詩篇40篇「巻物の書に私のことが書いてあります」

2021年7月18日

イエスの救いの物語が旧約聖書の中に記されていますが、それは同時に、私たちのこの地での働きの可能性が記されていることでもあります。キリスト者に与えられた「罪の赦し」は驚くべき恵みではありますが、神に仕える生き方の出発点に過ぎません。

自分の罪や失敗を数え上げて自己嫌悪に陥る生き方を超え、この社会の現実の中でうまく機能できなかったあなたのユニークさが、キリストにあって生かされるという新しい道を探り求めるべきではないでしょうか。しかも、あなたは今すでに、キリストの栄光の姿にまで造り変えられる途上にあるのです。

巻物の書に私のことが書いてあります」(7節) とは、ダビデの物語、イエスの物語であるとともに、あなたの人生の物語です。なぜなら、「神は、世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」(エペソ1:4) と記されているからです。

あなたの人生の物語は神の最高傑作として備えられているという自覚を持つべきでしょう。

1.「幸いなことよ 主 (ヤハウェ) に信頼を置く人は」

この詩篇は1–10節と11–17節の二つに分けられます。前半では神の救いを喜びながら、後半では神の救いを必死に求める形になっています。しかも13–17節は詩篇70篇でほとんど同じことばが繰り返されます。

しかし、前半と後半で、同じようなことばが用いられているので、これは一つの詩篇と考えられます。ダビデの生涯の前半は、サウル王からの執拗な攻撃を受けながら、神によって救い出された物語として描かれます。

ただ、王権が安定して安逸を貪る中で、ウリヤの妻バテ・シェバを奪い、その罪が家族全体を腐敗させ、息子アブサロムから一時的に王位を奪われることに繋がりました。それに至るダビデの歩みは驚くほど惨めに見えますが、彼はそこでも神が自分の罪を赦し、ともに歩んでいてくださることを信じることができました。そこで彼は神殿礼拝の形を整え、キリストの登場に備える道を開くことができました。

1、2節でダビデは、

(ヤハウェ) を 切に私は待ち望んだ。

すると主は身を乗り出して この叫びを聞いてくださった。

滅びの穴から 泥沼から 私を引き上げてくださった。

主はこの足を巌(いわお)に立たせ 歩みを確かにしてくださった

と歌います。

これは詩篇18篇で、ダビデがサウルの手から救い出された日の感動を描いたことに似ています。そこでは、ダビデが絶望の淵に追いやられ、必死に神を呼び求めると、主は天の宮でその声を聞かれ天を押し曲げて降りて来られ彼を深い大水の中から引き上げ広い所に導き出してくださったと歌われています。

主の「救い」は、「主を切に待ち望む」ことから始まりますが、そこでは忍耐が求められます。ただ、主は私たちの叫びを聞いておられないように思えても、それは天に届いており、主の時が来たら、ご自身の圧倒的な救いを現わしてくださいます。

これは主が私たちを「」の支配の中から「引き上げ」るという復活のみわざと、不動の「巌に立たせ」て、困難に向かって歩み出す勇気を与えてくださることとして表わされます。救いの実は、日常の「歩みを確かにする」ことに現わされます。

そして、それらをまとめるように、主は「新しい歌をこの口に授けてくださった 私たちの神への賛美を」(3) と描かれます。私たちが主を賛美するというよりも、主ご自身が私たちの口に「新しい歌」としての「神への賛美」を授けてくださるというのです。

そして、そのような「新しい歌」を聞いた「多くの者たちはこれを見て恐れ 主 (ヤハウェ) に信頼しましょう」と歌われます。賛美も宣教も主ご自身が生み出してくださいます。

ドイツで出会い私たちの歩みを応援してくださったご夫妻が、息子さんの証しをお送りくださいました。彼は以前、奥さんから離婚を迫られた日、自殺未遂を起こしました。離婚を迫られた原因は、彼が自分の感情をコントロールできず、妻と息子に暴力を働いたことのようです。

その彼が長いうつ状態からようやく抜け出し、両親や姉妹たちに心からの感謝を表し、教会で赤裸々な次のようなお証しをしました。

「皆様に伝えたい事は一つです。どんなに人生を間違えても、どんなに道を踏み外しても、どんなに人を苦しめ、傷つけたとしても、また、どんなに自分の人生と周りの人の人生が台無しになったとしても、神様は貴方を待っています。待ち続けています。

失敗したら終わりだと勘違いしないでください。貴方と一緒にその間違いだらけの人生を取り出し、神の光の中で一緒にそれを眺め、神様が共に歩んでくださるからです。もし、この世での時間が残されていなくても、天の御国では、貴方がこれまで見過ごした楽しさ、世界の美しさ、愛で築き上げられる友情の嬉しさを永遠に喜ぶことができるようになります。

これは貴方が正しい生き方をしようが、間違った生き方をしていようが、今生きている限り、手遅れでは絶対ありません。」

これはこの詩篇のみことばの真実の証しです。お母様もそれを心から喜び、「今彼が生きているのはただ神様の恵みだと思います」と、書いてきてくださり、息子さんとともに証しの公表を許してくださいました。

そこから4、5節に記された以下のような告白が生まれます。これこそ神に信頼する者の幸いです。

幸いなことよ 主 (ヤハウェ) に信頼を置く人 

高ぶる者や偽りに傾く者たちの方を向かない人は。

何と多いことでしょう あなたがなさった奇しいみわざ 

私たちへの計らいは  わが神 主 (ヤハウェ) よ。

あなたに並ぶ者はありません。

私が語り告げようとしても あまりにも多く 数え切れません。

どれほど理想的に見える家庭にも、問題が起きることは避けられません。それはヨブ記に記されたように、サタンの妬みを買った結果かもしれません。そのとき、わざわいの原因を探ろうとすると、ヨブの友人たちと同じ過ちに陥ります。大切なのは、試練の中でも上記のような告白を保ち続けることです。

たとい、「 (ヤハウェ) に信頼を置」いたことが無駄だったと思えるようなときがあったとしても、長い人生を振り返ると、「数え切れない」ほどの、主の「奇しいみわざ」と「私たちへの計らい」を発見することができることでしょう。

2.「あなたのみこころを行うことを私は喜びとします」

続く6–8節のことばはヘブル人への手紙10章5–7節で、イエスご自身の告白として、「ですからキリストは、この世界に来てこう言われました」と記されながら引用されます。

そこでのギリシャ語の意味は、ヘブル語原文と微妙に違っている部分がありますが、著者は詩篇40篇の全体の文脈を意識してそのように引用したのだと思われます。それは私たちの「心の復活」が描かれているというストーリーです。

ヘブル語聖書の6節では、「いけにえも供え物も あなたはお喜びになりません。 私の両耳を あなたは開いてくださいました」と記されていることばが、ヘブル10章5節では、「いけにえやささげ物を、あなたはお望みにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました」と記されています。

それは、この詩篇の2、3節にはキリストの復活が示唆されているなら、それ以前に主が「滅びの穴……泥沼」に沈んでいる人間とご自分を一体化するために人となったということが考えられます。それでこの詩篇を引用するときに、キリストの受肉を示唆する「わたしに、からだを備えてくださいました」という表現になったのでしょう。

この詩篇の私の両耳を あなたは開いてくださいました」という表現と、後の時代の預言者イザヤがその50章4–6節で「苦難のしもべ」を次のように描いたことがヘブル書の著者の中で結びついたと考えられます。

イザヤは主のしもべの姿を、「神である主は……朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず……侮辱されても、つばきをかけられても、顔を隠さなかった」と描きます。

そこには主 (ヤハウェ) ご自身が苦難のしもべの「耳を呼び覚まし」「耳を開いて」優しく語りかけ、人々の侮辱や嘲りに耐えられるようにしてくださったようすが描かれるのです。

つまり、永遠の神の御子が肉のからだを備えられた」ことの神秘は、何よりも御父がイエスの「両耳を……開いて」くださったことに現わされているのです。

さらにこの詩篇の6–8節では、

全焼のささげ物も罪のきよめのささげ物も 

あなたはお求めになりませんでした。 

そのとき 申し上げました。「今 私はここに来ております。

巻き物の書に 私のことが書いてあります。

あなたのみこころを行うことを私は喜びとします わが神よ。

あなたのみ教えは 私の腹の中にあります」

と記されています。

ここでは、詩篇の作者自身が、主の「み教え(律法:トーラー)」を心の底から味わい、それを「腹の中」に置いて、「 (ヤハウェ) のみこころ」を「喜んで」「行う」と述べ、そのような生き方が「巻き物の書」としての聖書に記されていると告白しているのです。

つまり、「律法」は私たちの罪を指摘する基準である前に、私たちがどのように主に喜ばれる生き方ができるかを記した書であり、それを「行う」ことは、高価な「全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物」にまさると描かれているのです。

ヘブル書10章6、7節で、イエスは御父に向かい、

全焼のささげものや罪のきよめのささげ物を、お喜びになられませんでした。

「ご覧ください。わたしは来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。

それは、神よ、あなたのみこころを行うためです」

と言っています(私訳)。

つまり、このみことばはキリストご自身が味わい、従われた「神のかたち」としてのあるべき姿だったのです。それは同時に、イザヤが描いた「苦難のしもべ」の生き方でもありました。

イザヤ書の始まりの1章11–17節で、主 (ヤハウェ) は、「わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた……もう、むなしいささげ物を携えて来るな……それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた……善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなし子を正しくさばき、やもめを弁護せよ」と記され、それこそが「苦難のしもべ」の生き方につながります。

それはこの世界の痛みや悲しみを自分のものとし、それを担って行く生き方でした。つまり、「いけにえやささげ物」を規定した旧約聖書自体の中に、その限界が記されていたのです。

これはイスラエルの民にとっては衝撃的なことばですが、それこそイザヤ預言の核心でもありました。さらにそれを踏まえてヘブル10章10節では、御父と御子のみわざによって、「このみこころ(ご意思)にしたがって、私たちは聖なる者とされています」とまず力強く宣言され、「それは、イエス・キリストのからだが、ただ一度(once for all『一度ですべて』)献げられたことによるのです」と記されます(私訳)。

詩篇40篇全体がキリストの受肉と復活を示唆しているように、この部分は、十字架を超えて、復活し昇天したキリストのからだが天において父なる神に献げられたことを描いていると解釈できます(拙著ヘブル解説参照)。

それを前提に、私たちもイエスに倣って栄光を受けるという希望を持つことができます。しかも、ここではイエスのからだが天で「ただ一度、献げられた」ことによって、すでに私たちは聖なる者とされている」という大胆な宣言がなされています。それが、キリストにつながる私たちに霊的に実現していることなのです。

私たちは自分の罪深さを認識することは大切ですが、それだけでは、「神の赦し」を体験できるために何をしたら良いかということばかりに目が向かいます。それは旧約に描かれた「いけにえ礼拝」の限界と同じ落とし穴にはまります。

より大切なのは、自分が「復活のキリストと一体の者とされた」という健全な誇りを味わいながら、キリストの大使として、この世の痛みや悲しみが満ちる場所に遣わされて、そこで「生きる」ことなのです。

3.「主 (ヤハウェ) よ 私を救い出すことをみこころとしてください」

9節では突然、義を私は喜び知らせます 大いなる会衆の中で」と記されます。

」とは英語で Righteousness と訳されます。このことばは、ときに神の厳しく公正なさばきの基準と理解され、人々を恐怖に陥れることがありましたが、旧約の多くの箇所では、神のご自身の契約に対する真実さという意味で用いられます。

ですからここでは続いて、

今 私は唇を抑えません。主 (ヤハウェ) よ あなたはご存じです。

あなたの義を 私は心の中に隠しません。

あなたの真実とあなたの救いを 私は言い表します。

あなたの慈愛 (ヘセド) とあなたのまことを 

大いなる会衆に私は隠しません

(9、10節) と記されます。

ここで明らかなのは、「神の義」は、「あなたの真実とあなたの救い」、また「あなたの慈愛(ヘセド:恵み)とあなたのまこと」ということばと同じ意味を表すことばとして描かれているということです。

神の義」と「神の愛」を対立的な概念として考えてはなりません。実は、「神の義」の意味の発見こそが宗教改革の原点だったのです。

とにかくダビデは、自分を救った「神の義」の豊かさを「大いなる会衆」に「喜び知らせ」、また「大いなる会衆に」対して「神の慈愛(ヘセド:恵み)」と「神のまこと」を「私は隠しません」と同じことばを繰り返しています。

その上で11節からは今までの救いの喜びの描写から一転して、ダビデを再び襲った何らかのわざわいの中での祈りが描かれます。

そこでは、先の「私は唇を抑えません」と同じことばを用いて、神に向かって、「あわれみを私の前で抑えないで(惜しまないで)ください」という不思議な嘆願をします。

これはまるで、神が「あわれみ」の出し惜しみをしているかのように思っているような失礼な表現です。さらにその後半で、再び「神の慈愛」と「神のまこと」ということばを用いて、それらが「絶えず私を見守るように」と願います。

さらに12節では「数え切れないわざわいが 私を取り囲んでいるからです」と自分の状況を描きます。これは先の5節での神の「奇しいみわざ」「私たちへの計らい」が「あまりにも多くて数え切れません」と記されていることと対照的な悲惨な状況です。

しかもここでは、「私の数々の咎が襲いかかり」と自分の「数々の咎」がその原因となっていることを示唆します。さらに、「それらは私の頭の髪の毛よりも多く 私の心さえも私を見捨てました」と、自分の咎の多さと絶望感が描かれます。

これはダビデのバテ・シェバ事件の後、長男アムノンが腹違いの妹のタマルを凌辱し、彼女の兄のアブサロムが計略を練ってアムノンを殺し、その後、父に疎まれたと思ったアブサロムがダビデに謀反を起こし、多くの人々がダビデに反旗を翻したという11年間の一連の悲劇を指しているかのようです。

その間、ダビデは父親としての権威をまったく見せることができず、ついにエルサレムから逃げ出さざるを得なくなりました。あの時のダビデは、「私は何も見ることができません……私の心さえも私を見捨てました」と言えるような絶望的な状況でした。

そのような中で、ダビデは大胆にも、「みこころとしてください主 (ヤハウェ) よ 私を救い出すことを」(13節) と願います。

先にダビデは、「あなたのみこころを行うことを私は喜びとします」と言ったのですが、今度は主に、「私を救い出す」ことを「みこころとしてください」と、自分の願望を「主のみこころ」とするようにと図々しく願っています。それは「私を取り囲んでいる」わざわいが、自業自得によると自覚しながらも、神の赦しを確信しているダビデは、自分の救いが神のみこころに違いないと信じていたからです。

それがさらに、「 (ヤハウェ) よ 急いで私を助けてください」という大胆な嘆願になります。しかも、自分のいのちを求め滅ぼそうとする者や自分のわざわいを喜び自分の悲惨をあざ笑う者どもに対して、「みなそろって恥を受け 辱められますように」(14節)、「後ろに退いて卑しめられますように」、「自らの恥に唖然としますように」(15節) というさばきが神から下されることを大胆に願っています。

原文ではこのさばきを願う祈りが先に記されています。ダビデは数々の咎を恥じながらも、大胆に自分の敵の上にさばきを願うことができました。

16節はそれと対照的に、

あなたにあって楽しみ 喜びますように 

あなたを慕い求めるすべての人たちが。

「主 (ヤハウェ) は大いなる方」といつも言いますように

あなたの救いを愛する人たちが

と、主を慕い求め、その「救いを愛する人たちが」が、主にある楽しみ喜びを味わい、主を偉大さ賛美することができるようにと願っています。

これは自分の救いが、主の民全体の喜びになるようにという願いです。

そして17節では、「この私は苦しむ者 貧しい者です。主 (アドナイ) が私を顧みてくださいますように。あなたこそ私の助け 救い出す方。私の神よ 遅れないでください」ともう一度大胆に主の救いを求めます。

私たちはときに、罪の自覚を深めることが、自分の心を委縮させる方向になると考えているのかもしれません。しかし、ダビデは自業自得のわざわいの中で、大胆に神の救いを求めることができています。

イエスの時代のパリサイ人は社会的には尊敬されている人々で、イエスが取税人や罪人たちの仲間となって一緒に食事を楽しんでいる姿を真っ向から非難しましたが、その彼らに向かってイエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではありません、病を持つ人です。だから行って、これを学びなさい、『真実の愛(誠実、あわれみ)をわたしが望む、いけにえではない』とは何かを。わたしが来たのは、正しい人を招くためではない、罪人を招くためです」と言われました (マタイ9:10–13私訳)。

当時は「いけにえを献げる」ことは期待された生き方ができる証しでもありました。しかし、イエスはパリサイ人たちの心が、本当の意味で、「神が何を喜ばれるか、何を望んでおられるのか」ということに向かってはいないと指摘されたのです。

今も、多くの信仰者が、人々の期待に沿った生き方ができることが信仰者であるという意識に囚われ、自分を殺しながら生きています。しかし、神が求めておられるのは、あなたの「神のかたち」としての個性や感性全体を感謝して受け入れ、もっと大胆にそれを生かして神と人とに仕えることではないでしょうか。

それはときに、社会の期待に反することかもしれませんが、そこにこそ、人々の常識が神のみこころから外れていることを指摘する力があります。神は、私たちに「地の塩」「世の光」として、人々の常識を問い直させる生き方を求めておられます。

何の間違いも犯さない人畜無害な存在だけれども「その人がいてもいなくても同じ」というのではなく、数限りない間違いを犯したとしても、その存在が少しでも社会を変える力になれば良いと言えましょう。それは、「巻物の書に私のことが書いてあります」と言えるからです。

私たちもダビデからもっと図々し生き方を学ぶべきでしょう。彼は自己嫌悪に陥るような中でも、神に信頼し続け、自分の貧しさを覚えながらも、主が自分をご自身の計画のために用いてくださることを信じたからです。