私たちはキリストの十字架と復活で、世界がまったく新しく変えられたということをどれだけ理解しているでしょうか?イエスがユダヤの最高議会で死刑判決を受けた直接の理由は、ご自身がダニエル書7章13節の預言を成就する「人の子」であると言って、神を冒涜したと評価されたためです。
しかし、私たちはキリストの支配は既に始まっていると信じています。だからこそ、故古山洋右先生はご自分の葬儀に際に「ハレルヤコーラス」を歌うように願われました。この世の王国はすべて過ぎ去りますが、キリストの王国は完成に向かっています。ただそれはキリストの再臨まで完成はしません。
それどころか、再臨が近づくにつれ、世の混乱が増し加わるように見えます。それがすべてダニエル7章に預言されています。
1.「天の四方の風が大海をかきたて、四頭の大きな獣が海から上がって来た」
7章1節には「バビロンの王ベルシャツァルの元年に」と記されますが、それはバビロン帝国が538年に滅びる14年前のことだと思われます。そこでダニエル自身がイスラエルの民に向かって語り聞かせるべき「幻」が、「夢」として示されます。
そこで彼は、「私が夜、幻を見ていると、なんと、天の四方の風が大海をかき立てていた。すると四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた」(7:2、3) と述べます。
「風」とは「息」とも訳せますが、ここでは「天の風」という「神の息」である聖霊によって「大海」がかき立てられ、「四頭の大きな獣」が上がって来たというのです。それは途方もなく恐ろしい情景ですが、それを起こしたのは神ご自身の「息」であり、それは2章に描かれた四つの王国に対応します。
「第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた」(7:4) と記されますが、これはバビロン帝国を示唆します。
また、「第二の獣」は「熊に似」ていて、「横向きに寝ていて、その口の牙の間には三本の肋骨があった」と描かれます (7:5)。これはメディヤとペルシアの連合国を示唆しているように思われ、ペルシアの方がはるかに強いのが「横向きに」に寝る姿に現れ、その他の表現は、バビロン帝国を含む三つの国々を次々に滅ぼすことが描かれていると思われます。
そしてその後、突然に現れるのが第三の獣で、足の速さを示す「豹のような」姿でした (7:6)。それは「四つの鳥の翼」で自由に飛び回り、「四つの頭」によって四つの方向を一度に見て襲いかかる姿が示唆されます。これはギリシャのアレクサンドロス大王がたちどころに当時の世界を支配して、それが四つの国に分かれることで成就したとも思われます。
そして、「それに主権が与えられた」とは、この驚くべき支配が、この大王の天才に帰せられるというよりは、天の神の導きによるということです。古代世界の公用語がギリシャ語になったのは、ひとえにそのためです。
しかし、よく見ると、この預言は極めて象徴的なもので、現実の歴史の動きの後で初めて意味がわかるという性格のものです。しかも、それぞれの王国の変遷には人間の罪の性質が現れています。
バビロン帝国は全土を一つのカルチャーの下にまとめるという強権政治によって成り立っていましたが、ペルシア帝国はその反動で、各民族の自主性を尊重する政策によってより広い領土を支配しました。しかし、そこでは宮廷儀式や政治的な権威が形骸化して、現実への対処能力を失い、組織の硬直化が起こり、有能な独裁者を人々が待ち望むようになります。それがアレクサンドロス大王の登場につながりました。
しかし、独裁者の後には必ず、複数の独裁者による領土の分割と領土争いが生まれます。神はダニエルを通して、人間の歴史がそのようなことの繰り返しであることを示したと言えましょう。
なおイエスの時代のユダヤ人の間では、ダニエル書が非常に愛読されていました。それはこの預言が、恐ろしいほどに正確にバビロン捕囚後の世界の歴史を描いていたからですが、ここには普遍的な原則が描かれています。
7節からは、「その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた」と記されますが、これは2章40–43節にあった「鉄と粘土」で成り立っている第四の国のローマ帝国を示唆しているように見えます。
その獣の様子が、「大きな鉄の牙を持っていて、食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた」と描かれます。
「十本の角」とは、通常の動物の二本の角の五倍の威力を持つという圧倒的な力の象徴表現です。しかも、「私がその角を注意深く見ていると、なんと、その間から、もう一本の小さな角が出て来て、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には人間の目のような目があり、大言壮語する口があった」(7:8) と描かれます。
これはその強大な王国の中で、人知れず新しい王が生まれ、この国の三人の王をもしのぐ勢力となり、「大言壮語する口」という傲慢さこそがこの新しい王の特徴となるということです。
そして9節では、「私が見ていると、やがていくつかの御座が備えられ、『年を経た方』が座に着かれた」と、年を経た全世界の創造主が王座の中心にただひとり座り、この世界にさばきを下すという様子が描かれます。
「その衣は雪のように白く」とは、この世のすべての汚れを超越した聖さを現し、「頭髪は混じりけのない羊の毛のよう」とは、神の知恵がこの世のあらゆる知恵を凌駕する純粋さを示します。
また、「御座は火の炎、その車輪は燃える火で、火の流れがこの方の前から流れ出ていた」とは、ローマ軍の戦車隊をたちどころに追い散らすような神の攻撃力を示す表現です。そこには「幾千のもの者がこの方に仕え、幾万もの者がその前に立っていた」と、この世の王がおびただしい家臣を従えているのにまさる神の権威が示されます。
その上で、この方のさばきの様子が、「さばきが始まり、いくつかの文書が開かれた」と描かれます。これは神のもとにはこの世の王や支配者の行いが正確に記された文書があり、神はその人の行いに従って公平な、誰もが納得せざるを得なくなるようなさばきを下すということを表します。
11節では神の明確なさばきが、「そのときあの大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた」と描かれます。
これは第四の獣から生まれた三人の王をしのぐ強力な王が、自分を神であるかのように傲慢に誇ったことへの報復です。
なお12節の「残りの獣は主権を奪われたが、定まった時期と季節まで、そのいのちは延ばされた」という表現は歴史的事実を超えています。なぜなら第一の王国がバビロン帝国、第二の王国がペルシア帝国、第三の王国がギリシャ帝国を指すなら、各王国の「いのちは延ばされ」ることなく、それに続く王国によって滅ぼされたからです。
ですから、この預言は紀元前六世紀から紀元一世紀にわたる期間を指すというよりは、神の支配の中でこの世に現れる異なった王国の特徴を描いたものということができましょう。
2.「見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られ……」
7章13節の「私がまた、夜の幻を見ていると」という書き出しは、7章2、3節の「四頭の大きな獣」の現われと並行関係にあります。
先に四頭の獣が海から上がって来たのに対して、ここでは、「見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた」と描かれます。
しばしば、「天の雲にともに(乗って)来る」ことが、天から地に降るイメージと誤解されますが、「来られ」とは場所の移動以上に「現れ」を指す言葉と理解できます。しかも、「天の雲」とは、孫悟空の場合のような移動の手段ではありません。聖書では、「天の雲」というのは「神の栄光の現れ」を意味します。
ですからここでは、「獅子のような」また「豹のような」獣の「現れ」との比較で、「人の子のような方」の「現れ」が、「天の雲」という栄光に包まれている様子が強調されています。
そして、その方は、天から地に「下る」のではなく、「年を経た方のもとに進み、その前に導かれる」という栄光の御座に引き上げられるという「上昇」の動きを指し示しています。
そして、そのことの具体的な意味が、「この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(7:14) と描かれます。
先の「豹のような獣……に主権が与えられた」(7:6) ときのことは、アレクサンドロス大王のような支配を表しました。彼はギリシャ北部のマケドニア地方の王として即位して六年もしないうちにペルシア帝国やエジプト王国を次々と滅ぼし世界帝国を築きますが、その七年後には病死し、王国は分裂します。世界史上これほどはかない王国はありません。
それに対して、「人の子のような方……に、主権と栄誉と国が与えられた」ときの支配は、全世界に及び「その国は滅びることがない」と言われます。
私たちは「人の子のような方」として現れるキリストの支配を、この世離れした霊的なことと矮小化して捉えてはいないでしょうか。
イエスの時代の人々はそのような救い主の現われを待望していました。彼らはダニエル書に大帝国の興亡が描かれていることに感動し、アレクサンドロス大王に勝る救い主が現れ、イスラエル王国を中心に世界がまとめられることを夢見ていました。
イエスも、そのような期待を否定するどころか、この箇所を用いながらご自分を「人の子」と紹介していました。
事実イエスは、エルサレム神殿の壮麗さに感動する弟子たちに、神殿の崩壊に続く苦難の時代の中で起きる最終的な「救い」を、「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」(マタイ24:30) と描き、ご自身こそが神の国を完成に導くと述べました。
何よりもイエスは、ユダヤの最高議会で裁判を受けられたと (マタイ26:63-66)、大祭司が「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と迫ったとき、「あなたが言ったとおりです」と言ったばかりか、「しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります(今から後、あなたがたは見ることになります、人の子が力ある方の右の座に着くことを、また天の雲とともに現れることを)」と言われました。
そして大祭司はこのことばを聞いたとたん、自分の衣を引き裂き、これが神を冒涜することばであると断言し、満場一致での死刑が確定したのです。
つまり、イエスが死刑になった最大の理由は、ご自分をダニエル7章13節が描く救い主であることを明言したことによるのです。
しばしば、これはキリストの再臨を現すことばとしてのみ理解されますが、ダニエルの文脈でも明らかなように、またイエスご自身が、「今から後に」と強調されたように、救い主の栄光はすぐに現れました。それは十字架上の姿であり、何よりも、栄光の復活を表します。
初代教会最初の殉教者ステパノは裁判の席で聖霊に満たされながら、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒7:56) と証しすると、すぐに人々は冒涜のことばを聴くまいと「耳をおおい」ながら、彼に殺到して石で打ち殺しました。
それほどに、ダニエル7章13節のことばは、イエスを救い主と認めるか、また反対に神への冒涜者であると断罪するかの分かれ道になる決定的なみことばであったのです。
ヘンデル作のオラトリオ「メサイア」では、十字架と復活が描かれた直後に、ハレルヤ・コーラスが歌われます。それは復活したイエスが、今すでに「王たちの王、主たちの主 (King of kings、and Lord of Lords)」(黙示19:6) となっているからです。
以前、「キリストの教会で何でこんな問題が次々に起るのだろう……」と悩んでいた時、この賛美を聞き、それもイエスの王としてのご支配の中にあることと受け止め、慰められました。
3.「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる」
この幻は、ダニエルの心に希望や喜び以前に「悩み」をもたらし、彼を「おびえさせ」ました (7:15)。そのことがこの幻の解き明かしのあとに再び記されます (7:28)。
それは、この幻は、地上的な意味での楽観論を否定し、当面の世界に戦いが続くことを示しているように思えたからではないでしょうか。
そして、この幻の意味が示されますが、最初にその結論部分が、「これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。しかし、いと高き方の聖徒たちが国を受け継ぎ、その国を永遠に、世々限りなく保つ」(7:17、18) と要約されます。それは「神の国」の完成への希望が大胆に描かれていることです。
私たちも「いと高き方の聖徒たち」として、キリストとともに王とされます (黙示20:6、22:5)。多くの人々は「世の終わり」と聞くと、世界的な戦争や飢饉や地震や大津波や火山の噴火などを思い浮かべがちですが、聖書が描く世界のゴールは、神の平和(シャローム)が全世界を覆い、愛の交わりが完成するときです。
その上で「第四の獣」の破壊力の強大さが改めて強調され (7:19)、さらに第四の獣の内部で権力闘争が起き、最後に三人の王を打ち倒した者が、反キリストとして聖徒たちを一時的な敗北に追いやる様子が、「その角には目があり、大言壮語する口があった……その角は聖徒たちに戦いを挑み、彼らに打ち勝った」(7:20、21) と描かれます。
しかし直後に、「それは『年を経た方』が来られるまでのことであり、いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た」(7:22) と記されます。それは神の民が戦いに勝利するからではなく、神ご自身が第四の獣をたちどころに滅ぼすからです。
その後、第四の獣の一時的な勝利と最終的な滅亡へのプロセスのことが、「第四の獣は地に起る第四の国。これは……全土を食い尽くし……踏みつけ、かみ砕く。十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らの後に、もう一人の王が立つ。彼は……三人の王を打ち倒す。いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き聖徒たちを悩ます。彼は時と法則を変えようとする。聖徒たちは、一時と二時と半時の間、彼の手に委ねられる。しかし、さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる」(7:23-26) と記されます。
「一時と二時と半時の間」とは、三年半、また「四十二か月」という短い期間の象徴です。
黙示録13章では、ダニエルが記した「十本の角を持つ第四の獣」とその前に現れた獅子、熊、豹が一つの獣とされ、その表現を用い次のように記されます。
「私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角……があった……その獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった……この獣には、大言壮語して冒涜のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた……獣は聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる」(1、2、5、7、8節)。
ダニエル7章で繰り返される「大言壮語する口(声)」(8、11、20節)、「いと高き方に逆らうことばを吐き……聖徒たちを悩ます」(25節)「王」の迫害の期間と、黙示録13章の「獣」が「大言壮語して」聖徒を苦しめる期間はどちらも「三年半」と解釈できます。
それに対し黙示録20章では、神がサタンを縛る期間が「千年の間」と表現され、苦難の期間が短く限定されている一方で、祝福の期間が途方もなく長いことが示されます。
実際の歴史でも大迫害の期間は「束の間」に過ぎませんでした。たとえばローマ帝国では皇帝ディオクレチアヌスの大迫害は有名ですが、迫害から二年も経たないうちに皇帝は引退し、その直後、キリスト教を擁護するコンスタンチヌスが勢力を増し、唯一の皇帝となりキリスト教を公認します。
日本でも第二次大戦中に大迫害は数年間のことで、戦後はすぐにキリスト教会の爆発的な成長に転じます。ですから、しばしば「大患難期」と恐れられる時期は、世の終わりの特定の期間を指すという以前に、歴史上何度も起きた大きな苦難の時期が、神の御手の中で、常に限られた短い期間であったことを示すと言えます。
最後に27節では、私たちの希望が、「国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」と描かれます。
キリストに従う聖徒たちはすべて、この永遠の祝福の中に招き入れられます。これこそが「永遠のいのち」です。
黙示録5章9、10節でも子羊なるキリストによる救いのみわざが、「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです」と記されています。
これは先のダニエル7章13、14節で預言された「人の子」の支配と27節を合わせたような表現です。私たちは「地を治める」ために御子の血によって贖われたのです。
そして、「地を治める」働きは、「新しい天と新しい地」で実現する以前に、今から始まっています。私たちはキリストとともにこの世界を平和のうちに治めるために救われたのです。
イエスはダニエル7章を最高議会においてご自身に当てはめることによって、神への冒涜罪で死刑が確定しました。それならば、この箇所を抜きに、キリストの十字架と復活の意味を語ることはできないはずです。
そしてイエスはご自分の弟子たちに、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ9:23、24) と言われました。
キリストの王としての支配とこの十字架を負う歩みは、人の目には矛盾するように見えますが、それこそが福音の核心です。
すべての指導者たちは、自分の理想をこの地に実現しようとして、権力を獲得します。しかし、しばしば、それぞれの理想が異なり、それが衝突することで争いが生まれ、混乱か強権政治に向かいます。
そこでは、「年を経た方」と呼ばれる天の神のご支配は無視されていますが、そのご支配の現実は誰の目にもやがて明らかにされます。
私たちはそれを知っているからこそ、一時的な苦しみに耐え、また目の前で自分に損としか思えないことに力を注ぐことができます。私たちもキリストとともに王とされることが分かっているからこそ、この世の苦しみに耐える「余裕」が生まれ、身近な世界に平和を広げることができるのです。