私たちはみな、親しい人から理解されることを求めます。しかし、「私の正しさを理解して欲しい……」という構えが強すぎる人は、周りが見えなくなります。そのようなとき、自分を敵対的に見ている人から、驚くべき視点を示されることがあります。それは関係が近すぎないゆえに発想の転換が起きやすいからです。自分の正当性を主張することに熱くなっていたヨブに、エリフは新たな視点を提示しています。
1.「神はある方法で語り、またほかの方法で語られるが……」
32章~37章はすべて「バラクエルの子エリフ」という人のことばです。彼は他のヨブの友人たちとは異なり出生に誇りが感じられます。「ラム族」とはルツ記4章19節によるとヤコブの四男のユダ家系でそこからずっと後のダビデの家系に結び付きます。さらに「ラム族のブズ人」とある「ブズ」とは、創世記22章20、21節によるとアブラハムの兄弟ナホルの息子です。ヨブは「ウツの地」(1:1) に住んでいた人であり、ブズはウツの兄弟ですから、エリフの出身地はヨブに近かったのかと思われます。しかも彼の父バラクエルは「神の祝福」、エリフは「彼は私の神」という意味でイスラエルの部族らしい名前です。
ただ、エリフのことばはヨブ記の文脈から完全に浮いているとも言え、またそのヘブル語の文体からも、後代にこの部分だけが付け加えられたと見る見方が学者の中では一般的ですが、それは霊感を否定するものではありません。
なお32章2節は、「怒りを燃やした、エリフは」から始まります。この「怒りを燃やす」とは、後に神がヨブの三人の友人を非難したときに用いられた激しことばです。しかもさらに「彼はヨブに向かって怒りを燃やした」と繰り返しながら、その理由が「ヨブが神よりも自分自身を義としたので」と説明されます。
後に、主 (ヤハウェ) もヨブに「自分を義とするために、わたしを不義に定めるのか」(40:8) と言っておられます。ただ、そのことのゆえに神がヨブに「怒りを燃やした」ということはありません。神はサタンにヨブを苦しめることを許可して以来、ヨブとともに苦しんでおられたと考えることもできます。
しかしエリフは、神とサタンとのやり取りを知りませんから、神に代わってヨブに対して怒りを燃やすという気持ちを抱いたのだと思われます。
ただし、3節では「彼(エリフ)はまた、三人の友に向かっても怒りを燃やした」と記されますが、その理由は、「ヨブを不義に定めていながら、答えを見出さなかった(言い返せなかった)から」と記されています。
これは彼らが、「ヨブが自分を正しいと思っていた」(32:1) ということに対して、彼らの感覚としては、ヨブは何か根本的に間違っているようかのように感じながらも、その根拠を示すことができなかったからです。
その上でエリフは、ヨブの三人の友人たちが自分よりも年長であったので、彼らに期待していたと語りながら、彼らがヨブに応えることができないので失望したという趣旨のことを語ります (32:6–9)。
その上でエリフは、ヨブのことばを聞いていて、「私にはことばがあふれていて、内なる霊が私を圧迫し……新しい皮袋のように、張り裂けようとしている」(32:18、19) と、ヨブに反論せざるを得ない気持ちを打ち明けます。
33章でエリフは第一の反論を展開しますが、その際、9–11節で彼は、ヨブが無実なのに「神の敵のように見なされた」という主張を簡潔にまとめます。それを通してエリフは三人の友人たちよりずっと良い聞き手であることが明らかになります。
12節から始める反論において、彼はヨブに向かって、「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに、神がいちいち答えてくださらないからといって」(33:13) と述べます。このエリフの主張も決して間違ってはいません。神は夢や幻を含めいろいろな方法で語ってくださるが、「人はそれに気づかない」というのはその通りです。
19–22節では、神が「痛み」や「病」を通して警告するということも間違ってはいません。それは人をより大きな破滅に陥らないように警告するためです。
エリフのことばで何よりも感心するのは、23節で「もし彼のそばに、一人の御使いが、千人に一人の仲介者がいて、その方が彼に代わって 彼が誠実であることを告げてくれるなら」という仮定を言っていることです。これはヨブが16章19–21節で、「今でも、天には私の証人がおられ……その方が、人のために神にとりなしてくださいますように」と願ったことを正しく受け止めて、それを前提に語っていることです。
さらに、神が「わたしは身代金を見出した」(33:24) と仰せられたとは、ヨブ自身が家族も財産も失ったことが「身代金」と認められたことを指していると思われます。それによってヨブが「幼子のように新しくされ……歓喜の声をもって御顔を仰ぎ」見るという状態に回復されるという希望が述べられます (33:25、26)。
ただ、27節での回復した人の告白、「私は罪ある者で、まっすぐなことを曲げてきた。しかし、私は当然の報いを受けなかった」という表現は、義人ヨブの告白にはなり得ません。しかしエリフのことばが、ヨブの気持ちをかなりの部分受け止めていたことは確かです。ただ、それが本当にヨブの慰めになったかは疑問です。
さらにエリフは、神が「二度も三度も……人のたましいを滅びの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる」と述べます (33:29、30)。これは、ヨブが受けた苦しみは、彼を謙遜にするための神の訓練であるという意味です。
ヘブル人への手紙の著者も、「霊の父は……私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練され……これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます」と記します (12:10、11)。
ただ、これはヨブの慰めになるでしょうか?もしあなたが最愛の人を失った時、周りの人が「それはあなたへの訓練のため」と言うなら、どんな気がするでしょう。
しかもそれが「身代金」だと言われるなら、それを要求し、受け入れる神を信頼できるでしょうか?エリフのことばも同じようにヨブに響いたことでしょう。子どもを失う悲しみを、神の訓練と呼ばれるなら、そんな訓練をされる神をあなたは信頼することができるでしょうか?
2.「訴えは神の前にある。あなたは神を待て」
34章はエリフの第二の反論です。彼は5、6節で再び、「神が私の正義を取り去った……背きがないのに、私の矢傷は治らない」というヨブの訴えを取り上げます。それは9章17–22節、27章2–6節などでヨブが語ったことの要約のように思えます。
しかし、ヨブはそれらのことばを、ヨブの苦しみを自業自得と見る友への反論として、また、神に対する祈りのような訴えとして表現したものです。ところがエリフは、文脈を無視してヨブのことばだけを抜き出し、それが「不法を行う者ども」「悪人たち」と同じレベルのことばだと非難します (34:7、9)。
何よりもエリフは、ヨブが「神に喜ばれようとしても、それは人の役に立たない」(34:9) と言ったかのように引用していますが、それはとんでもない誤解です。ヨブは、「悪しき者」に対する神のさばきが見えない中で、彼らがそのように神を嘲るようになっていると訴えたに過ぎません (21:15)。
そのような悪しき者の主張に対して、ヨブは、苦しみの中でも決して誠実さを捨てないと誓っていたのです (27:5)。
エリフはさらに、「神が悪を行うなど、全能者が不正を行うなど、絶対にあり得ない」(34:10) と言いますが、ヨブをサタンの手に任せた主 (ヤハウェ) は、人の目には「悪」とか「不正」と見えて当然かもしれません。彼のような言い方は、自分の善悪の基準で神を評価することになり得ます。
問題は、「神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれその道に従って取り扱われる」(34:11) ということが、ヨブの場合には明らかに適用できないことなのです。事実、彼は神の目に「完全(誠実)でまっすぐ」(1:8、2:3) あったからこそ、サタンの攻撃の対象とされたのです。
エリフはさらに、「いったい、公正を憎む者が、治めることができるだろうか」(34:17) と問いかけますが、ここでも彼は自分の「公正」の基準で、神を評価する立場に立っているようにも見えます。
それに対してヨブは、自分を無力な子どもの立場に置きながら、「神は激怒して私を攻めたて、私に向かって歯をむき出される」(16:9) と述べていました。彼はただ、神に泣きついていただけなのです。
31–33節のエリフのことばの解釈は困難です。ここでは「神に向かってだれかが言ったか」と問いかけながら、もしヨブ自身が神からの正当な「懲らしめを受けました」と告白し、また自分でも気づいていない不正があったならそれを「私に教えてください」と願い、「もういたしません」と誓うとするなら、神は赦しを与えてくださる、たといヨブがそのようなプロセスに反対したとしても、という意味にも理解できます。
その結果として、エリフはヨブに、神の前にへりくだることを「選ぶ」ようにと勧めたのだと思われます。そして34–37節でエリフは、ヨブが「知識もなしに語っている」と反省を促し、謙遜になるようにと勧めています。
残念ながらエリフは、神は正しいさばきを行われる方という、神についての議論をしているだけです。それに対し、ヨブは必死に神に食い下がって、神と格闘しています。
それはエリフの目に、「彼は自分の罪にさらに背きを加え……神に対してことばを多くしている」(34:37) という傲慢の罪にしか見えませんでした。
35章エリフの第三の反論です。2、3節の解釈も困難ですが、「このことをあなたは正しい判断だとみなしているのか『私の義が神にまさる』と言うことが。それはあなたが『何があなたにとって有益なのでしょう。私が罪から離れるとどのような利益があるのでしょうか』と言っているからだ」と訳すことができます。
これはある意味でエリフの勝手なヨブのことばの解釈ですが、意味は理解できます。それはヨブがやもめやみなしごに心を配って来たにも関わらず、「神からのわざわいが私をおののかせている」と告白していたからです (31:16–23)。
一方4節でエリフは、「あなたともにいる友人たちにも」と、エリファズが、ヨブはやもめやみなしごを虐げた (22:9) とことの結果として苦しみを受けていると言ったことに反論しています。
そこでエリフが批判していることは、人が自分の正しさや罪によって、神を動かすことができるという発想で、それが、「あなたは神に対して何ができるのか……神に対して何をなし得るのか」と言う問いかけになっています (35:6)。
エリフは確かにその点では、私たちの発想の落とし穴をついています。人はしばしば、神のみわざを因果律の中で考え、私たちの善また悪に対応して、神は自動的に報いまたはさばきを下すと考えがちだからです。
ただ、ヨブは、自分の誠実さが報われなかったという人間的な感情を訴えているのであって、神を私たちの行いに自動的に反応する方と認めていたわけではないことは確かです。
35章9–11節でエリフは、人々が神に向かって泣き叫びながらも、「私の造り主である神はどこにおられるのか……空の鳥よりも私たちを賢くする方は」と問いかけてはいないことを非難しています。
エレミヤ2章6節でも、イスラエルの民が「主 (ヤハウェ) はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方は」と問いかけることで、自分たちを救ってくださった神を探し求めようとはしなかったことが非難されていました。
そして12節ではその結果が、「そこでは、彼らが泣き叫んでも神は答えない。悪人がおごり高ぶっているからだ」(35:12) と断罪されます。
さらにエリフは、ヨブが「神を見られない」と訴えていることを非難して、彼が神の恵みを探そうとはしていないと指摘します。エリフの非難の正当性は別として、続く、「しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て」という勧めは、ヨブに必要なことばだったと言えましょう。
15、16節は協会共同訳では、「今、神は怒りをもって罰せず、愚かさを少しも心に留めないので、ヨブはその口を空しく開き、知識もないのにことばを重ねている」と訳されています。
これは、神が敢えてヨブに語りたいだけ語らせておられることを感謝することを、さらに「神を待つ」ことの大切さを勧めたことばと言えましょう。エリフのことばは徐々に神の気持ちを代弁するかのような響きになって行きます。
3.「思い起せ、神のみわざを賛美することを」
36、37章はエリフの第四の反論です。今までエリフはヨブの主張を要約して、それに反論する形を取っていましたが、ここでは「神のために言い分がある」と言いながら「私の造り主に義を返そう(正義を帰する)」と述べます (36:2、3)。
まずエリフは、「見よ。神は強い。しかし、だれをも蔑まれない。その理解の力において強い」と神の「強さ」を繰り返します。それが「神は悪しき者を生かし続けることはない。しかし、苦しむ者には正しいさばきを下される」(36:6 私訳) と、神のご支配の公正さが強調されます。
さらに7節では、神は「正しい者」を「王座」にまで引き上げると述べます。一方8節では、「もし、彼らが鎖で縛られ、苦しみの縄に捕らえられたら」とヨブの状況を示唆しながら、それを通して「神は彼らの行い」また「背き」を告げ、彼らの「おごり高ぶり」を戒め、「不法から立ち返るように命じる」と述べます (36:9、10)。これは神がヨブに彼が苦しむ理由を知らせて、回心を促すという意味で、ヨブの現実には当てはまらないように思えます。
しかしエリフはさらに続けて、「もし彼らが聞き入れて神に仕えるなら、彼らは自分の日々を幸せのうちに、自分の年々を楽しみのうちに全うする」という祝福を告げます (36:11)。ここには、神がヨブを苦しめるのは、隠された罪に対するさばきを下しているというよりも、ヨブをより謙遜にして、建て直すためであるという神の教育的な配慮が述べられている点で、三人の友人の立場とは異なります。
しかし、同時に「もし聞き入れなければ……知識のないまま息絶える」(36:12) というさばきも宣言されます。エリフはヨブを誤って評価していることは確かですが、ヨブは後に、彼のことばに従って祝福を受けたことは確かとも言えます。
13–15節も引き続き、神を敬わない者の悲惨を、「怒りを蓄え、神が彼らを縛るときでも、助けを叫び求めない」と描き、同時に「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる」と記します。ここにも、神が苦しみを通してその人を謙遜にし、助け出すという苦難の教育的な意味が語られます。
さらにその恵みが、「神はまた、あなたを苦難の中から誘い出し、束縛のない広い所へ導かれる……食卓への安らぎに」(36:16) と描かれます。これは後に神がヨブに回復させてくださる祝福を示唆します。
しかしエリフは同時にここでヨブへの厳しい警告を「あなたには悪しき者へのさばきが満ちている。さばきと正しい判決があなたを捕らえる」(36:17) と告げます。ここにエリフは、ヨブにとっての希望を語りながら、基本的にヨブは自分の罪のゆえにこのような苦しみに会っているという評価を変えてはいません。
さらに36章18節は協会共同訳では、「憤りがあなたを嘲りに誘い込まないように、身代金が多くあるからといって道を誤らないように」と訳されていますが、そちらの方が文脈にあっているように思われます。
この「身代金」とは33章24節にあったことばと同じで、ヨブが全家族と全財産を失ったことと引き換えに、ヨブのいのちが守られていることを意味します。ヨブはそれを極めて不当なことと受け止めていますから、それが神を嘲るという方向に流れる可能性があることを、エリフは警告したのだと思われます。
19、20節は先の35章14節と同様に、ヨブの訴えは神の前にあるのだから、これ以上叫ぶことをやめて、神を待つように勧める意味だと思われます。
ただ、21節は翻訳が困難ですが、 では「Beware! Do not turn to iniquity, because of that you have been tried by affliction(注意しなさい。不法に向かうことがないように。そのことのゆえにあなたは苦しみを通して試されているのだから)」と訳されます。ここでエリフはヨブの苦しみを自業自得と示唆しながらも、神は苦しみを通して彼を試していると言っているのです。
36章22節から37章の終わりまで、エリフは神の創造のみわざをたたえますが、そこには聖書の様々な記述につながる表現があります。
22、23節での、「見よ」という呼びかけから始まり、神ご自身が教師であり、誰も主に指図することはないということばはイザヤ40章13、14節と極めて似た表現です。24節は「思い起せ、神のみわざを賛美することを」と訳すこともできますが、これこそエリフの勧めの核心です。
さらに26節は、「見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない」と言われますが、私たちに求められることは、神について理解することより、神のみわざの数々を覚えて、神をほめたたえることです。
27、28節の「神は水のしずくを引き上げ、それが雨を滴らせて、水の流れとなる。雨雲がそれを降らせ、人の上に豊かに滴らせる」という表現は詩篇147篇8節の表現を思い起させますが、このエリフのことばは、水蒸気のことまで描いていることで、詩篇よりもさらに洗練されているように思えます。
30節においても再び「見よ」という語りかけから「神はご自分の光をその上に照りわたらせ」と述べ、「光」が神に属するものと呼ばれ32、33節では「稲妻」「雷鳴」が神の偉大さを示す神の働きとして定義されます。
37章2節は「よく聞け」という呼びかけから始まりますが、5節まで「御声」「御口からでるとどろき」「稲妻」「雷鳴」など、神が発する音に焦点が当てられ、その結論が「神は……私たちに知り得ない大きなことをされる」とまとめられます。ここでも神のみわざに目を向けさせるような呼びかけがなされています。
37章6–13節では神が起こす冬の嵐に目が向けられます。その結論が「神は、懲らしめのため……または恵みのために、これが起こるようにされる」と、神のみわざの両面を思い起すように勧められます。
14節はさらに「これに耳を傾けよ、ヨブよ。立ち止まって考えよ、神の奇しいみわざを」と勧められます。
そして15、16節では「あなたは知っているか」と繰り返し、「知識の完全な方の不思議なみわざを」と語りかけます。ここではとにかく、ヨブは神のみわざを理解することはできないと強調しており、これは38–41章で、神ご自身がヨブにみわざの理解しがたいことを告げることばに通じます。
なお19節は、「私たちに教えよ、神に何というべきかを」と問いかけられますが、これがさらに「人がことばを発すれば、その人は必ず呑み込まれる(滅ぼされる)」(37:20) と、人が愚かな言葉を発することの危険が指摘されています。
21-24節では神が創造した太陽の輝きから、晴天の中で太陽を見ることができないように、神の威厳と向き合うことができないと述べられます。
23、24節は「全能者、この方を私たちは見出すことができない。この方は力にすぐれ、さばきと正義に富んでおられる。主はそれを破ることはない。だから人はこの方を恐れる。心に知恵がある者はこの方を恐れる」と訳すこともできます。これは28章28節の「見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである」という結論立ち返らせます。
詩篇46篇10節には、「やめよ。知れ。わたしこそ神」という不思議な呼びかけがあります。この文語訳、「汝等しづまりて我の神たるを知れ」と記されます。
この箇所はさらに、「静まれ。そして、知れ。『わたしこそ神。国々の上におり、地のはるか上に在る』 万軍の主は、われらとともにおられる ヤコブの神こそ、われらの高き砦」と訳すことができます。神のご支配が見えない現実は、いつも目の前にあふれています。しかし、それでも視点を変えると、神のご支配の確かさが見えることもあるのではないでしょうか。
ヨブは自分の葛藤を、神に食い下がるように訴えました。一方エリフは「訴えは神の前にある。あなたは神を待て」と言い、神の創造のみわざに目を向けるように勧めました。どちらも大切な視点です。