これは日本語表現の美しさが出ている名文です。当時の被爆者であり広島大学教授だった雑賀(さいか)忠義氏が中心になって考えた文章です。
ただ、英語の公式訳では次のようになります。Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil.
英語の感覚ではこの we(私たち)とは誰か?という問いかけが起きます。これを最初に聞いたインドのパール判事(第二次大戦後極東軍事裁判で戦勝国の一方的な裁判を非難し、日本人を弁護してくださった方)は、原爆を落とされた日本が自分たちの責任を告白しているように聞こえると疑問を呈してくださったとのことです。
それに対し先の雑賀教授は、「世界市民であるわれわれが霊前に誓うものだ」と反論したのとのことです。
原爆資料館では広島でも長崎でも、原爆を開発した米国のマンハッタン計画が詳細に紹介され、当時の米国政府の責任を明らかにしています。
その開発に使われた費用は約20億ドル(2200億円)を超えると言われますが、それは何と、日本が太平洋戦争のために使った戦費2000億円を超えます。
原爆投下には多くの科学者たちの反対がありました。しかし、その開発に使われた費用の90%は、核分裂物質の製造のための工場などのプラント建設に使われたとのことです。
ドイツも日本も理論的には核爆弾の開発が可能だと考えていましたが、それを製造するための費用を賄うことができませんでした。
原爆を落とした米国政府の責任は、永久に問われるべきことです。しかし、日本もドイツも、お金さえあれば原爆を開発し、使っていた可能性があります。
戦後間もなくの時期は、太平洋戦争を引き起こした責任は日本側にあると教育されてきました。しかし、最近は、当時の米国がどれだけ日本を敵視し、最大限の準備をしながら、日本を挑発し、戦争に引きずり込んだのかという資料も出て来ています。
戦争では必ず双方に責任があります。一方的に誰かを悪者にすることはできません。欧米の言語体系からは、「誰の責任か」が明確にされます。その責任の所在の明確化が、欧米文化の素晴らしい所でもあります。
今回のオリンピック閉会式でも、パリと日本のプレゼンテーションの質の違いにみんなが驚いたことでしょう。それは責任者を明確にできない日本の悲劇とも言えるかもしれません。
しかし、このような原爆の被害者を前にして、私たちは「誰の責任なのか?」と問うこと自体が、次の争いの原因になるような気がして、無言にならざるを得ません。しかも、三度目の核爆弾が用いられるとき、世界は破滅に向かう可能性が極めて高くなります。
イエス様は、「平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)と言われました。しかし、その背後には、「義人はいない、。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない……彼らは平和の道を知らない」(ローマ3:10–17) という真理があります。このことばは詩篇53篇1–3節、イザヤ59章7、8節から生まれています。
要は、生まれながらの人間は、神を知らず、自分を正当化し続け、皮肉にも、平和を望みながら、結果的に争いを引き起こしてしまうということです。
責任を明確にしすぎる言語体系は、原爆の碑の前とか終戦記念日にはふさわしくないとも言えます。責任を追及し過ぎることが次の争いの原因にもなります。(もちろん、責任の所在を徹底的に追及すべきときもありますか……)
しかし、原爆の碑の前では、すべての人間が罪人であるという聖書的な自覚が何よりも大切です。
上記の広島のことばは、その碑の前に立つ、一人ひとりが、自分を世界の中のかけがえのない一人であることを意識しながら、苦しみながら亡くなって行かれた人々の前で、平和を誓うことばです。日本語だからこそ表現できる一人ひとりの意思と言えましょう。