昨日、ある大学生の葬儀を当教会で行いました。半年間、このことのためにお祈りしてきました。ご遺族は心より感謝してくださいました。
改めて本人の手記を丁寧に読んでゆきますと、彼は誤った教えの影響を受けながらも、聖書の基本はきちんと理解しておられたと感心しました。とにかく聖書をすべて丁寧に読んで、尊敬する人物の名に使徒パウロの名も上げて、「すべての人間は、罪の支配下にある。だから父なる神は、ご自身の御子を遣わされた」ときちんと書いてありました。
ヨエル書2章31、32節に次のようにかいてあります
主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主 (ヤハウェ) の御名を呼び求める者はみな救われる。
彼は、主の名を呼び求めて、救われた……者として、山に登り遭難したと解釈できます。またイエスは、マタイによる福音書10章29、30節で「二羽の雀は一アサリオン(数百円程度?)で売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」
彼の非業の死も神の御手の中でおきていたと思わされ、葬儀では「一羽の雀」の歌をともに唱和させていただきました。
使徒パウロはピリピ人への手紙4章8、9節で次のように記しています
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての喜ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに心を留めなさい。あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
彼が誤った教えに惑わされて、結果的に、無理な登山をし、亡くなったことは否定できない事実ではあります。
彼は旧約の教えから、偶像礼拝を極度に嫌うようになっていました。この世の腐敗を徹底的に憎んでいました。世の終わりが間近に迫っていると信じていました。
しかし、使徒パウロは、ローマ皇帝があの悪名高きネロであったときに「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」(ローマ13:1) と記しています。
これは現代的には、偶像礼拝者たちとの協力関係を保ちながら、この社会を少しでも住みやすくするために務めることの勧めであるとも言えましょう。
誤った教えは、この世での仕事を無意味な、汚れたものと思わされる方向に働きます。しかし、復活のイエスは弟子たちに、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21) と言われ、弟子たちのこの世の矛盾のただ中に遣わされました。
今、インターネットの世界では、過激な教えが出回っています。この社会で生きることの意味を見出せなくする教えが広まっています。
私たちはそれに対抗するように、聖書の福音をインターネットを通しても発信し続ける必要がありましょう。
彼のお父様は、彼が無くなってから初めて当教会を訪ねてくださいました。
そして、彼が生きている間にこの教会にたどり着いていなかったことを悔やんでおられました。
それで、この世の偶像礼拝者たちと私たちは協力して生きるのが新約聖書の勧めであるということを僕は書き続けていると申し上げ、拙著をお渡しました。
白か黒かという二者択一を、誤った教えは強調します。しかし、聖書の教えは、不条理に満ちたこの世界で私たちが生きるための教えです。そのことを引き続き伝え続ける必要があると感じさせられました。