東京都が再び緊急事態宣言下に入りました。オリンピック期間中を通してということですが……
一方、富士山登山が山開きになり、三密を避けられないはずの山小屋も万全の対策を立てて登山客を迎えるとのことです。
私たちの教会も以前から万全の対策を立てながら三回の礼拝に臨みます。今度の日曜日は東京センターチャーチの下村明矢先生が創世記41章41–52節から「今ここに生きる」と題してメッセージを取り次いでくださいます。ご期待ください。
小生は横浜市のJECA長津田みなみ教会にて以下のテーマで、メッセージと午後のセミナーを導かせていただきます。
困難(試練)の中で教えられること——3.11から10年 コロナ禍の中で
このテーマで考えさせられていることがあります。多くの信仰者は、このようなわざわいの中に神からのメッセージを汲み取ろうとします。それは人間の傲慢さに対する創造主からの最後の審判の前触れとしての罰であるとか、人間が神のあわれみなしには一瞬たりとも生きていられないことを教えるための神の招きであるとか、今、人々が不安を味わっているときこそ福音宣教のチャンスであるとか、これらすべては間違っていないと思います。
しかし、目の前で途方に暮れている人に対し、そのような神学的な解釈を語ることにどれだけの意味があるのだろうかとも思います。厳しい現実を前に、今ここで自分にできることは何なのかを覚え、それに応じるという現実の行動ではないでしょうか。
十年前の3.11のとき、多くの同労者が被災地支援に向かっているのを見て、「僕も現地で人の助けになりたい」とつぶやいていると、妻がすぐに「あなたが行っても足手まといになるだけよ……」と言われ、現地で支援活動に携わっている友人を応援することに専念しました。
一方、このコロナ禍の中では、様々なことを通して、自分の中に驚くほど敏感な傷つきやすい自分がいるという新たな気づきが与えられました。
実は、生き馬の目を抜く証券業界で10年間働いたという自負心が、自分の傷つきやすさを認めることを邪魔してきたような気がします。しかし、それに対する気づきが与えられたことで、今、新しい夢を持てるようになってきています。
今、それぞれがこの不自由と忍耐を強いられる中で、何らかの挫折感のようなものを味わうことでしょう。しかし、それこそ私たちが自分に新たな気づきが与えられ、前進できる契機になるような気がします。
詩篇102篇7節には、「私は屋根の上の はぐれた鳥のようになりました」という表現があります。これこそお一人で家に閉じこもらざるを得ない方のお気持ちかと思います。
いろんな手段を用いて、互いに、他の人々の痛みに思いを巡らし、祈り合うことができればと思います。
詩篇102篇の標題には、この詩篇の祈りの核心の意味が、「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主 (ヤハウェ) の前に注ぎ出したときのもの」と記されています。私たちも、苦しみのただ中で「気落ち」するとき、どのように祈るべきかの導きがここにあります。
この祈りは、「主 (ヤハウェ) よ 私の祈りを聞いてください」という直球のことばから始まります。そして2節の原文は、「御顔を隠さないでください」から始まり、「すぐに私に答えてください」で終わります。
これはイエスが十字架で詩篇22篇のことばを用いて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と祈られたことに通じます。絶望感をまっすぐに告白できることのなかに希望が生まれるのです。
3–7節ではその状態が驚くほど繊細で詩的に描かれ、次のように訳すこともできます
私の日々は煙のように失せ、
骨々は炉のように熱い。
心は青菜のように打たれてしおれ、
パンを食べることさえ忘れるほど。
嘆きの声のため、
私の骨々は皮にくっついてしまった。
まさに荒野のみみずくにも似て、
廃墟のふくろうのようになっている。
私は眠ることもできず、
屋根の上のはぐれ鳥のようになった
続けて8、9節では自分の周りが敵だらけで、その誹謗のことばに、涙がとめどもなく流れる悲惨が描かれます。
そして10節ではその原因が神にあることを、「あなたが 憤りと激しい怒りのゆえに 私を持ち上げ 私を投げ捨てられたから」と訴えられます。
ところが、12節からはすべてが逆転される希望が歌われます。そこではまず、「しかし、あなたは 主 (ヤハウェ) よ」ということばから始まり、主の永遠のご支配が賛美されます。
そして13節も「あなたは」という呼びかけから始まり、「あなたは立ち上がり シオンをあわれんでくださいます」と、主がご自身の行動を変えてくださったかのように歌われます。
しかもその理由が、「今やいつくしみの時です。定めの時が来ました」と、著者自身に、神のみこころの変化の時が知らされたかのように歌われます。
そして14–22節では、旧約の預言書で繰り返されるイスラエルの回復の希望が描かれます。著者は自分の個人的な苦難とイスラエルの苦難を重ね合わせ、そこに神ある希望を見ているのです。
ただ、それでいながら、23節では再び、「主は 私の力を道の半ばで弱らせ 私の日数を短くされました」と、自分の絶望感が、主ご自身に由来すると率直に訴えられます。
しかし、不思議なのは同時に、「私は申し上げます」という枕詞とともに、「私の神よ 私の日の半ばで 私を取り去らないでください」と明確に訴えられていることです (24節)。
「運命だと思って諦め、それを受け入れよう」というのは演歌の世界です。しかし、聖書の世界では、「この苦難をもたらしたのは神であられるからこそ、希望がある。だから、神がご自身のみこころを変えてくださるように祈ってみよう」ということになるのです。
祈り
主よ、あなたは、私が自分の絶望感を詩的に表現することを助けてくださることを感謝します。私はそれを通して、自分の傷ついた感情を優しく受け入れ、同時に、あなたに向かってお祈りできるようになりました。絶望感を希望に変えてください。
以下にご紹介するのは英国で様々な祈りの曲を書いている Margaret Rizza さんの詩篇102篇の歌です。歌詞はその1節のみを繰り返す単純なものです
O Lord listen to my prayer, my prayer as I call to You.
主よ、私の祈りを聞いてください、あなたを呼ぶ私の祈りを