エズラ記3章「主 (ヤハウェ) の神殿の基が据えられた日

2021年10月10日

旧約後半の中心テーマはエルサレム神殿の再建です。それはソロモンの神殿に比べれば「無いに等しい」ほどに小さなものでした。しかし、預言者ハガイはそれを指して、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさる」と主のことばを伝えました。それは、この神殿に神の栄光が戻って来ることを期待してのことばで、それがイエスにあって成就しました。私たちの教会も約10年前に、この慎ましい教会堂を建てるための第一歩を踏み出そうと教会総会を開きましたが、その日の説教箇所が今回の聖書箇所です。創世記から順番に説き明かし始め、はからずもこの箇所になりました。会堂建設に伴う「主へのささげ物」の話などは、個人的にはしたくない話でしたが、まさに主の摂理の中で、この箇所に当たり、多額の献金が与えられる契機になりました。それを覚えながら、謙遜に主のみことばをともに聴きましょう。

1.彼らは……毎日の分として定められた数にしたがって、日々の全焼のささげ物を献げた

イスラエルの子らは自分たちの町々にいたが、第七の月が来たとき、民は一斉にエルサレムに集まって来た」(3:1) と記されますが、「一斉に」とは新改訳の脚注にあるように原文では「一人の人のように」と記されています。それは彼らがそれぞれの相続地に一度は落ち着きながら、この第七の月の第一日を目指してエルサレムに心を一つにして集まって来たという描写です。それは「過越の祭り」(イースターの頃)から数えて第七番目の月で、その第一日は「全き休みの日……角笛を吹き鳴らして記念する聖なる会合を開く」(レビ23:24) とされていたからです。さらにその十日目の「宥めの日(贖罪の日、贖いの日)」(レビ23:27) は民族全体の悔い改めの日で、民の罪を負わせた雄やぎを荒野に放ちました (同16:21、22)。そしてその五日後から「七日間にわたる主 (ヤハウェ) の仮庵の祭り」が始まり、彼らはその間、「なつめ椰子の葉と茂った木の大枝」などを取って「 (ヤハウェ) の前で喜び」、仮庵(テント)に住み」ました (レビ23:40、42)。

このようなレビ記を背景に、「そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるために、イスラエルの神の祭壇を築いた」(3:2) と記されます。それは、神の幕屋も神殿もできるはるか前のアブラハムやヤコブ時代から、約束の地に入って最初にすべきことは自然のままの石を使って、祭壇を作り、主に全焼のささげ物を献げることだったからです。それに続けて、「彼らは、回りの国々の民を恐れていたので、祭壇を所定の場所に設けた」(3:3) と記されています。紀元前586年のエルサレム神殿崩壊から、この紀元前537年の祭壇の再建までに50年間が経過していましたが、彼らは昔の神殿の祭壇と同じ場所に祭壇を建てました。なお、ここの中心的な意味は、「回りの国々の民を恐れたからこそ、祭壇を建てること自体を大切にしたという意味だと思われます。バビロン帝国の民族混合化政策によって、その地には五十年間の間に別の民族が住み着いていましたから、現在のパレスチナのように、そこには土地の所有権を巡ってトラブルが多発していたことでしょう。彼らはイスラエルの神、主 (ヤハウェ) を生活の中心に置くことによって、万軍の主の御守りを期待したのだと思われます。その上で、「 (ヤハウェ) に全焼のささげ物、すなわち、朝ごと夕ごとの全焼のささげ物を献げた」(3:3) と記されますが、これは出エジプト記29章38–42節で命じられている最も基本的なささげ物です。そこには、イスラエルが神の民として、自分自身を主 (ヤハウェ) に献げるという意味が込められていたとも解釈されます。

また、「彼らは、書かれているとおりに仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められた数にしたがって、日々の全焼のささげ物を献げた」(3:4) と記されますが、それは民数記29章12–45節に細かく命じられているものです。それによると、第七の月の十五日から始まる七日間には、第一日目は、何と十三頭もの「若い雄牛」と、毎月の新月の祭りの二倍の、雄羊二頭、子羊十四頭が命じられました。雄牛の量は一日毎に減らされ七日目には七頭になりますが、雄羊と子羊は同数のまま七日間続きます。そして八日目のきよめの集会になって「宥めの日」と同数になります。これらを合計するとこの八日間で、雄牛71頭、雄羊15頭、子羊105頭、雄やぎ8頭になりますが、これらは「朝ごと夕ごとの全焼のいけにえ」に加えてのもので、「罪のきよめのささげ物」とされる「雄やぎ」以外は全て焼き尽くすものです。

これは現代の人には野蛮な無駄?と見られそうな命令ですが、「仮庵の祭り」には、収穫感謝の意味がありました。ですから、いけにえの量の多さは、神ご自身が余りあるほどの収穫を約束しておられることのしるしであり、同時に神の一方的なあわれみがなければ自分たちが生きることができないということを、全身全霊で覚える機会でもありました。聖書の原則は、「主を愛する者は豊かに祝福され、主にそむく者はのろいを招く」と簡潔にまとめることもできましょう (申命記30:15–20)。そして「」は、しばしば私たちの日常生活でも、人間的な目から見た無駄で表現されはしないでしょうか。それはたとえば、妻に、数日で枯れる満開のバラを贈ることを、「無駄」と感じる夫は、その心が問われるようなものです。

さらに5節では、「それから、常供の全焼のささげ物、新月の祭りやすべての聖別された主 (ヤハウェ) の例祭のためのささげ物、そして一人ひとりが進んで献げるものを、喜んで主 (ヤハウェ) に献げた」と記されますが、彼らは上記の途方もなく大量のものを献げるという行動を、その後も続けようとしたのです。ここに、「一人ひとりが進んで献げるもの」と自由な献げ物が記されますが、これは彼らがまさに「一人の人のように」自由な心によって一致して、主を礼拝することを生活の第一としたということを表しています。

その上で、「彼らは第七の月の一日から全焼のささげ物を主 (ヤハウェ) に献げ始めたが、主 (ヤハウェ) の神殿の礎はまだ据えられていなかった。彼らは石切り工や大工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシアの王キュロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤッファに杉材を運んでもらうためであった」(3:6、7) と記されますが、ここで彼らは2章69節にあった多額の金や銀のささげものを用いたのです。そこでの金銀の量は現在の価格で計算すると約35億円と2.6億円に相当すると既に解説したとおりです。彼らは現地周辺の異教徒たちをお金で雇って工事に取り掛かりました。かつてソロモンも、異教徒であるヒラムの建築者、ゲバルの石切職人を用いたのと同じです (Ⅰ列王記5:18)。なお、このときはまだ工事の準備段階で、材料を集めるのが中心的な働きでした。

2.喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった

3章8節では「彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いて二年目の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、そのほかの同僚の祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、主 (ヤハウェ) の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて、工事を始めた」と記されますが、「二年目の第二の月」とは、紀元前536年の過越の祭りの翌月、つまり、五月頃のことです。ソロモンの神殿の工事も第二の月に始められましたが、それに倣ってレビ人を中心に神殿の建設工事が始まりました。なお続く9節は、「こうして、ヨシュアとその息子たち、その兄弟たち、カデミエルとその息子たち、ユダの息子たち、そしてヘナダデの息子たちと孫たち、そのレビ人の兄弟たち一致して立ち、神の宮の工事に当たる者たちを指揮したと訳すことができます。ここに登場するヨシュアは大祭司ではなくレビ人、ユダの子たちもレビ人と考えられ、ここでは何よりも、すべてのレビ人が一致して、実際に神殿工事に携わる人々を指揮したということが強調されます。

その上で、いよいよ、「建築師たちが主 (ヤハウェ) 神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって (ヤハウェ) を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た」(3:10) と記されます。不思議にも「神殿の礎を据えた」ことが、ダビデが「神の契約の箱」を神殿の予定地に運び入れた時と同じ意味を持つかのように、Ⅰ歴代誌16章の記録にしたがって主を賛美しました。そしてここでは、「彼らは主 (ヤハウェ) を賛美し、感謝しながら歌い交わした、『主はいつくしみ深く(トーブ:善い)、その恵み(ヘセド:慈愛)はとこしえまでもイスラエルにあるから』と」(3:11) と記されます。ここに記されるのは詩篇118篇1節だけですが、ダビデの例に倣うなら詩篇96篇を初め多くの詩篇の歌が献げられたと思われます。その上で、その賛美の広がりの様子が、「こうして、 (ヤハウェ) の宮の礎が据えられたので、民はみな主 (ヤハウェ) を賛美して大声で喜び叫んだ」と記されます。

ところが、「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた(3:12) と記されます。神殿が破壊されたのはちょうど50年前ですから、ここには偉大なソロモン神殿を見ていた人がいます。彼らはこの神殿の礎が据えられただけの段階で、この神殿が完成した後の状態を思い浮かべ、改めて深い失望を味わったのだと思われます。そこには、自分たちの先祖が神に逆らったことの代償の大きさを思い浮かべながら、自分たちの罪を告白するという純粋な思いもあったでしょうが、同時に、せっかく夢を抱いてエルサレムにやってきたのに、自分たちはこの程度のものしか建てることができないのかという深い失望感もあったのではないでしょうか。それはヨーロッパの巨大な大聖堂の数々を見てきた人にとって、私たちが建てることができた教会堂の小ささに唖然とすることに似ています。しかも、ここで建てられようとしていたエルサレム神殿には、その心臓部である神の契約の箱すらもありませんから、その神殿の現実は、アブラハムやヤコブが旅の途中で築いた貧しい祭壇と大して変わりはしないと見られたのかもしれません。

ところが、「一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた」(3:12) とも記されます。それはバビロン帝国から解放されて、ここに自分たちの神の神殿と自分たちの国を建てることができるそのスタートを正直に喜んでの反応です。つまり、小さな「神殿の礎」に、これからの夢を見ることができた人も多くいたのです。そして、「そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった民が大声をあげて叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた」(3:13) と描かれます。ここでは泣く声も、喜ぶ声も両方ともあまりにも大きな声だったので、その区別がつかなかったという点が強調されています。ヨセフスも、ユダヤ古代誌で、「長老や祭司たちは完工した聖所が破壊されたものよりも見劣りがするように思われたので、悲嘆の声を上げたが、それはラッパの音や人々の歓喜の声にまさるほどであった」と記録しています (11:83)。神殿が破壊されて五十年も経っているのですから、昔の神殿を実際に見て記憶している人ははるかに少ないはずなのに、その少人数が上げた嘆きの声が、「多くの人々の喜び」の「叫び声」と区別できないほどの大きくなっていたということに、この神殿を巡る民の複雑な感情を見ることができます。

たとえば、私たちの会堂は本当につつましい物です。もっと大きなものができたと思う人もあったかもしれません。また反対に、ようやく自前の会堂を持つことができたこと自体に大きな感動を持つ人もいたことでしょう。ただ、そこで決して忘れてはならないのは、会堂建設はこの教会の今後の長い歩みの中での、初めの一歩、小さな通過点に過ぎないということです。私の尊敬するシンガポール福音自由教会のチャン先生が、「大きく考え、小さく始め、深く建てる (Think big, start small, build deep) ということばを大切にしていますが、より大きなビジョンの中で、目の前のことをとらえるということが何よりも大切です。

3.「主 (ヤハウェ) の神殿の基が据えられた日……今日から後、わたしは祝福する

エズラ記4章から6章には、回りの敵の妨害の中で神殿建設が遅れ、この20年後にようやく神殿が完成する様子が描かれ、5章1節には、預言者ハガイゼカリヤの名が登場します。彼らは神殿工事が約15年間中断した後の紀元前520年頃、イスラエルの民を励ますために遣わされた預言者でした。ゼカリヤ4章9、10節には、「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた……だれが、その日を小さなこととして蔑むのかと、このときに失望の涙を流した人のことが非難されています。そして、ハガイ書2章3節では、もっと具体的に、「あなたがたの中でかつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか」と言われます。ただ同時にその後の希望が、「万軍の主 (ヤハウェ) 」のことばとして、「わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす……この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさる……この場所にわたしは繁栄(シャローム:平和)を与える』」(2:6–9) と記されています。つまり、ゼルバベルがリードして建てたこの驚くほど小さな、人間の目には安っぽい神殿には、世界の奇跡といわれたソロモンの神殿にはるかにまさる栄光が期待されているというのです。

なお、この神殿は徐々に拡大され、後にヘロデ大王のときの大拡張工事によって、外観上はソロモンの神殿にまさる巨大建造物へと成長しますが、そこに期待されたような栄光は現れませんでした。しかし、このエルサレムには神の御子ご自身がロバに乗って入城し、神殿の外庭にはイエスご自身が立ち、「宮きよめ」をしてくださいました (マタイ21章)。それこそがハガイの預言が成就したときと言えます。「契約の箱」もない神殿は石の家に過ぎませんでした。しかし、そこに栄光の王であるイエスが立たれたとき、この神殿は栄光で満たされたとも言えます。その時、宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫びました。祭司長たちや律法学者たちはそれを非難しましたが、イエスは詩篇8篇2節から、「幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました」ということばの成就だと語られました。

大切なのは外観ではなく、この宮に伴っている約束です。Ⅱ歴代誌6章によると、ソロモンはこの神殿を奉献したとき、その後のイスラエルが主の怒りを買って、遠くの地に捕虜として捕らわれたときのことまでを想定して、彼らが「この宮の方に向いて祈るならあなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください」と願いました (36–39節)。そしてソロモンがその祈りを終えたとき、天から火が下ってきて、全焼のささげ物と、数々のいけにえを焼き尽くし、主 (ヤハウェ) の栄光がこの宮に満ち」ました (同7:1)。そのような栄光はゼルバベルが建てた神殿には長い間現れませんでした。しかし、神の御子が私たちの罪のために十字架にかかり、三日目によみがえられたとき、この神殿は完成したとも言えます。それはイエスが、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19) と言われからです。

それにしても、この神殿の礎が築かれた後に、工事がストップした理由は、周辺の異教徒による反対運動ばかりが、約束の地に帰還を果たした民の不信仰にありました。彼らは自分たちの日々の生活を立て直すことばかりに夢中になってしまったからです。そのことを預言者ハガイはこの宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」と言って当時の指導者たちを非難しました (ハガイ1:4)。さらに、「今、万軍の主 (ヤハウェ) はこう言われる。あなたがたの歩みをよく考えよ。多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく衣を着ても暖まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ(同1:5、6) と、自分たちの労苦が実を結ばない原因がどこにあるかを考えるようにと反省を迫りました。その上で、「あなたがたの歩みをよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す(1:7、8) と言われました。それは、主の宮を建てることを第一とするときに、主がこの国の繁栄を回復させ、それぞれの生活を祝福するという約束です。そればかりか、この神殿の再建が再び軌道に乗り始める日以降のことを極めて具体的に、「さあ、あなたがたは……主 (ヤハウェ) 神殿の基が据えられた日から後のことをよく考えよ。種はまだ穀物倉にあるのか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないのか。今日から後、わたしは祝福する(2:18、19) と言われました。これは、現在は、あなたが主の宮を建てることを第一とした日から、あなたの労苦は実を結び始めるという約束です。それから四年後に神殿は完成し、彼らの生活も大きく改善されました。同じことが私たちの会堂建設の後にも起きてはいないでしょうか。私たちがこのコロナ下でも礼拝を守ることができているのもその祝福の現われです。

しかしその後再び、彼らは主を第一とすることを忘れます。この神殿建設から約60年後に現れた預言者マラキは、主への十分の一献金を第一とする際の祝福について、「こうしてわたしを試してみよ——万軍の主 (ヤハウェ) は言われる——わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか」(3:10) と民を励ます必要が生まれました。彼らは熱くなっては冷め、そこで主の励ましを受けて、また熱くなって働きを進め、豊かになってはまた熱が冷めという繰り返しを続けます。

私たちは目の前の課題を、主に与えられたより大きなビジョンの中から捉えなおす必要があります。私たちの教会のビジョンは、「新しい創造を ここで喜び シャロームを待ち望む」です。礼拝の場は、永遠の世界と現実との接点です。ここにおいて、私たちはすでに実現している「新しい創造」とも言える祝福を再発見し、神が実現してくださる「新しい天と新しい地」におけるシャロームを待ち望みます。この会堂建設に際し、一人ひとりが喜んでそれに取り組んだ後に現わされた具体的な主の祝福を覚えながら、同時に、それがより大きな神の祝福を体験する始めになったことをいつも思い起し続けるべきでしょう。