私たちはヨブが不当な苦しみに会った理由を最初に知らされています。それは、主 (ヤハウェ) がサタンに、「彼(ヨブ)のように誠実(完全)で、まっすぐで、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1:8) と言われたことに、サタンが「ヨブは理由もなく神を恐れているでしょうか」(1:9) と答えたことに始まります。サタンは、神がヨブに特別な恵みを施しているからこそ、「神を恐れている」に過ぎないと言ったのです。
ヨブは全財産と子どもたちを失っても、「裸で私は母の胎から出てきた。また裸で、そこに戻ろう。主 (ヤハウェ) は与え、主 (ヤハウェ) は取られる。主 (ヤハウェ) の御名はほむべきかな」(1:21) と、主を賛美しました。
それに対しサタンは神に「あなたの手を伸ばして、彼の骨と肉とを打ってごらんなさい。彼は必ずや、あなたの顔に向かって呪うに違いありません」(2:5) と提案します。
不思議にも神はサタンに、「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのち(たましい)には触れるな」と言われ (2:6)、サタンはヨブを徹底的に苦しめます。
ヨブの友人たちは最初深い同情をしましましたが、ヨブが自分の生まれた日を呪い、神に抗議するかのような態度を見て、ヨブに悔い改めを迫りますが、ヨブは自分の正当性を主張するばかりでした。
そのような流れの中で、この物語の結論が描かれます。ヨブには最後まで、自分が苦しみに会う理由が知らされませんが、神は個人的にご自身の創造のみわざの不思議さを語り聞かせます。そこでヨブはこの背後に、理解し難い神の「摂理」があることを知ります。
苦しみの理由が分からないまま、主の御手のうちにある安心感を味わうことこそ、ヨブ記の核心です。私たちが体験する多くの災いも、その原因が分からないばかりか、分かることで怒る理由が正当化されても、そこに真の平安は生まれません。
大切なのは、苦しみの理由が分かることよりも、この地で互いが和解でき、この地に神の平和が実現されることでしょう。
1.「レビヤタン……誇り高い獣すべての王」
主 (ヤハウェ) はヨブに皮肉も含めて、「すべての高ぶる者を見よ。そしてこれを低くせよ。すべての高ぶる者を見よ。そしてこれを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ」(40:11、12) と言われました。神はヨブにサタンの存在を隠してはいますが、これを通して、ヨブの「敵」(33:10) となっているのは、神ご自身ではないということを示唆したと言えましょう。
しかも、「彼らをともに土に中に隠し、その顔を隠れたところにつなぎ留めよ」と命じ、「そうすれば、『あなたの右の手は自分を救うことができる』」と言ってあなたをたたえよう」と言われます (40:13、14)。これは明らかに逆説的な皮肉です。ヨブは、神からサタンの存在を聞いてはいませんが、そのように「高ぶる者」との戦いが、神にとっても困難を極めるということを示唆されたのかもしれません。
神はヨブの傲慢さを真っ向から非難しているようでありながら、「すべての高ぶる者」との戦いを示唆し、ヨブを戦いの「戦友」として扱う思いがここに秘められています。実際に、神はサタンにヨブを苦しめることを許可しながら、ヨブの痛みをご自身の痛みとし、ヨブと共にサタンと戦っていたと言えましょう。
40章15節から急に、「さあ、河馬(かば)を見よ」と不思議な展開になります。この「河馬」とは脚注にあるように「ベヘモテ」と原語をそのまま発音する訳も多くあります。これはイザヤ30章6、7節で「ネゲブの獣たち」と呼ぶときの「獣たち」と同じ「獣」の複数形と考えることができます。
これは「河馬」というより、41章に描かれる「レビヤタン」と同じ架空の動物と考えた方が良いのかもしれません。これを河馬と訳すなら、レビヤタンを「鰐(わに)」と訳す方が、バランスがとれるとも言えます。文語訳はそのように訳していました。
「河馬」は実際には「象」より小さい動物ですが、ここでは地上で最も大きな草食動物をイメージさせながら、「これはあなた(ヨブ)と並べてわたしが造ったもの」と紹介します。
16–18節ではその屈強さが描かれ、19節では「これは神の作品の第一のもの」とさえ言われます。その後半の「これを造った者が、その剣でこれに近づく」とは、創造主以外の誰も、これを怯えさせ、従えることはできないという意味です。
ただ、20–23節ではこの動物の温和さと安定性が描かれながら、24節では「その目をつかんで、これを捕らえる」ことができる者、また「罠にかけて、その鼻を突き通せる」者はどこにもいないと描かれます。この意味も、創造主である神以外のだれも、この巨大な動物を従えることができないことになります。
41章全体で、架空の海の巨獣「レビヤタン」のことが描かれます。これは聖書の様々な箇所に登場する巨獣です。詩篇74篇13、14節では「あなたは 御力をもって海を打ち破り その水の上の竜(りゅう)の頭を砕かれました。あなたは レビヤタンの頭を踏みにじり 砂漠に住むものたちの餌食とされました」と、「竜(ドラゴン、または海の巨獣)」と「レビヤタン」がセットで、その傲慢さのゆえに神のさばきを受けると描かれていました。
一方で詩篇104篇25、26節では「そこには 大きく広がりゆく海があり……あなたが造られたレビヤタンもそこで戯れています」と、神を「待ち望んでいる」海の生き物の一つとして描かれます。
レビヤタンのことはヨブ自身がかつて、「日を呪う者たちが、レビヤタンを巧みに呼び起こす者たちが、その日に呪いをかけるように」(3:8) と言っていました。それは、レビヤタンを呼び起こす魔術師が、日に呪いをかけて世界を暗くするように、自分の生まれた日が無くなることを願ったという意味です。つまり、ヨブは、レビヤタンを呼び起こす存在があり得るかもしれないという仮定でそれを語ったのです。
それに対し神は、41章1–8節において、レビヤタンを従えることはどのような人間にも不可能であることをいろんな角度から説明し、特に10節では、「それを起こすほどの凶暴(無謀)な者はいない」と述べられます。
さらに、どのような人間もレビヤタンを目覚めさせることができないとすれば、まして、「だれがいったい、(レビヤタンの創造者である)わたしの前に立つことができようか」(41:10) と問われます。これは先に主が「非難する者が全能者と(言い)争おうとするのか」とヨブの態度を責めた趣旨と同じですが、完全な拒絶ではありません。
41章12節からはレビヤタンの「力強さ」と「体格」が描写されます。15節は直訳的には「その誇りは防御の胴体、封印したように固く閉じている」と記され、その「誇り」が注目されます。
さらに、18節の「そのくしゃみは光を放ち」以降、レビヤタンの目の輝き、口からの火花、鼻の煙が煮え立つ釜のようで、息が炭火をおこし、口からは炎が出るような、様々な恐怖が描かれます。さらに22節では「首」に宿る「力」が描かれ、同時に「その前には恐れが躍る」と記されるのが印象的です。
さらに24節では「心臓は石のように硬く」と、身体の最も繊細な部分の頑丈さが強調されています。25節は「それが起き上がると、神々(力ある者)も怯え、その破壊力に逃げ惑う」と描かれます。
そして、26–29節では、剣、槍などの武器が役に立たないこと、鉄や青銅の硬さも意味がないこと、こん棒や投げ槍も無意味であることが描かれます。
さらに30–32節ではレビヤタンの移動の跡が、「深みを湧き立たせ、海を香油のるつぼのように」また「通った跡を光輝かせ、深淵を白髪のように思わせる」という不思議が描かれます。
その上で、33、34節では、「地の上に、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。高いものすべてを見下ろし、誇り高い獣すべての王である」と描かれます。これは先に「すべての高ぶる者を見よ」(40:11、12) と繰り返されながら、それを従えることができない対象の代表者として、レビヤタンが描かれたという結論になります。
17世紀の英国の政治学者 は「リヴァイアサン (レビヤタン)」という名の書で、この41章33節を「彼に匹敵する力は地上には存在しない」と引用しながら、「万人の万人に対する闘争」という無政府状態の混乱を抑えるためには、「暴力の手段を独占し、法を執行する」健全な国家権力が必要であると述べました。
とにかく、レビヤタンとは地上のすべての存在を服従させる権力の象徴として用いられます。
2.「あなたには、すべてのことが可能……あなたの御計画を差し止めるものは何もない」
陸の巨獣のベヘモテと海の巨獣のレビヤタンの偉大さの描写がヨブに何の役に立つのかとも思いますが、不思議にもこれによってヨブの心に平安がもたらされます。
42章は「ヨブは主 (ヤハウェ) に答えた。そして言った」から始まります。主の啓示は、すべてこの応答を引き出すためにありました。
そして2節は、「私は知りました、あなたには、すべてのことが可能であること、あなたの御計画を差し止めるものは何もないことを」と記されます。
ヨブは、自分の苦しみが、神の愛の御手の中で起きていることを知っただけで十分だったのです。私も以前、「どうして自分の責任ではないことで、こんな批判を受ける必要があるのか……」と嘆いたことがあります。そのとき、このヨブのことばが慰めになりました。
夢見人 (ドリーマー) という賛美では、このことばが繰り返されながら、自分はこの「悲しみや痛み」を通して、前に向かう自信を失いかけてしまったけれど、そこで「主の真実、主のあわれみ」に気づかせていただいた。
だから、明日のことが見えない魂の暗夜の中でも、『あなたが私とともに歩んでくださる』というみことばの約束を握りながら、「夢を見よう」と励まし合うことができるという趣旨のことが歌われています。
主はこの地に平和をもたらすために、今、私たちの頑なな自我を砕き、謙遜へと導いていてくださるのです。
3節ではヨブが主 (ヤハウェ) の語りかけを自分のことばで、「この者はだれか、摂理(主のご計画、意図)を覆い隠す者は、知識もない中で」と引用します。これは主が彼に最初に問われたことばです (38:2)。そこでは、彼には到底理解できない神の摂理があると示唆しました。
その上でヨブは、「確かに私は告げてしまいました、自分では理解できないことを、私にとってあまりにも不思議な、知り得ないことを」と述べます。それは災いに会う理由のことで、「私は神に誠実を尽くしてきたつもりなのに、どうして、こんな苦しみを味わう必要があるのか……」という問いでした。しかしそれは「自分では理解できない、知り得ない不思議」なこととして、そのまま受け止めるしかないというのです。
主 (ヤハウェ) はヨブに、ご自身が創造された世界、創造された二つの巨獣を詳しく描いてくださいました。大切なのは、啓示された内容自体というより、創造主ご自身がヨブに、ご自身の創造のみわざの不思議を丁寧に説明してくださったという愛の交わり自体にあります。
ヨブに語りかけてくださった神が、すべてを支配しておられると分かったことで十分でした。
その上でヨブは再び主のことばを思い越しながら、主の「さあ、聞け。わたし自身が語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」という語りかけを繰り返します。
これは厳密には、「さあ、腰に帯を締めよ、勇士のように。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(38:3、40:7) と二度言われたことの振り返りだと思われます。
「さあ、聞け、わたし自身が語る」ということばが、「堂々と神の前に、勇士のように立って、聞け」という意味が込められていたからです。とにかく主ご自身がヨブに向き合ってくださっているのです。
さらに42章5、6節でヨブは、「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ています。それで私は自分を蔑み(自説を撤回し)、悔いています(気を静めます)。ちりと灰の中で」と告白します。
今までヨブは、「私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません」(30:20) と、必死に神に訴えていました。しかし、今は、「私の目があなたを見ています」と驚くべきことを言っています。
これはでヨブがかつて憧れを込めて、来たるべき復活の身体を前提に、「この私は知っている、私を贖う方は生きておられることを、また、後には地のちりの上に立たれることを、私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後に。私の肉から神を仰ぎ見る (behold)、この方を私は自分自身で仰ぎ見る (behold)、私自身の目がこの方を見る (see)」(19:25–27) と告白していたことが、今生きながらにして成就したことを意味します。
ただしこれは、ヨブが肉の目で神の姿を見たという意味ではないはずです。それはこの地の人間には不可能なことです。
私たちがこの世界で何かを見ているとき、見ている対象の90%は目の知覚の背後から来ると言われます。たとえば私たちが、桜が散ったあとの木をなお桜の木と見るのは、過去の体験があるからです。またアジサイの花を美しく感じる背後にも、この花を巡る知識が作用しています。
ヨブはかつて自分の悲惨を、「私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかったから」(3:25) と言いながら、「生まれた日を呪った」(3:1) と描かれていました。
ところが主 (ヤハウェ) はヨブに地上で最も人間を怯えさせ、恐怖を感じさせるレビヤタンのことを詳細に描写しました。そのような巨獣が神によって創造され、神に従うということを通して、自分のわざわいも神の愛の御手の中にあるということを示されました。
そのように神の存在を身近に意識できたことが「神を見る」体験であったとも言えましょう。
の「それでも人生にイエス(はい)という」という本に出て来る実話があります。ある無期懲役の判決を受けた一人の黒人が、リヴァイアサン(レビヤタン)という名の船に乗せられ、移送されました。
船が沖に出た時、火事が発生しました。この非常時に、黒人は手錠を解かれ、救助作業に加わり10人もの人命を救いました。その働きに免じて、彼は後に恩赦に浴して解放されました。
「レビヤタン」という名の船が、無期懲役の島へと囚人を隔離させる恐怖の船から、解放の船へと変わりました。同じように、神はレビヤタンを用いて、ヨブを出口のない被害者意識から、神の戦友へと導いてくださいました。
3.「あなたがたがわたしについて確かな(正しい)ことを語らなかった……ヨブのようには」
その後、主 (ヤハウェ) はテマン人エリファズに、「わたしの怒りが燃える、あなたと二人の友人に向かって」と言われます。神の「怒りが燃える」とは本来焼き尽くす火として人を滅ぼすものです。
その理由が、「あなたがたがわたしについて確かな(正しい)ことを語らなかった、わたしのしもべヨブのようには」と言われます。
主はかつてヨブに向かって、「おまえは何とわたしのさばきを無効にしようとするのか(無にするのか)。おまえはわたしを悪とする(不義に定める)のか、自分を正義とするために」(40:8) と叱責しておらました。しかしここでは、神を弁護したエリファズとその二人の友人が神に関して正しいことを語らなかった一方で、神が自分の敵となったと嘆いていたヨブは、神について正しいことを語っていたというのです。
サタンは、ヨブの「骨と肉が打たれるなら」、ヨブは神を「呪うに違いない」と主張しました。しかし、ヨブは神に食って掛かるように苦情を訴えていても、神を呪ってはいませんでした。
これは私たちにも起こるかもしれません。神のことを弁護しているつもりの人が神の怒りを買い、神に食って掛かっている人が神に喜ばれます。
そして、神はエリファズとその二人の友人に、ヨブのところに行って、全焼のささげ物を神にささげながら、ヨブに執り成しの祈りをしてもらうように命じます (42:8)。
三人は、ヨブは神のさばきを受けていると非難していたのですが、神はヨブの願いを受け入れることで初めて、彼らの「愚行に報いはしない」と言われました。ヨブの発言を神への冒涜と非難した友人こそが、ヨブの執り成しの祈りを必要としていたのです。
10節では、「主 (ヤハウェ) はヨブを元どおりにされた」と描かれますが、それは不思議にも「彼が友人のために祈ったとき」になって初めてのことです。つまり、ヨブは足の裏から頭の頂まで悪性の種物に冒されているという痛みを抱えたまま、自分を罵倒した三人の赦しを主に求める必要があったのです。
神はヨブの肉体的な痛みと名誉の回復を同時に実現しましたが、それは身体の癒しと心の癒しが切り離せない関係にあることを示します。
その後の「主 (ヤハウェ) はヨブの財産をすべて、二倍にされた」と描かれ、それと同時に「彼のすべての兄弟……姉妹……知人は……彼の家で食事をし……彼に同情し……慰めた」(11節) と描かれます。
ヨブが災いに会っているとき、彼らはその仲間であることを恐れるかのように、ヨブから距離を置いていました。しかし今や一人ひとりが彼に「一ケシタ」相当の銀(創33:19ではヤコブが購入した野の一画の価格が百ケシタ)と「金の輪」を贈りました。これは家族や友人たちがヨブとの交わりを回復したことの象徴です。
12節ではヨブの所有する家畜が、羊、らくだ、牛、雌ろばも、1章3節に描かれたもののちょうど二倍になっています。
これは出エジプト記22章4、7、9節で、他の人の家畜を盗むなどして財産権を侵害した者は、二倍にしてそれを償う必要があるという規定を思い起させます。これは、主がヨブの財産を奪い取ったことを償うかのように、二倍にして返したことを意味します。
ただ、ヨブにさらに息子七人、娘三人が生まれたというのは、もとの子どもの数と同じです。それは人間の子を二倍にして償うということが不可能だからです。同数の子どもが生まれたことで、復活の日には二倍の子どもになっているからでもあります。
16節ではヨブがその後140年生きたと記されます。これは、詩篇90篇10節に「私たちの齢は七十年」と描かれていることの二倍の長さです。
さらにヨブが四代の子孫を見たとは、玄孫(やしゃ子)までを見たということを意味するのかと思われます。これはかつてヨブの子どもたちがそれぞれ独立した家庭を築き、ヨブには孫までいたであろうことの二倍の子孫の代を見たということかと思われます。
そして、ヨブの最後が「年老いて満ち足り」(42:17) と描かれるのは、アブラハムやイサクの生涯の終わり方の記述と同じです (創世記25:8、35:29)。それこそが、「私が生まれた日は滅び失せよ」(3:3)と嘆いた者の最後の描写でした。
ヨブ記の大部分は、ヨブと彼の三人の友人との対話から構成されています。もし最初の1、2章に描かれた神とサタンとのやり取りが知らされていないと仮定するなら、ごく普通の人の感覚では、三人の友人のことばの方が正しく思えます。ヨブの神に対する訴えはあまりにも失礼な言い方に思えます。
神は確かにヨブが自分の正当性を主張し、神を非難するような傲慢な姿勢をたしなめましたが、神が怒りを燃やされたのは、神を必死に弁護した三人の方でした。
しかも、神は、この三人に向かって、ヨブに執り成しの祈りを願うように勧め、ヨブの祈りがあって初めて、彼らの「愚行」を赦すと言われます。そして、ヨブが三人のために祈った時になって初めて、ヨブの健康と財産が回復されます。これも何とも不思議な結末です。
ヨブが神に向かって自分の傲慢さを悔いた時点で、ヨブの健康が回復されてしかるべきと私たちは思います。しかし、神はそれよりもまず、ヨブの三人の友人の過ちを指摘し、彼らがヨブを通して神の赦しを求める道を開かれました。
しかも、そこにはヨブの家族や友人たちとの和解も生まれ、最後にヨブの家族と彼の生涯の平和(繁栄、シャローム)が描写されます。シャロームこそ、この物語の結論だったのです。