やはり、「神のかたち」に創造された人間にとって大切なのは、感情を共有できる交わりなのかと思わされました。使徒パウロは、互いに愛し合うことに関して、次のように記しています
喜んでいる者たちとともに喜びなさい。
泣いている者たちとともに泣きなさい
ローマ12:15
コロナ禍の中で、多くの人々が孤立して行きました。人知れず絶望感を味わっている方々がいます。
しかし、このコロナには出口が見え始めています。その気持ちが、詩篇126篇で次のように表現されます。
「私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき 私たちの口は笑いで満たされ……舌は喜びの叫びで満たされた」と描かれます (1、2節)。
まだ第六波が来るという恐れはありますが、出口が近いことは確かです。私たちは希望を抱いて喜ぶことができるのではないでしょうか。
イスラエルの民は自業自得でエルサレムを滅亡に導きました。しかし、ペルシャの王キュロスがバビロン帝国を滅ぼしたとき、主は彼の霊を奮い立たせ、イスラエルの民がエルサレムに帰還し、主の宮を再建できるように導きました (エズラ1章)。そのときの感動がここに描かれています。
ところが、イスラエルの民はその後、その感動が徐々に薄れて行きます。神殿再建は中断され、再建できても、そのうち「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても……何の得になろう」(マラキ3:14) などと言うほどに、倦怠感に満たされて行きます。同じことが現代の私たちにも起きることがあるのではないでしょうか。そのような中で、この詩篇作者は、「主 (ヤハウェ) よ 繁栄を回復させてください ネゲブの流れのように」(4節私訳) と大胆に訴えます。ネゲブとはユダの荒野の南に広がる乾燥地帯ですが、雨が降ると突然、水に満たされ、まもなくすると一斉に美しい花が咲き誇るという不思議な現象が起きます。それはイザヤ35章1、2節で「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う」と描かれている情景と同じです。
そして、主の祝福が見えなくなっている中で、それでも「涙とともに種を蒔く者は」やがて、「喜び叫びながら刈り取る」という祝福を体験できると保証されます。同じように、「種入れを抱え 泣きながら出て行く者」とは、凶作に苦しんだ後に、「この種が実らなければもう生きて行けない……」というような不安に苛まれながら、種を蒔く姿ですが、その人が、収穫時には、「束を抱え 喜び叫びながら帰って来る」と保証されているのです。
今は、「涙とともに種を蒔くとき」かもしれません。それは絶望感を味わい、悲しんでいる人に寄り沿い、ともに涙を流すというだけのことかもしれません。しかし、そうして初めて、喜びの叫びを共有できる時が来ます。
それこそがともに生かされている喜びではないでしょうか。
最近、自分には感覚過敏なところがあると示されてきましたが、同時に、そこにこそ生かされている喜びを味わう鍵があることも教えられてきました。
涙と種を蒔くという悲しみを共有できることから希望が生まれてきます。
以下は詩篇126篇をそのまま歌にしたものです。いつも英語ですみません。日本語でもこのようなビデオ音楽ができる日を期待しながら味わってみてください。詩篇126篇がそのまま歌われています。
祈り
主よ、あなたの民はバビロン捕囚からの解放を、「夢のようだ」と喜んでいましたが、やがて倦怠感に陥ってしまいました。主よ、私たちが同じ落とし穴にはまることがないように、キリストにある「新しい創造」をいつでもどこでも覚えさせてください。