子どものいじめで、いじめられている子を守ろうと戦ったことで、かえって自分がいじめの新たな標的とされ、誰よりも苦むという話を聞くことがあります。
私も昔、自分としては誠実を尽くしたつもりなのに、それが別の大きな問題を誘発して、非難される立場に置かれたようなことがありましたが、そのとき、「神よ 私のためにさばいてください」(詩篇43:1) という祈りに出会い、深い慰めを受けました。これは英語では “Vindicate me” と訳され、「私の立場を回復して!汚名をすすいで!」という意味で用いられます。
1.「全能者がまだ私とともにおられたとき……」
ヨブ記29章は27章1節と同じく、「さらにヨブは格言を取り上げて言った」という表現になっています。
2、3節は、「ああ、できれば昔の月日のようであったらよいのに、その日々に神は私を守ってくださっていた。あのとき、神のともしびが私の頭上を照らし、神の光によって私は闇の中を歩いたものだった」と記されます。
さらに4、5節では、「私がまだ壮年であったころ、私の天幕の中には神との親しい交わりがあった。全能者がまだ私とともにおられたとき……」という表現で、その時のヨブの祝福に満ちた生活が彼自身によって描かれます。
特に7–10節ではヨブが町全体の中で、「年老いた者も起立する」ほどの「さばき司」のように恐れられ、信頼されていた様子が描かれます。
さらに11節では「聞いた耳は私を称賛し、見た目は私を証しした」と言いながら、その内容を、自分が「苦しむ人」「みなしご」を「助け出し」、また「死にかかっている者からの祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた」こととして描きます (29:12、13)。
かつてエリファズは、ヨブがそのように行動しなかったと責め (22:6–9)、ヨブはそれに徹底的に心を配ったと述べます。神が求める「義(正義)」とは、隣人愛にあるという点で二人は共通しています。
とにかく、聖書が描く罪とは何かの過ちを犯すこと以前に、社会的弱者の痛みを見過ごすことなのです。
そしてヨブはそのとき自分の立場を、「義(正義)を私はまとい、それは私をおおった。また上着であり、かぶり物であった、私の公正さ(さばき)は」(29:14) と描きます。
ここで最初の「義(正義)」は12、13節のヨブの善行を指し、最後の「公正さ(さばき)」は、15–17節の社会的弱者を支え、彼らのために戦う働きを指します。
そのことがまず、「私は目の見えない人の目となり、足の萎えた人の足となった。私は貧しい人の父となり、見知らぬ人の訴訟を取り上げ、調べ上げた」(29:15、16) と記されます。
さらにその「訴訟を取り上げた」の結果が、「不正を働く者の牙を砕き、その歯の間から獲物を奪い返した」(29:17) と描かれます。
これは残念ながら、「見知らぬ人」を助けるために、「不正を働く者」の「恨み」を買うという結果につながります。そのことが30章でヨブが町の人々から「嘲り」や「嘲笑」という復讐を受ける原因ともなります。
なお、これらはヨブが友人の非難に耐えかねて、自分の正しさを主張した表現です。ただ主ご自身がサタンに対して二度にわたって、「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実(完全)ですぐな心を持ち(まっすぐで)、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1:8、2:3) と言っておられたことからすると、愚かな自慢ではありません。
ただ、それにしてもそのように神から特別に愛される存在は、サタンにとっての最大の攻撃対象となることは避けられません。
18、19節で、ヨブは神に信頼する自分に与えられる繁栄の様子を思い巡らします。20節は、「私の栄光は私のうちで新しくなる。私の弓は私の手の中で新たにされる」と訳すことができます。
これらは詩篇1篇2、3節で、「主の教えを喜びとする」人が、「流れのほとりに植えられた木」のように、「時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」と約束されていたことに似ています。
21–23節は、ヨブが町の人々から尊敬を受けていた情景が、「人々は待ち望みながら私に聞き入った。私の助言の前で沈黙していた。私が話す後には彼らは言い返すことがなかった。私のことばは彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つかのように待ち望んだ、まるで後(春)の雨のために口を大きく開けるかのように」と描かれています。
これはまさにヨブが3人の友人たちから厳しく反論され、心を傷つけられたことと正反対の状況です。さらに24、25節では、ヨブが自分の町で、慈しみ深い王のような信頼を受け、「嘆き悲しむ人を慰める」指導者としての現実的な貢献をしていたことが振り返られます。
これらのヨブが体験した祝福はすべて、「全能者がまだ私とともにおられたとき」(29:5) という神との関係の中で生まれていたことです。それにしても「神との親しい交わり」(29:4) と、周りの人々から尊敬されるという交わりは表裏一体のものとしてあったと描かれています。
これはたとえば詩篇22篇では、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ孤独感が、「人のそしりの的 民の蔑みの的」(同6節) として、謂れのない嘲りを受けることとセットで描かれていることと正反対の同じ構造です。
私たちはみな、人との関係の中に生かされています。20世紀最高の神学者とも称される は、「人は、栄誉を、おそらく最高の地上的な財宝と呼んでよいであろう。栄誉においては、結局、実際に、人間自身が、人間のたましいが、問題である。『栄誉を失うならば、すべてを失う』ということはおそらく本当であるであろう」と語っています(教会教義学Ⅳ・4-56節3–2)。
私たちはヨブ自身が体験していた「祝福」、つまり、彼がどのような地上的な栄誉を受けていたかという描写から、もっと人間関係で大切にすべきことが見えてくるのかもしれません。しばしば日本人はあまりにも無神経に人の栄誉を傷つけることがあるのではないでしょうか。それはヨブが、そしてイエスが体験した最大の痛みであったのですから。
2.「善を望んだのに、悪が来た。光を待ったのに、暗闇が来た」
30章1節は、「しかし今は、私より年下の者たちが私をあざ笑う」と描かれますが、これはかつてのヨブが「年老いた者」からも直立の挨拶を受けたのと対照的です。ただ続く、「あの者たちの父は、かつて私が蔑んで羊の群れの番犬と一緒にいさせた人たちだ」との表現は、ヨブが彼らの父を犬のように扱ったという意味です。
しかも2節の「あの者たちの手の力も何の役に立つだろうか」という表現、5節の「世間からは追い出され、人々は盗人に叫ぶように、彼らに大声で叫ぶ」という社会的な死を宣告する表現、さらに8節の「彼らは愚か者の子たち、名もない者の子たち、国からむちでたたき出された者たちだ」に至る記述には、ヨブ自身が彼らの人格を真っ向から否定している?ように見えて、心が痛みます。
しかし、このように厳しい書き方が、かつてヨブが「見知らぬ人の訴訟を取り上げ……不正を働く者の牙を砕き……獲物を奪い返した」(29:16、17) ことの結果であるなら理解できます。
当時の裁判には、「あなたがたは、彼がその同胞にしようと企んでいたとおりに彼に対して行いなさい……あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を」(申命記19:19、21) という同害報復法が一般的でした。
ですから、彼らはヨブの蔑みを受けて当然の存在と言えます。しかもヨブ自身も先に不正を行う者たちへの容赦のない神のさばきを願っていました(24:18–25、27:13–23参照)。
そして9節では1節と同様の「しかし今は(それなのに、今や)」ということばが繰り返され、「私は彼らの嘲りの的となり、その笑いぐさとなっている。彼らは私を忌み嫌って遠く離れ、私の顔に向かって情け容赦なく唾を吐きかける」(30:9、10) と描かれます。これはヨブがくだしたさばきに対する報復と言えるかもしれません。
さらに11節は聖書協会共同訳では、「神(彼)が私の綱を解いて苦しめたので 彼らも私の前で慎みを捨てたのだ」と訳されます。新改訳で「弓弦」と訳されることばは4章21節で「天幕の綱」と訳されている単語と同じで、ここは29章4節で描かれていたヨブの「天幕」の「綱」が神ご自身によって解かれてしまい、社会的に立場を失っていた者までもが、怖じることなくヨブを嘲ったという意味です。
12節では、「この生意気な者たち(共同訳「悪党ども」)は私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に対して滅びの道を築いた」と彼らの反撃の様子が描かれます。
それがさらに、「彼らは、広い破れ口から入るように、瓦礫となったところになだれ込む。突然の恐怖が私に降りかかり 私の威厳を、あの風のように吹き払う。私の平穏(繁栄、救い)は、雨雲のように過ぎ去った」(30:14、15) と描かれます。
さらに16節では「今、私のたましいは自分に注がれている」と描かれますが、これは切実な悲しみの表現法です。詩篇42篇4節では同じ表現を用いて、昔の礼拝の喜びを失った悲しみが描かれていました。
なお、17節では「夜」が加害者かのように描かれ、18節も聖書協会共同訳では、「大きな力によって私の衣は姿を変え」と何かの大きな力がヨブを苦しめているように描かれます。
その上で19節の原文は、「彼は泥の中に私を投げ込まれ、私はちりや灰のようになった」と描かれます。つまり、神ご自身が加害者であるということが明記されないような表現になっているのです(11節の原文の主語も「彼」)。
ただ20節からは、神に向かって真っ向から自分の気持ちを訴えるかたちに変わり、「あなたに向かって叫んでも、答えてくださいません。私が立ち尽くしても、あなたは目を向けるだけです」と訴えられます。
そこからさらに激しい表現で、「あなたは残酷な方へと変わられました、私に向かって。御手の力で私を攻め立てられます」(30:21) と記され、神が自分にとっての敵となってしまっている状況が描かれます (16:9参照)。
さらに22節は翻訳が困難で、「あなたは私を風の上に引き上げ、それに乗らせながら、私の成功を放り投げます」と訳すことができます。これは、神は自分を高い所に引き上げながら、同時に、そこから突き落とすというニュアンスを語ったものと思われます。
そして23節は、そのようにすべてが空しく終わる理由を、「それは私が知っているからです。あなたは私を死に帰らせることを、すべての生き物が集まる家に」と述べます。ヨブはかつて「死を待ち望む」ようなことを言っていましたが (3:21)、ここでは神が自分を高く引き上げてから、再び自分を他の生き物と同じ「死」に突き落とすと嘆いています。
30章24–26節は一つのまとまりと理解すると、その意味がわかります。
それは、「確かに人は瓦礫の中にいてさえ、自分の手を指し伸ばさないことはない、災難にあって助けを求めて叫びながら。ただそこで私は苦難の日々を過ごす人のために泣かなかったというのだろうか、また私のたましいは貧しい人のために悲しまなかったというのだろうか。しかし、私は善を望んだのに、悪が来た。光を望んだのに、暗闇が来た」と訳すことができます。
それは、自分が災難にあっている人、苦難の日々を過ごす人に寄り沿ってきたつもりなのに、それが報われるどころか、「悪」と「暗闇」を招く結果になったという意味です。
そして30章27、28節は、「私のはらわたはかき回されている、休みもなく、それでいて苦しみの日が私に立ち向かってくる。私は暗く歩き回る、日に当たることもなく。そして集いの中に立って、助けを呼び求める」と訳すことができます。
そこには、助けを呼び求めながら、友人たちから慰めを得られるどころか、かえって、神のさばきをうける当然の理由があるはずだと、非難された悲しみが込められています。
29節の「じゃっかる」や「だちょう」は忌み嫌われた動物の代名詞で、自分がそのようなものの「仲間」とされてしまっていることを嘆いています。
さらに30節ではヨブの肉体的な状況が、「私の皮膚は黒ずんで剝げ落ち、骨は熱で焼けている」と描かれます。そして最後に、神への賛美をささげる楽器の「竪琴」や「笛」が、悲しみの表現にしか用いられなくなっているという悲惨が描かれます。
とにかくヨブは30章全体で、自分としては誠実を尽くしたつもりなのに、それが仇になってしまったことを嘆いています。人はどこかで同じような苦しみを味わうことがありましょう。
3.「もし、私が偽りとともに歩むなら……もし、私の心が女に惑わされるなら……もし私が」
31章1節は、「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留められるだろうか」と記されます。ここからイエスの、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(マタイ5:28) ということばが生まれたのかとさえ思いますが、ヨブはそのように「自分の目」が自分を罪に導くことがないようにと注意を払っていたというのです。
さらに2–4節では、神こそが地上的な富の源であるとともに、「不正を働く者にはわざわいが、不法を行う者には災難が来るではないか」という神の地上的なさばきに対する期待が述べられ、最後に神の眼差しを意識して生きるというヨブの覚悟が記されます。
5、6節ではヨブの行動に「偽り」や「欺き」があるというなら、「神は私を正しい秤で量られればよい。そうすれば神に私の誠実(完全)さが分かるだろう」と述べながら、神の公平なさばきを求める思いが記されます。
さらに7、8節では「私の歩み」「私の心」「私の手」に何かの罪が見られるなら、自分の労苦の実が他人に食べられ、また無駄にされるという神の「さばき」を受け入れるという覚悟が述べられます。とにかく5節以降は、「もし、私が……」という、自分が罪を犯したとしたらという仮定のことが述べられます。
9–12節では、「もし、私の心が女に惑わされ、隣人の戸口で待ち伏せしたことがあったなら」ということばから始まり、それが自分の家族や財産を損なうことにつながっても受け入れると記されます。
さらに31章13–15節では、「もし、しもべや召使の女が私と争ったとき、私が彼らの訴えを拒んだことがあるなら」と言う表現とともに、神の公平なさばきに委ねるという趣旨のことを語られます。
それとともに「私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか」(31:15) と、すべての人間が神ご自身によって「母の胎内」で「形造られた」ということが、奴隷と自由人を分け隔てしてはならない理由とされます。
16、17節では、もしヨブが「弱い者たち」や「やもめ」の必要に応えていなかったとしたらと逆説的に述べながら、同時に「実は私の幼いときから、弱い者は私を父のようにして育ち、私は生まれた時からやもめを導いた」(31:18) と告白します。
これはまさにエリファズが先にヨブに向かって、「あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った」(22:9) と言ったことの正反対であり、社会的弱者の痛みを見過ごすことの罪深さが確認されます。
さらに19–21節では「貧しい人」や「みなしご」の必要に対して答えていなかったとしたら、「私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい」(31:22) とまで言い切るというのは何とも大胆です。
その上で23節は、「それは神からのわざわいが私をおののかせ、その威力のゆえに私は何もできないからだ」と訳すことができます。これは、神の最終的なさばきに比べたら、この地上で自分の肩や腕が使えなくなることぐらいは受け入れやすいという意味です。
イエスは先の情欲の目に関して、「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです」(マタイ5:29) と言われたことと同じです。
さらに31章24節の「もし、私が金(きん)を自分の頼みとし」と述べられるのは、先にエリファズが「あなたは黄金を土のちりの上に置け」(22:24) と、ヨブが金を頼りとしたかのように非難したからです。
また26–28節は、「もし私が日の光が輝くのを見て、また月が照りながら動くのを見て、ひそかに私の心が惑わされ、私の手に口づけをしたことがあるなら、これもまた裁判で罰せられるべき不義だ。それは私が上なる神を否んだからだ」と記され、太陽や月を偶像として拝むことをさばきの理由として述べています。
ヨブは金により頼むことも、現代的な表現では、太陽や月に魅せられて投げキッスをすることもしてはいないと述べ、イスラエルの神ヤハウェ以外の方を拝むことの罪を心から認識していると語っています。
29節も原文では「もし私が、私を憎む者の衰えを喜ぶなら……」という書き出しになっていますが、ここでは13–15節の場合と同様に、それに対するさばきが記されません。
それどころか、「のろいの誓いで彼のいのちを求めるようなことをして、自分の口に罪を犯させなかった」(31:30) と弁明しています。さらに、ヨブは彼の天幕に住む者を「満腹」させ、「寄留者」にも自分の家の「戸口」を開いていたと告白します。
33、34節の原文も、「もし、私がアダムのように自分の罪をおおい隠していたなら」という表現から始まっています。ここではヨブが自分は偽善者のように自分の咎を胸の中に秘めるようなことをしなかったし、また、「群衆の騒ぎにおびえ」、自分の身を隠すようなこともしなかったということを告白しています。
そして35節でヨブは、今まで自分が神の前に誠実に歩んできたということの結論として、「だれか、私に耳を傾けてくれる方が与えられるなら」と願います。これは「聞いてくれる者」というより、「耳を傾けてくださる方」としての神を指していると理解できます。
「ここに私の署名があります」とは原文で、「ここに私のタウ(ヘブル後のアルファベットの最後の文字)があります」と記されています。それは最後の署名と理解できるのでこのように意訳されていますが、これは私の最後の願いですという意味に理解して、「全能者が私に答えてくださるように」ということばでヨブの願いが締めくくられるとも理解できます。
さらにヨブは、「私を訴える者が書いた告訴状があればよいのに」という不思議な願望を述べながら、「私はそれを肩に担ぎ、冠のように、それをこの身に結び付け、私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにしてこの方に近づきたい」(31:35c–37) と逆説的なことを述べます。
「告訴状」は本来、ヨブを罪に定める訴えですが、ヨブはそれがあればかえって、それが事実と異なることが神の御前に明らかになり、かえってヨブの無実を保証する最大の材料となるということを意図しているのだと思われます。
最後に38–40節で、「もし、私の土地が私に向かって叫ぶなら」という面白い表現になっています。今までは「もし私が……」という前提でしたが、ここは自分の土地が人格を持って自分を罪に定めるとするならという仮定が前提になっています。
それがさらに、「もし、私が」他人の土地の権利を侵害したようなことがあったとするなら、自分の土地に「小麦の代わりに茨が、大麦の代わりに雑草が生えるように」と神のさばきが明らかになることを願います。そして最後に「ヨブのことばは終わった」と記されます。
人はしばしば自分の都合で善悪を判断します。しかしヨブにとっての善とは「やもめやみなしご」の必要に応え続けるで、それを無視することこそが「神からのわざわい」を受ける罪でした。
しかし現実は、彼が社会的弱者のために戦うことで、サタンと悪者たちから憎まれ、余計な苦しみを背負うことになりました。ヨブはその葛藤を赤裸々に神に訴えます。
それが「全能者が私に答えてくださるように」という祈りです。神はそれを聞いておられないようで、しっかりと聞いておられました。それこそヨブ記の面白さです。