それは多くの人々が、自分や家族にとっての都合の良いことばかりを考えるからかもしれません。
聖書全体を貫く「福音」とは、イスラエルの神がご自身の名を置く神の宮から、この世界全体を平和のうちに治めるというものです。かつて神の住まいはエルサレムのシオンの丘に神殿にありましたが、今は、天のエルサレムからこの世界を治めるという意味に変わっています。とにかく、「福音」とは神のご支配が明らかになることです。
そのために、主 (ヤハウェ) はまずイスラエルにご自身を啓示しましたが、イエスを通してそこに異邦人を加えた「主のからだ(教会)」を創造し、新しい神の民を世界に遣わすことによって、世界にご自身を知らせてくださいます。それは、神がこの世界の歴史を確かに導いておられ、ご自身の「平和(シャローム)」を必ず実現するという希望です。
なお、「その足は、平和(シャローム)を聴かせ」と記されますが、パウロはこのことばを用いて、「足には平和の福音の備えをはきなさい」(エペソ6:15) と勧めました。私たちは、「平和の福音」を身近な人との関係の中で味わい、またその「平和」を広げるために召されたのです。
なお、使徒パウロは、「もしあなたの口でイエスを主と告白しあなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9) と言いましたが、その直後に、「聞いたことのない方をどのように信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょう。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです」と、イザヤ52章を引用して記しています (同10:14、15)。
つまり、パウロはイザヤ書に描かれている「あなたの神が王となる」という平和(シャローム)の完成の福音と、個人的な「救い」の福音を重ねて語っているのです。その個人的な「救い」とは、私たちが「神の子」とされるための聖霊を受け、この御霊によって、イエスの父なる神を『アバ、父』と呼べるという神との個人的な交わりです。
私たちにそのような特権が与えられたのは、この世界に神のご支配を知らせるためなのです。私たちは「良い知らせ(福音)」を、イザヤの原点にさかのぼって解釈する必要がありましょう。
3.「彼らは、主 (ヤハウェ) がシオンに帰られるのを、まのあたりに見る」
そして続いて、「あなたの見張り人たちの声。声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主 (ヤハウェ) がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ」(52:8) という「喜びの叫び」が記されています。それは、エルサレムが廃墟とされたのは、「主 (ヤハウェ) の栄光」がエルサレムを立ち去ったからであり (エゼキエル11:23)、その救いは、「主 (ヤハウェ) の栄光」がエルサレムに戻ってくることによって実現すると理解されていたからです (同43:4)。
そして、イエスのエルサレム入城こそは、「主 (ヤハウェ) がシオンに帰られた」ということを現すものであったと考えられます。エルサレムの人々はそのとき、この預言を成就するかのように、「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高きところに」と喜び叫びました (マタイ21:9)。それはイエスがエルサレムをローマ帝国の支配から贖う救い主だと思われたからでした。
確かに、このイザヤ書でも続けて、「共に大声をあげて喜び歌え。エルサレムの廃墟よ……。主 (ヤハウェ) がその民を慰め、エルサレムを贖われたから」と記されています (9節)。それはイエスこそが、52章の最初に記されているエルサレムの栄光を回復してくださる救い主であることを示すものです。
さらに10節では、「主 (ヤハウェ) は聖なる御腕をすべての国々の目の前にあらわにされた。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」と記されています。
ただ、ここで不思議な展開が起きます。53章1節では、「だれが私たちの聴いたことを信じたか。主 (ヤハウェ) の御腕は、だれに現れたのか」と記されながら、「主 (ヤハウェ) の御腕」が現わされた救い主の姿が、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」と描かれ、その理由が、「まことに彼が負ったのは私たちの病、担ったのは私たちの悲しみ……彼への懲らしめが私たちの平和(シャローム)、その打ち傷が私たちの癒しとなった」と説明されます。
イエスの十字架の苦しみが、私たちに「平和(シャローム、平安)」をもたらしたというのは、何とも不思議なことです。その不思議をヘブル書の著者は、「子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、無力化するためであり、また死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」と解説しています (2:14、15)。
ここでは、神の御子が私たちと同じ血と肉を持つ身体となられたというクリスマスの出来事と、イエスの十字架と復活が私たちにもたらした救いの全体像を描いています。初代教会で多くのクリスチャンがローマ帝国の迫害によって殺されましたが、彼らは「死の恐怖」から解放されていたため、剣の力が無力化され、迫害のたびにキリスト者のうちにある心の平安が証しされ、キリストに従う者が増え、ついにはローマ皇帝自身がキリストの前にひざまずくようになってゆきました。
イザヤ53章は、「主のしもべの歌」と呼ばれますが、これは52章13節の、「見よ、わたしのしもべは栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる」ということばから始まります。それはキリストの復活と昇天を示唆しているとも言えます。
その上で、多くの人々を唖然とさせるその姿が描かれ、その最後の53章12節では、神が主のしもべに勝利の「凱旋の行列」(コロサイ2:15) を用意されたようすが描かれ、その理由が、「それは、彼がそのいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたから」と説明されます。それはキリストが犯罪人と共に十字架にかけられたことを指し示します。
さらにそればかりか、その意味が、「だが、彼こそが多くの人の罪を負った。そして、背いた者たちのために、とりなしをする」と、今は、天の御座において私たち罪人のためにとりなしをしている姿が描かれます。
イエスの復活こそ、悪魔と罪と死の力に対する勝利です。先の「地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」(52:10) とは、世界中の信仰者が常に死を乗り越えた希望に生きられることに現されています。
また、「去れよ。去れよ。そこを出よ」(52:11) とは、捕囚の国バビロンを出て、エルサレムに向かって旅をすることを意味します。「汚れたものに触れてはならない……身をきよめよ。主 (ヤハウェ) の器をになう者たち」とは、主の宮の奉仕にために聖別されたレビ人に対する語りかけです。彼らはバビロンでお金を稼ぐことばかりに夢中で、この世の仕事にどっぷりつかっていたからです。
これは私たちすべてのキリスト者に対する語りかけでもあります。その上で、「あなたがたは、あわてて出なくても、逃げるように歩かなくてもよいのだから」(52:12) と勧められていることばは、出エジプトのときに食料の準備もできないまま急き立てられて追い出された (出エジ12:33、39) こととの対比が意識されています。それは、「主 (ヤハウェ) があなたがたの前に進み、イスラエルの神があなたがたのしんがりとなられる」(52:12) という状況だと描かれます。
私たちの前も後ろも、主ご自身が守っていてくださいます。私たちも、やがて実現する新しいエルサレムに向かっての旅へと召されています。あなたの前には、新しいエルサレムの祝宴が待っています。世界は喜びの完成に向かっています。
イエスを救い主として喜び迎える声は、今も世界中で聞こえています。霊の耳を開いて、それに耳を傾けましょう。イエスは既に世界の歴史を変えてくださいました。私たちは既に新しい世界に足を一歩踏み入れています。
新しいエルサレムに向かう旅路は、キリストにあってその成功が約束されています。もちろん、私たちが自分でイエスの救いを拒絶してしまっては救われようがなくなります。しかし、私たちが自分の意志の弱さ、自分の無力さを認め、イエスの救いにすがろうとしている限り、私たちの救いは確定しています。
人にはできないことを、神はイエスによって成し遂げてくださいました。そして、イエスは、世の完成のときまで、いつも私たちとともに歩んでくださいます。
今、ドイツで16年間、首相を続けたアンゲラ・メルケルさんが、多くの国民に惜しまれながら引退しました。それは長期政権を保った多くの指導者が道徳的な問題を引き起こし追われるように去って行くのとは対照的です。彼女の両親は、多くの東ドイツの人々が西側に亡命する最中に、ハンブルグからわざわざ東ドイツの同胞の信仰を守るために移住を決断しました。それは、損得勘定を超えてキリストに従うという極めて自然な歩みでした。
ですからアンゲラは自由都市ハンブルグで生まれながら、育ったのは東ドイツであり、そこで秘密警察の監視を受けながら有能な物理学者へと成長しました。
そして、1990年に東西同一の統一とともに政界に進出し、94年には環境大臣に抜擢され、現在の地球温暖化対策の枠組みを作ります。そして2005年には51歳で首相に就任し、2015年には多数の中東難民を受け入れることで指導力を発揮します。彼女はそのときのことを「他に手がなかったのです」と謙遜に振り返っています。
多くの人々は、彼女が東ドイツの牧師の娘であったからこそ取った行動だと評価しました。彼女の信仰は私たちの基準と違う面がありますが、最近彼女の伝記を記した作家は、彼女の功績を、「かつて、ホロコーストを引き起こした国が、今や世界的な道徳の中心地と見られているのだ。これは驚愕以外のなにものでもない」と記しています。
道徳哲学を説くマルクス・ガブリエルは、「メルケルはドイツ史上最高の首相かもしれない」と評し、その理由を「未来を見据えて倫理的な決断をしたから」と評価しています。
そのような決断の鍵は、イザヤが描く「主のしもべ」の歌にあります。そこには社会の問題や痛みを自分で引き受けて行く歩みが示されています。私たちの世界では、問題から自由になることはできません。しかも、早急な問題の解決を願うことが、問題を起こす人を排除する方向へと社会を動かします。そして、それこそが、この世界の争いの原点となっています。
キリストは私たちに問題を解決する力以前に、問題を引き受ける力を与えてくださいます。そして、そこに神の平和が広がって行きます。神は、あなたをキリストに従う者と召すことによって、あなたをご自身の平和のために用いてくださいます。この世界のゴールは平和(シャローム)の完成にありますが、神はその平和をあなたの周りから始めてくださいます。