感動から生まれる学び〜詩篇19篇

私たちの世界では、「頭が良い」とか「頭が悪い」と人を評価することばが行き交います。幸い、今、僕のことを「頭が悪い」という人は余り多くはいないように思いますが、実は、「僕は何で、こんなに物覚えが悪いんだろう……」と悩んできたのです。特に、中学校、高校と、英語の勉強について行けなくて悩みました。大学では、ドイツ語の学びについて行けませんでした。神学校では、ヘブル語、ギリシャ語の学びについて行くのが大変でした。

多くの人は意外に思われますが、本当に僕は、学校での語学の学びではいつも落ちこぼれに近い状態にありました。

しかし、ご存じのとおり、僕はドイツ語や英語を仕事で用い、現在は、ヘブル語やギリシャ語から聖書を理解することに喜びを感じています学校での語学の学びはついて行くのがやっとだったのに、外国語を本当に楽しむことができる一人かもしれません。

最近、ShinShinohara という方が書いた「『勉強できる子とできない子』世間で言われてる認識は間違っている」という を読んで、何かとっても納得することがありました。

彼は「教育において何よりも大切なのは、『自然や生命の神秘さ、不思議さに目を瞠り、驚く感性。センス・オブ・ワンダーこそが大切』」と語っています。

僕にとっての外国語は、違った世界に目が開かれる窓です。英語が楽しくなったのは、大学に入って、外国人と話す機会が生まれた時からです。ドイツ語が楽しくなったのは、ドイツに住みだしてからです。ヘブル語、ギリシャ語が楽しくなったのは、日本語訳聖書の限界にぶつかったのがきっかけです。

ShinShinohara さんは、次のようにも書いておられます。

私は、知識とは、知の織物「知織」だと考えている。他の知識と断絶した知識はない。たとえば「鉄」を理解するには、真夏の太陽に照らされた鉄は火傷するほど熱いといった体験や、逆に冬には凍てつくほど冷たかったり、電気が通ったり、フライパンを熱して湯気が出たり、磁石がくっついたり。濡れるとサビたり。包丁のような刃物になったり。そういった諸々の周辺的事実の結節点として、私たちは「鉄」を初めて理解する。

知識とは知のネットワークを形成することであり、ことばを覚えるとは結節点に名前をつけることであり、理解するとは、その結節点が何とつながってるかを知ること。

「勉強の苦手な子」が、説明を一度されただけでは理解できなかったり、場合によっては何度説明されても理解できないのは、その言葉を受けとめるべき体験ネットワーク、知識ネットワークが欠如してるから。何も受け手のないところに投げても落ちるだけ。大切なのは、受けるネットワークの構築。

お子さんたちに、「勉強しなさい!」と命じる前に、この世界の不思議に感動する感覚「センス・オブ・ワンダー」を体験してもらう機会を与えることこそが大切な気がします。

詩篇19篇の書き出しは、まさにこの世界に対する感動から始まっています。以下のように訳すことができます

天は 神の栄光を 語り、
 大空は御手みてのわざを告げる。
昼は昼へと 話を取り次ぎ、
 夜は夜へと 知識を伝える。
話もなく、ことばもなく、
 その声も聞かれないのに、
その響きは 全地をおおい、
 そのことばは 世界の果てにおよぶ。

太陽のため彼(神)はそこに幕屋を張られた。
 それは花婿はなむこが住まいを出るように、
  勇士ゆうしのようにその道を喜び走る。
その昇るところは天の果てから、
 その軌道きどうは天の果てまでおよぶ。
  その熱をこうむらないものはない。

これは今から3,000年前の宇宙感で記された詩ですが、神の創造のみわざが、この宇宙の不思議への感動をとして描かれます。

「夜は 夜へ 知識を伝える」ということばに「知識」の意味が記されています。夜になって、夜空を見ながら、昨晩の星の配置から少しずつ変化している状態を、知識の伝承……と描いています。何という感動に満ちた表現でしょう。古代の最大の知識の源は天文学にありました。

また、太陽の動きが、花嫁を迎える花婿の感動として描かれています。太陽の熱が、熱すぎる世界で、このように太陽の動きを感動して観察することができていました。

私たちは「自然」ということばで、これが自らの動きと考えますが、詩篇作者はそこに神のご支配を見出し、感動を覚えていました。

以前のパラリンピックの閉会式で歌われた「What a Wonderful World(このすばらしき世界)」という曲がありますが、私たちはこのコロナ禍の不安の中でも、世界の美しさを再発見し、感動することができます。

お子さんたちの教育に頭を悩ませている方々は、このセンス・オブ・ワンダーこそが何よりの学びの基本であるということをともに覚えていただきたいと思います。

日本の語学教育で落ちこぼれ感を味わっていた者が、今、誰よりも ことばを楽しんで生きています。

そのような変化が、誰にでも起き得るのかと思います。