ヨブ記18、19章「私自身の目がこの方を見る」

2021年3月14日

市場経済の世界では、人の価値はしばしば、その生産能力で測られがちです。成功しているうちは人々が擦り寄ってきますが、立場を失うと周りの人から見向きもされなくなることがあります。お金持ちの方々も、周りの人々が自分を評価してではなく、自分のお金を求めて近づいてくることに疑心暗鬼になりがちだとも言われます。

ただ、そのような孤独感は四千年前のヨブも同じように味わっていたようです。しかし、ヨブは神に食い下がって対話を求める中で、不思議に「私を贖う方は生きておられる」と告白するようになります。さらに「私自身の目が神を見る」と期待し、最後にはそれが実現しました。

お金で動くような人の評価ではなく、神との対話の中に生きることで、「私自身の目から神を見る」と言えるようになりたいものです。

1.「彼の記憶は地から消え失せ、地の面では無名となる」

18章1節も「答えた、シュアハ人ビルダテが、そして言った」と記されます。彼は先に「先人に尋ねよ。先祖たちの探求したことを確かめよ」(8:8) と言っていたように、先祖たちから受け継がれている価値観から現状を見るように勧めた人です。

そしてここでの2節は、「いつまでことばで罠を仕掛けるのか。まず見分けよ、それから語り合おう」と訳すことができます(別訳参照)。つまり、ビルダテはヨブのことばに真っ向から答えることができず、自分が罠をしかけられているという被害者意識を持ってしまっているのです。

その際、2、3節ともビルダテはヨブに向かって「あなたがた」と呼びかけます。彼は、ヨブとその知恵のことばに脅威を感じ、複数の人々から自分たちが「獣のように見なされ」「愚かに(または「汚れて」)」られているという被害者意識に流れています。

ビルダテは最初はヨブの痛みに共感していたのですが、自分たちの慰めのことばが次から次と誤った洞察として否定されることを受けて、自分たちが反対にヨブから攻撃を受けているような錯覚に陥ってしまいました。これは私たちにも起こり得ることかもしれません。

それは激しい痛みを抱えている方に寄り添いながら、自分が今まで大切にしていた価値観を揺るがされる体験です。多くの人々は基本的に、「誠実さは長い目で見たら、必ず報われる……」という価値観を大切にして社会生活を営んでいます。そして、子どもたちにもそのように教えています。

もし私たちに教会に、ヨブと同じように、「神は激怒して私を攻めたて、私に向かって歯をむき出される」(16:9) と言いながら、神を「私の敵」と呼ぶような人が現れたらどうするでしょう。

しかも、その人が、「私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよいのだが」(16:17) などと、自分の正当性を主張するなら、「神は悪の創造者ではありません、自分を正当化するあなたは、もっと自分の罪深さにきちんと直面すべきです」とたしなめられることでしょう。

また4節は、「怒って自分のたましいを引き裂く者よ、あなた自身のために地が見捨てられ、岩がその場所から移されるだろうか」と訳すことができます。それは、ヨブが「怒り」のゆえに、人間のたましいの基本的な価値観を壊し、自分の狭い体験から天地がひっくり返っているかのようなことを言う、自己中心性を非難したことばと言えましょう。

受け継がれてきた価値観を自分一人の体験を絶対化することで否定するような人は、社会の道徳規範の基礎を壊し、人々の倫理観を無意味にする反社会的勢力とも言えましょう。

そして5、6節では、「まことに悪しき者光は消え、その火の炎も輝くことはない……彼を照らすともしびも消える」と述べられます。これは神が「悪しき者」にさばきを下し、その人の歩みを暗くするという意味です。

これらの背後には何よりも、ヨブが、かつて友人たちが「夜は昼に変わり、闇のあるところに光が近づく」と励ましていたことを嘲って、自分はよみ」や」の中に住むことを願っているかのように言ったことを皮肉ったものと言えましょう。

ビルダテは、ヨブが「悪しき者」だから、闇が彼に訪れると言っているのです。

さらに7節では「彼の力強い歩幅は狭められ、自らのはかりごとが彼を打ち倒す」と言われますが、これは、闇をもたらす神のさばきで、歩幅が狭くされることと同時に、自分自身の「はかりごと」が彼を自滅に導くという意味です。

そして8-10節では、自分が仕掛けた罠に自分がかかってしまい、自滅するということが、「彼は自分の足で網にかかり……罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼を捕まえる。地には彼を捕まえる縄が隠されている。捕えるための罠が通り道にと記されています。

同じようなことが詩篇の中でも、「高ぶる者は 私に罠を仕掛け 綱で網を広げ 道端に落とし穴を設けました」(140:5) と訴えられ、「どうか 彼らが私にしかけた罠から 不法を行う者の落とし穴から 私を守ってください。私が無事に通り過ぎるとき 悪者が自分の網に陥りますように」(141:9、10) と祈られています。

要するに悪しき者」が自分の仕掛けた罠にかかって自滅するということは、神の公平なさばきとして聖書で繰り返されていることなのです。なお、これは、ビルダテが先にヨブのことを「ことばで罠をかける」と非難したことの延長にあるとも言えましょう。

11–15節は、恐怖が彼を周りからおびえさせ」ということばから始まり、恐怖の王のもとに引き立てられる」ということばで終わります。それはビルダテが、ヨブを襲っている「恐怖」は、彼が神に向かって高ぶって、神を悪の創造主であるかのように非難したことに対する神のさばきだと言っていることを意味します。

さらに15–19節は「彼の天幕には、身内でない者が住み」から始まり、「その住みかには一人の生存者もいなくなる」という表現で終わります。

その核心は「彼の記憶は地から消え失せ、地の面では無名となる」(17節) とあるように、子孫の滅亡とともにヨブという人が生きていたという記憶地から消え去ることを指します。しかしながら、ビルダテのことばに反し、聖書を信じる民で、ヨブの存在を知らない人はいません。

ただビルダテは最後に、ヨブという存在の証しは、何よりも「不正を働く者」「神を知らない者」に対する神の厳しいさばきの例として記憶されるという意味のことを述べます (20、21節)。ビルダテは、自分が思い浮かべる神についての観念をヨブから否定され、ヨブが神に向かって語る乱暴なことば自体が神の怒りを引き起こし、ヨブという人の存在の記憶すらこの地上から消えて無くなると言いました。

しかしそれこそ、後に「神の怒り」を買うことになる、神についての誤解でした。私たちも自分たちの信仰を、受け継がれた伝統的な価値観を大切にするという程度にしか理解していないのかも知れません。

それにしても、信仰の核心とは「神との対話」に他なりません。ヨブのように自分の気持ちを正直に訴える姿勢を神は喜んでくださいます。

2.「見よ、私が『暴虐だ』と叫んでも、答えはなく、助けを求めても、さばきは行われない」

19章も「答えた、ヨブは、そして言った」という書き出しから始まります。そして、18章2節のビルダテの「いつまで」という同じことばを用いながら、「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩ませ、ことばで私を砕くのか。もう十度もあなたがたは私を辱め、私をいじめて恥じることもない」(2節) と言います。

これは、ビルダテの語った「悪しき者」に振りかかる、暗闇、自業自得のわざわいや恐怖、また子孫が絶えることなどが、すべてヨブ自身に対する非難として、ヨブが受け止めたことを意味します。

ヨブは、ビルダテのことばの背後にある悪意、ヨブを軽蔑する思いを敏感に察知し、彼の意図を真っ向から非難しているのです。

4節は「たとい私が本当に過ちに陥っていたとしても、その誤りは私とともに留まるだけだ」と訳すことができます。これはヨブが罪を犯したと認めているのではなく、たとい無意識のうちに罪を犯しているようなことがあったと仮定しても、それは人に害を与えるようなものではないという意味です。

それを前提に5、6節では「もし、あなたがたが私に対して自分を高くし、私の恥辱を、私を攻める材料にするなら、今知りなさい、神が私に曲がったことを行い(私を不当に扱い)、ご自分の網で私を取り囲まれたことを」と述べられます。

これはビルダテが先に「神がさばきを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか」(8:3) と言っていたことを、ヨブがここで思い起こしながら、その同じ言葉を用いて、「神がさばきを曲げておられる」という趣旨のことを主張したという意味です。つまり、ヨブは再び、神をわざわいの創造者と見ているのです。

さらに7節で、ヨブは自分が置かれている状況を、「見よ、私が『暴虐だ』と叫んでも、答えはなく、助けを求めても、さばきは行われない」とまず描きます。

この表現はハバクク1章2節の「いつまでですか、主 (ヤハウェ) よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。『暴虐だ』とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは」という表現と何と似ていることでしょう。

どちらが先かは分かりませんが、一見、神を非難しているようでありながら、これこそ聖霊に導かれた叫びになっているとも言えましょう。

その上で、8、9節では、「神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれ、私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた」と述べます。これは、神が自分の願いを無視するばかりか、かえって自分に謂れもない攻撃をしているという意味です。

さらに10節では、「神は四方から私を打ち倒し、私は消え去る。神は私の望みを木のように根こそぎにされる」と述べられますが、これは先に彼が「木には望みがある」(14:7) という希望を告白していたことをすべて否定するような表現です。

そして11節ではさらに、「神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる」と述べます。これは16章9節でヨブが神を「私の敵」と呼んでいた表現と重なります。

また12節では「その軍勢は一つとなって進んできて……私の天幕の周りに陣を敷く」と、神の圧倒的な攻撃の前に、絶望しているようすが描かれています。

これらの描写は哀歌3章での「私は、主の激しい怒りのむちを受けて 苦しみにあった者……主は、私の肉と皮をすり減らし、私の骨を砕き、私に対して陣を敷き……私を暗い所に住まわせられた……主は私を囲いに入れて出られなくし……私の通り道をねじ曲げられた」(1、4、6、9節) と似ています。

ただ哀歌の場合は、律法を破った者に対するさばきという理由が見られますが、ヨブの場合には、理由が分からないまま、神の圧倒的な攻撃を受けて希望を失っているという点が違います。しかし苦難のただ中にある時に、苦難に会う理由が分かったとしても、どれだけ慰めになるのでしょう。

しかも、哀歌の場合でもヨブの場合でも、神ご自身からの攻撃を受けて苦しんでいるという点ではまったく同じです。そして、神がわざわいの創造者であるなら、それを取り除くことができるのは神だけです。

幼児が親からの厳しい罰を受けたとしても、親に泣いてすがるのは、反省の気持ちを伝えたい以前に、親の気持ちを変えたいからではないでしょうか。そして神も親と同じように、泣いてすがりつく者に対して「あわれみ」を注いでくださいます。そこに希望があります。

さらに19章13、14節では、ヨブは、神ご自身が自分の兄弟や親族、友人との関係を壊していると訴えています。そして15、16節では、自分の召使しもべ自分を軽く見るようになったと嘆きます。

また17-19節では、「私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。若輩までが私を蔑み……親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた」という嘆きが描かれます。これはしばしば、人々から賞賛を浴びていた人が、仕事で失敗し、不治の病に冒され、再起の望みが無くなったときに、一転して辱めを受ける悲劇でもあります。

人が不遇に陥った時、誰が真の友であるかが明らかにされます。それは驚くほど少ないのかもしれません。しかし、多くの詩篇の祈りは、そのような孤独の中で生まれています。

さらにヨブは自分の絶望的な状況を、「私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている」(19:20) と描いています。

そして、今まで自分に頼っていた人が、一転して、自分を激しく呪い、罵倒するようになるという一連の描写は、「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びから始まる詩篇22篇にも共通します。

そこでは神への祈りが、「どうか 私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり 助ける者がいないのです。多くの雄牛が私を取り囲み……私に向かって 口を開けています。かみ裂く 吼えたける獅子のように。水のように私は注ぎ出され 骨はみな外れました……私の力は土器のかけらのように乾ききり 舌は上あごに貼りついています……私は自分の骨をみな数えることができます……彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」(11-18節) と記されています。

このダビデの詩篇の絶望的な状況は、主イエスご自身が文字通り体験されたものです。ヨブが味わった絶望感と孤独感は、私たちの救い主イエスが後に味わうことになる苦難を先取りしたものと言えましょう。

3.「私は知っている、私を贖う方は生きておられることを」

ところがヨブのことばのトーンは19章21節から、がらっと変わります。そこで彼はまず、「私をあわれんでくれ、私をあわれんでくれ」と訴えながら、「あなたがた、私の友よ」と呼びかけ、「それは、神の御手が私を打ったからだ」とその理由を述べます。

さらに22節では、「なぜ、神のように私を追い詰めるのか。私の肉で満足しないのか」と訴えます。これは、ヨブの友人たちが、彼の肉体的な痛みに七日七夜もの間、寄り沿って沈黙をしていたことで「満足」することなく、ヨブの苦難の原因を説明しようとして、ヨブを「追い詰め」ていることに反省を迫っている表現です。

苦しみの原因を説くことが、苦しんでいる人を「追い詰める」ことにしかなっていないということを、ヨブは気づいて欲しいと、友人に優しく語りかけています。

そして23、24節で、ヨブは「ああ今、私のことばが書き留められればよいのに、ああ、書物に記されればよいのに。鉄の筆と鉛によって、永遠に岩に刻まれればよいのに」と述べます。これは、18章17節でビルダテが、「彼の記憶は地から消え失せ」と言われたことを意識してのことばだと思われます。

友人たちは、ヨブに何らかの隠された罪があって神のさばきを受けていると評価していました。それに対し、ヨブは自分の正当性を必死に訴えてきましたが、それが永遠に消えない形で記録されることを望んでいるのです。

25-27節ではこの書のクライマックス的な告白が次のように記されます。

この私は知っている、
私を贖う方は生きておられることを、
また、後には地のちりの上に立たれることを、
私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後に。
私の肉から神を仰ぎ見る (behold)
この方を私は自分自身で仰ぎ見る (behold)
私自身の目がこの方を見る (see)。他のものではない。
私のはらわたは私のうちで、絶え入るばかりだ(恋い焦がれている)

この前半はヘンデル作のオラトリオ「メサイア」の第三部の初めで歌われる有名な聖句です。そこではそれに続いて、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20) と歌われます。

つまり、伝統的な解釈では、「私を贖う方」とはキリストを指すと考えられているのです。

しかしヨブが、そこまで明確にキリストの復活を知っていたと考えることには無理があるとも言えます。ただ、ヨブはこれまでも、「仲裁者」(9:33)、また「神にとりなしてくださる私の保証人」と呼ばれる、神と同等の方の助けを期待していました (16:19、21)。

なお、「贖う」とは「買い戻す」とも訳されることばで、自分の身を売って奴隷になった人の近親者が、代金を払って奴隷主から「買い戻す」という意味で用いられます。

ヨブは自分が「神の敵」とされたように感じていましたが、もとは神の御許しの中でサタンの支配下に置かれ、苦しんだのでした。ヨブはそれを知りはしませんが、自分が滅びに向かう「奴隷」のような状態であることを知っていました。

そこで、ヨブはまず「私は知っている、私を贖う方は生きておられることを」と言いながら、自分がこのような状態から解放されることを期待しました。さらに「私を贖う方」が「地のちりの上に立たれる」ときと、「私の皮膚がこのように剥ぎ取られた後」というときを重ね、苦しみの後で自分が贖い出されるということを期待しました。

そしてさらに、神によってその無実が認められた者として、肉なる存在が仰ぎ見ることができない「神を仰ぎ見る」ことができると期待します。

ここでは「肉から仰ぎ見る (behold)」「自分自身で仰ぎ見る (behold)」「私自身の目がこの方を見る (see)」と、ことばが微妙に使い分けられながら、ヨブ自身が死の支配の力から贖い出され、神を自分の「自身から見る」ということが強調されます。

このようにヨブは、自分自身の肉から、また目から、堂々と神と対話できることを「恋い焦がれ」ていました。

そしてこのヨブ記の結末で彼は、「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」(42:5) と告白されます。しかもそれは、ヨブの身体がなお苦難のただ中にあった状態の中で起きたことです。

多くの人生においては、これは死の支配から贖い出され、復活のからだを与えられたときを指すと思われます。そのことが黙示録では、「神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る」(22:3、4)と描かれています。ヨブの憧れは文字通り叶えられ、私たちはキリストにあって、それをともに体験するのです。

なお19章28、29節でヨブは、自分の友人たちが、自分をあわれむ代わりに、「事の原因はヨブにある」と言って、彼を追い詰めるなら、彼らはそれによって神ご自身を敵としてしまうと警告します。

ヨブは、神を「私の敵」と呼んでいましたが、この復活のビジョンの後には、三人の友こそが「神の敵」となったと描かれ、最後には、神ご自身が「わたしの怒りは(ヨブの友)に向かって燃える」(42:7) と言われることになります。

ヨブは不当な苦しみを受けている中で、後のイエス・キリストの苦難を事前に体験することができました。ヨブの嘆きと、イエスの十字架の嘆きには共通するものがあります。そして、私たち自身も、お金を神としがちな市場経済の中で、不当な攻撃や裏切りによって立場を失うことがあるかもしれません。

しかし、ヨブは自分が置かれている不当な状況を必死に神に訴え、そこで自分が「神の敵」のように見なされていることを嘆きながら、不思議に、自分の正当性を弁護してくださる「私を贖う方」に期待をするようになりました。

不思議にも、神が自分の敵となっていることを嘆きながらも、幼児のように神にすがり、そこで同時に信仰の目を持って神と同等の「贖い主」の存在に期待しました。さらにやがては「自分の目で神を仰ぎ見る」ことまでも期待したのです。

これはすべて、私たちがキリストにある救いによって最終的に体験することです。「私を贖う方は生きておられ (My redeemer lives)、私たちはこの目で神を仰ぎ見るようになるのです。


以下でメサイアのこの部分の音楽をお聞きいただくことができます

今回同時にご紹介したいのは同じように「My redeemer lives 私の贖い主は生きておられる」をまったく異なった観点から歌っているオーストラリアのヒルソング教会の賛美があることです。

ここでは、この部分の解釈としてのキリストの復活によって死の力が砕かれて、私たちのたましいは罪と痛みの支配から解放されたと歌われています

僕はヘンデルのメサイアのこの曲も、ヒルソングのこの曲もどちらも大好きです。

ヨブ記の聖句から、これほど違った曲が生まれる……というのは何とも不思議だと思いませんか。