私たちは日々、新型コロナの感染者数の記録更新とオリンピックのメダリストの物語の両方に一喜一憂しています。どれほどオリンピック開催に反対していた人でも、メダルを獲得した人の物語に感動し、喜ぶことができます。それは「神のかたち」に創造された人間の心の目が、統計数字よりも一人ひとりの人生に目が向かうものだからです。
しかし、現在は「病気を原因としないコロナ死」に目が向けられる必要があります。それは感染恐怖のために人と人との結びつきが弱くなったことや、非正規雇用で収入減少に悩まされることからのストレスによって自ら命を絶ってしまう特に女性が急増しているという現実です。
私たち教会としては医療従事者のために祈ると同時に、孤立化する方々に手を差し伸べることが求められています。神は、私たちが目の前の一人ひとりの方にどのように向き合っているかを見ておられます。
1.「あなたがたは気をつけなさい、この小さい者たちの一人を軽んじることがないように」
イエスは、「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」と言われました (18:5)。
さらにそれとセットで、「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです」(6節) と恐ろしいことを言われました。
そこでは「受け入れる」ことの正反対として、「つまずかせる者」になることの警告が強調されます。それはイエスのもとに行こうとする道を邪魔することの問題です。
その際イエスは、「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい……もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」(8、9節) と厳しいことを言われましたが、これは文脈的には社会的弱者と言われる方々の信仰を邪魔してしまう危険を指していると考えることができます。
それをさらにイエスは、「あなたがたは気をつけなさい、この小さい者たちの一人を軽んじることがないように」と言い換えられました。それは、たとえばあなたがホームレスの方々のそばを通り過ぎるとき、「あなたの目が」その方を軽蔑するように向かうなら、そんな目は「えぐり出して捨てる」べきですと言われたことと解釈できます。また「あなたの手か足が」そのような方々の援助に向かうことを拒否させるなら、それらも「切って捨てなさい」という意味に解釈できます。
イエスの弟子でさえ「生まれたときから目の見えない人」を前にして、「先生、この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか」と尋ねました (ヨハネ9:2)。それは当時のパリサイ人の解釈に影響された問いでした。
この盲目の方はイエスによって癒され、イエスが神から遣わされた方であると弁明しましたが、そのときパリサイ人は「おまえはまったく罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と、そのことばに耳を傾けようともしませんでした (同9:34)。イエスが彼らを非難した最大の理由は、彼らが「小さい者たちの一人を軽んじた」ことにあります。
しかもイエスは、「それは、あなたがたに言いますが、彼らの御使いたちは、天においていつでも、わたしの父の御顔を見ているからです、その方は天におられます」(10節) と続けて説明しました。
イザヤ6章1–3節では、イザヤが「高く上げられた御座についておられる主を見た」という不思議な体験が描かれ、そこでは六つの翼をもつセラフィムが「二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいる」と記されていました。
つまり、主の身近で仕えるセラフィムでさえ、主の御顔を仰ぎ見ることがないように自分の翼で自分の顔を覆っているのに、「小さい者たち」の守護天使だけは、例外的に「いつでも……父の御顔を見ている」というのです。それは「小さな者たち」の「御使い」が、天の父なる神から特別に目をかけられる存在であるという意味です。
なお、新改訳の脚注にあるように、いくつかの写本には、11節として「人の子は失われている者を救うために来たのです」ということばが挿入されています。それは文脈を明らかにするために後代の写本執筆者がルカ19章10節のことばをここに入れたものと思われます。
とにかく、この文脈が語っていることは、「小さい者たちの一人を軽んじる」者は、神を敵に回してしまうという恐ろしい警告です。
そしてその流れの中で、「ある人に羊が百匹いる」という仮定の中で、「そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かける」という行動を当然に取るという話をします。
この文章は「あなたがたはどう思いますか」という問いかけから始まり、「迷った一匹を探しに出かけないということがあるでしょうか」という結論が当然のこととして描かれます。つまり、ごく普通の百匹の羊の所有者でさえ、九十九匹を残して、一匹を探し出すという行動を取るというのが極めて自然なことあるというのです。
そればかりか、その一匹を見つけ出したら、「その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます」という結論が描かれます (12節)。そして、その地上の羊飼いの例をもとに、「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころ(望み)ではありません」と記されます。
つまり、地上の羊飼いでさえ失われた羊を当然のことのように探し出し、その発見を喜ぶとしたら、まして「天におられるあなたがたの父」が、「小さい者たちの一人が滅びること」を「望む」ということはあり得ないという結論になります。
ですから、「小さい者たちの一人を軽んじる」ことは、神のご意思に真っ向から反する恐ろしい罪であるということになります。
2.「兄弟が(あなたに対して)罪を犯したなら……行ってあなたとその人だけのところで明らかにしなさい」
18章15節は、「もし、あなたの兄弟が(あなたに対して)罪を犯したなら、行って、あなたとその人だけのところで明らかにしなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」と訳すことができます。
新改訳の脚注には「あなたに対して」が入っていない古い写本もあると記されています。ただ、これはエゼキエル3章18節に描かれるような、悪者に向かって「あなたは必ず死ぬ」と警告しないことによって、その血の責任を問われるという文脈とは異なります。
エホバの証人などは、自分たちを世界の見張り人「ものみの塔」であると位置づけ、ただ警告を与え続けること自体に意義を見出しますが、せっかくの真理のみことばも、神が与えた機会でなければ生かされることはありません。
たとい、この箇所を一般的な罪の指摘と理解する場合も、「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすればキリストの律法を成就することになります」(ガラテヤ6:1、2) という勧めを参照にすべきです。
そこでは上から目線で人の行動を非難する代わりに、自分たちも同じ誘惑にさらされているという意識で、互いに支え合うという謙遜な気持ちが求められています。
しかも、これを人の悪い行いを正すためのマニュアルのように理解してはなりません。残念ながら、ときに現実の教会では次のようなことが起きます。
たとえば、ある人の行動が明らかに聖書の教えに反していると心を痛めている方が、その気持ちを気心が知れた人にまず相談し、その罪を指摘すべきだとの確信に満たされるようになり、その人の罪を面と向かって非難します。
しかし、そのような方法では気持ちが通じません。それで今度は、最初に相談した気心が知れた人を伴って、その問題をなお強く指摘します。しかし、そのような圧力を受けた人は反発せざるを得なくなります。
それで今度は、その非難した人は問題を教会の役員会にかけて戒規処分を求めます。そうすると、必ずと言ってよいほど、そのような処分に反対する人が生まれて教会が分裂するということになります。
しかし、迷い出た一匹の羊のために九十九匹を山に残すという文脈の中で記されているみことばを、最初から、共同体の聖さを守るためという名目での組織防衛や気心の知れた仲間との交わりを優先するようなことになっては本末転倒です。
それと反対にここでは、気心の知れた人に問題を分ち合う前に、「あなたとその人だけのところで罪を明らかにする」という第一ステップの大切さが強調されています。自分の味方を最初に作って、その心理的な応援を得て、罪を犯した人に有無を言わせないように体当たりをするなどということは、「兄弟を得る」というプロセスではありません。
ここで意図されているのは、たとえば次のようなことでしょう。あなたがある兄弟の言動によって、深く傷ついたとします。その場合には、まず誰かに、そのことを相談する前に、「あなたとその人だけのところで」、「あなたは何の悪意もなくそのようなことをしたのでしょうが、それによって私はこのような心理的ダメージを受けてしまいました」と問題を「明らかに」します。
すると、多くの場合は、傷つけた人は、「そのように言われて初めて、自分の過失に気づきました」と言って謝罪してくるでしょう。それはあなたの側にその人に気づきを与えたいという愛の思いが伝わるからです。そうすると、あなたは、自分にとって最も話が通じないと警戒していた人を、真の兄弟とすることができます。
ただ、もちろんそれでも、「それはあなたが勝手に傷ついただけでは……」と図々しく反応する人がいるかもしれません。しかし、そこで初めて、他の人の助けを得て問題を明らかにすることが勧められます。
そのことが16節に、「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の口によって、すべてのことばが確認されるためです」と記されています。ただこれは、あなたが受けた被害の事実、またはその人の罪を、第三者の目で確かめてもらうというプロセスに他なりません。
この最後の文章は申命記19章15節からの引用で、その理由が続く16–21節で詳しく記されます。それは「悪意のある証人が立って、ある人に不正な証言をする」ことを回避するためです。つまり、罪を訴えた人が噓を言っているかもしれないので第三者の証言で確認するということです。
その場合、明らかに利害が一致する家族や友人は証人にはなれません。しかも、そこでは「不正な証言」に対しては、その人が同胞に企んでいたと同じ罰則を与えるように命じられていました。それは、死刑を要求していた「偽りの証人」が死刑にされることであり、その人に慰謝料を要求していたなら「偽りの証人」がその同額の慰謝料を払う義務が生じるということです。
そこでは「あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を歯には歯を、手には手を、足には足を」という同害報復法が適用されます。
ですから、人の罪を指摘することは単なる正義感でできることではありませんでした。訴える人自身が「偽りの証人」とされる可能性もあったので、人の罪を指摘することは命がけの覚悟が必要とされました。
さらに17節では、「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい」と記されていますが、「教会 (エクレシア)」は何かのさばきを下す組織ではなく、信仰者の交わりに過ぎません。そこで問われるのは、その人の罪が共同体を腐敗させる影響力を持つかどうかということです。
ですから続けて、「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と記されます。それはその人を仲間として扱うのを止めるという意味です。これは癌細胞の広がりを阻止するという共同体の責任ですが、その決断の重さが、「まことに、あなたがたに言います。何でも(もし)あなたがたが地上でつなぐなら天でもつながれ、何でも(もし)あなたがたが地上で解くなら天でも解かれます」(18節) と描かれます。
これは主がペテロに「天の御国の鍵を与える」と言われたのと同じ内容で、違いは「あなたがた」という複数形になっているだけです (16:19)。ここでの「つなぐ」とか「解く」とは当時のラビの用語で、具体的な地上の行いが、律法に照らして禁じられているか、許容されているかを判断する権能が教会に与えられているという意味です。
しかもここでは「地上でのことが、天において認められる」という、天と地が重なり合う原則が描かれ、教会が神の全権大使としてその人の罪に向き合うことを意味します。
ですから使徒パウロも、「あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。『あなたがたの中から、その悪い者を除き去りなさい』」と厳しく命じています (Ⅰコリント5:12、13)。
ただし、もしその決定のプロセスで、教会の指導者や役員の自己保身的な動機が働くなら、その責任者も神から厳しくその責任を問われると言えましょう。神の目には、一人ひとりが大切な存在です。組織を守るために誰かを犠牲にするという発想はあり得ません。
残念ながら、イエスを死刑に追いやった大祭司カヤパは、「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」(ヨハネ11:15) と、イエスの罪を立証する責任を取る代わりに、自分たちの損得勘定でイエスを死刑にすることの正統性を主張しました。
このような人間が終わりの日に、神の厳しいさばきを受けることは避けられません。権力を持つ者はカヤパの仲間となる可能性を恐れるべきです。
3.「もし、あなたがたのうち二人が、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら……」
イエスは教会の崇高な責任について語った後に、19節ではまず、「もう一度」というより、話しを展開するという意味を込めて「さらに」と言いつつ、18節と同じ「まことにあなたがたに告げます」と繰り返して、「もし、あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈る(求める)なら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」と言われました。
今回の訳では省かれた「もし」とは仮定法で、「地上で心を一つにする」ということがいつでも簡単に起きるわけではないことが示唆されています。それは、今までの「もし聞きいれたら、あなたは兄弟を得た」(15節) とか、「(もし)地上で解く(許す)なら、それは天においても解か(許さ)れており」(18節) という、兄弟との和解を前提として、「天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」と言われているからです。
しかも、ここはさらに「どんなことでも……祈る(求める)なら」という条件文が重ねられています。ここでの「祈る(求める)」とは、主がかつて「求めなさい。そうすれば与えられます」(7:7) と言われたときと同じことばです。
つまり、私たちの心の願いがかなえられるための条件が、「心を一つにする」ということと、熱心に「求める」ということが重なっているのです。
私たちはその点で、祈りにおいて、兄弟と心を一つにするということと、熱心に求めるということに欠けていることが多いのかもしれません。
しかもイエスは続けて20節で、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」と言われましたが、これは「もし」という仮定法ではなく、「まさにその通りだ」という強調を伴って、イエスの御名によって集まる所には、たといそれが「二人か三人」という驚くべき少人数であっても、イエスはその交わりの真ん中にいてくださるという意味です。
そこで問われているのは、私たちの心の状態ではなく、イエスが主としてあがめられているという、主の御名に中心が置かれているかということです。イエスはあなたの罪を赦すために十字架にかかってくださいました。それならば、真の意味でイエスの御名において集まるところには、本来、心を一つにするという和解がないということ自体が自己矛盾、あり得ないはずだからです。
私たちはときに互の意見を摺り寄せることばかりに時間をかけすぎるのかもしれません。大切なのはイエスの名によって集まるという動機の問題です。自分の都合や集団の都合ではなく、イエスの御名こそが第一とされるべきなのです。
私たちはときに、二人や三人の祈りでは力が足りない、百人が心を一つにできているなら、そのような「祈り」こそが社会を変える力になると考えます。
しかしイエスは、「もし、二人が……心を一つにして祈る(求める)なら」、「二人か三人がわたしの名によって集まっているところには」と言われました。まさに「二人か三人が」いればそれで十分なのです。神の目にはたった一人が大切です。そして、私たち一人ひとりに求められていることは、目の前のたった一人の人と心を一つにして祈るということをどれだけ大切に、真剣に考えているのかということです。
たった一人の人と心を一つにできるということが、何百万の何千万の人が心を一つにできるということにつながってきます。しかも、二人でも三人でもイエスの御名によって集まっているそのただ中にイエスがいてくださるというなら、まさに教会の力は、その人数によるものではないということが分かります。
もちろん、一人でも多くの人がイエスを信じることができることは大切ですが、それすらも、「あなたがたのうちの二人が、地上で心を一つにして祈る」ということから始まります。
今回のオリンピックで女子ソフトボールの金メダル獲得が感動的でした。監督の宇津木麗華さんは元監督の宇津木妙子さんを慕って中国から帰化した選手でした。そしてピッチャーの上野由岐子さんは何度も引退を考えながら麗華さんとの信頼関係で投手を続けて来られた方です。
まさにソフトボール優勝の背後にこの三人の強固な信頼関係がありました。それこそすべてのチームワークの原点です。
福音自由教会は制度化され国教会から離れて、一人ひとりの主体的な信仰と自由な交わりを尊重するところから生まれました。しかしそれでも組織化し過ぎる懸念は残ります。
それは教会の聖さを守るために罪人を排除するような動きです。それはたとえば以前は、LGBTの方々を汚れた罪人として最初から除外することに現れました。ただそれはコリント第一の手紙5章に記されていることの適用と考えられました。
しかしその際、イエスが取税人や罪人にどれだけ優しく接せられたか、また信仰の弱い者にどのように向き合われたかを忘れてはなりません。イエスが誰よりも厳しく非難されたのは社会的な立場を持つ宗教指導者たちでした。
一方、最初のキリスト教会は漁師や取税人たちの交わりから生まれています。取税人マタイが記したこの福音書にはペテロの愚かさが赤裸々に描かれていますが、そこにはマタイとペテロとの強固な信頼関係があったことも思い浮かべることができるように思います。
私たちも教会の交わりを一人ひとりとの信頼関係の積み上げから見て行く必要がありましょう。常に一人が大切なのです。