閉塞感ということばが流行って久しくたっていますが、東日本大震災も新型コロナ蔓延も、逆説的な意味で、日本がその閉塞感の呪縛から解放される契機にもなるのではないでしょうか。
キルケゴールが言っているように、「絶望できるとは、無限の長所」であるけれども、同時に「絶望は、罪」です。なぜなら、「罪」とは「不信仰」に他ならないからです。
今日は、雄弁なカナン人の女の記事をともに味わいます。この女性は、本来、希望を持ちえないところに希望を開きました。私たちはこの女性の信仰から自分の不信仰を示されますが、それを通して私たちが抱くべき信仰の対象の驚くべき広がりを考えたいと思います。
ただし、当時、「カナン人の女」が「ダビデの子」に救いを求めるということは、第二次大戦の前に日本人がアメリカの大統領に救いを求めるような、当時の常識に真っ向から反する驚くべき行動でした。
1.「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」
15章21節には、「イエスは、そこを去ってツロとシドンの地方に退かれた」と記されています。ツロとはガリラヤ湖畔から約50kmばかり北西に行った地中海沿いの町です。
エゼキエル26、27章には、長く繁栄を誇っていた都市国家ツロが、その傲慢さのゆえに神のさばきを受け、廃墟となると預言されており、それが文字通り実現しました。当時は復興が進んでいましたが、イエスはそのさばきのことを11章21、22節でも語っておられます。
またシドンとは、北王国イスラエル、南王国ユダの両方を堕落させた、アハブの妻イゼベルの出身地です。とにかく当時のユダヤ人にとっては、ツロやシドンはのろわれた地方で、そこで福音を語るなどということは想像もできないことでした。
ですからここでは、「退かれた」と記されています。これはリトリートとも訳されることばで、主はこの時、神の国の福音を宣べ伝えるよりは、群衆を避けて、弟子たちとともに静かなときを過ごしたいと願っておられたことを示しています。
マルコの並行記事では、「イエスは……家に入って、誰にも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。ある女の人がすぐにイエスのことを聞き、やってきてその足元にひれ伏した」と描かれています (7:24、25)。
そのことがここでは、「すると、見よ、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び続けた、『私をあわれんでください、主よ、ダビデの子よ。娘がひどく悪霊に憑かれております』と言いながら」(15:22) と描かれます。
マルコの並行記事では、「彼女は……シリア・フェニキアの生まれであった」と記されています (7:26)。つまり、彼女はツロやシドン全体を含む地域の住民であったのです。
とにかくこの女は、昔はダビデ王国の支配下にあった異教の地の出身者で、イエスと弟子たちのリトリートを邪魔する存在と見られました。
そのようなことを背景に、「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った、『あの女を去らせてください。後について来て、叫び続けています』と言いながら」と描かれています (15:23)。
とにかく、イエスがこの女に何もお答えにならない中で、弟子たちも女の「叫び」を聞き続けることが苦痛になり、イエスに「去らせる」ように嘆願するような事態になったのです。
それに対する対応が、ここでイエスは、「答えて言われた、『わたしは遣わされていません、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには』」と描かれています。
この表現は、イエスが十二使徒を指名し、彼らを遣わされるとき、「異邦人の道に行ってはいけません。またサマリア人の町に入ってはいけません。むしろイスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」(10:5、6) と言われたことを思い起こさせます。
なお、エゼキエル書では、「ダビデの子」である救い主が遣わされる目的が、「イスラエルの羊」の中から、「失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける……主 (ヤハウェ) であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる」と記されていました (34:16、24)。
ですから、もしイエスが当時の人々が期待した「ダビデの子」であるならば、その働きはイスラエル王国を復興することであり、「カナン人の女」は「あわれみ」の対象ではなく、支配される側の民に過ぎません。それどころか、この女は自分たちの敵の王に助けを求めたとも言えます。
ただし本来、イスラエルが神の民として召された理由に関しては、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ19:5、6) と記されていました。
最初、イスラエルの民だけに神の契約が与えられたのは、神が彼らに全世界の支配権を与えるためではなく、彼らが「祭司の王国」として、まことの神についての知識を全世界に知らせ、全世界の民を神のみもとに招くためでした。
イスラエルは神と全世界の民との間を取り持つ「祭司」として召されたのです。ですから、救い主の働きは、イスラエルを「祭司の王国」、新しい神の民として回復させ、全世界の人々を創造主のみもとに立ち返らせることにあったのです。そのためイエスご自身と弟子たちの働きは、新しいダビデ王国を築ことにあったということを忘れてはなりません。イエスの十二弟子がすべてユダヤ人であったのは、彼らが新しい神の民、「祭司の王国」となるためだったのです。
2.「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」
イエスがこの女に言われたことは、「わたしは(カナン人であるあなたには)遣わされていない」という拒絶のことばだったのですが、このときにイエスとカナン人の女の位置関係が決定的に変わっています。
これまでこの女は、イエスと弟子たちの「後について来て、叫び続けていた」のですが、イエスはこの女に振り向いて語られたのだと思われます。
その結果が、「しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏した(拝んだ)」と描かれます。イエスのことばは拒絶に聞こえますが、イエスは彼女に振り向いてくださったのです。
当時の律法の教師の慣習に従えば、「カナン人の女」に向き合って会話することなど、あり得なかったはずでしたが、イエスは彼女の訴えに耳を傾け、振り向いてくださいました。その結果、彼女はイエスの前にひざまずいて、「主よ、私をお助けください」と真正面から願うことができました。
先のマルコの並行記事で、「ある女の人が……やってきてイエスの足元にひれ伏した」(7:25) と記されていたのは、このようにイエスがカナン人の女に振り向いた結果のことが描かれていたのです。旧約においてはカナン人との分離が強調されていましたが、イエスはカナン人の女と対話をされたということが何よりも驚きです。
そこで「イエスは、答えて言われました」、「これは良くないことですよね、子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやることは」と、記されます (26節)。
マルコの並行記事では、このことばの前に「まず子どもたちに満腹させなければなりません」(7:27) と言われたことが記されています。とにかくイエスは、イスラエルの民をご自分の「子どもたち」と呼びながら、ご自分の使命が何よりも「イスラエルの家の失われた羊たち」の必要を満たすことにあると、改めて強調したのです。
その際、まるでパンに限りがあるかのように優先順位のことを言われました。たしかにイエスは男だけで五千人の大群衆にパンを与え、多くの人々の病を癒すことができましたが、イエスは私たちと同じひ弱な肉体を持っておられました。そのためイエスはこのとき敢えて、異邦人の地域に退くことによって休息する必要を感じておられたのです。ですからこのことばは、イエスの短い地上の生涯の中で、イスラエルの民の必要を優先する必要を述べたことばと言えます。
ただ同時に、当時のユダヤ人は異邦人を、「犬」と呼んで軽蔑しましたが、イエスは彼女を「小犬」にたとえます。当時、犬は豚と並んで軽蔑された動物でしたが、「小犬」ということばには優しさが込められています。
ルターはそれを、「表面的な否定のことばのうしろに肯定のことばが隠されている」と言いましたが、イエスのことばのトーンには、彼女の応答を引き出す優しさが感じられたのではないでしょうか。
あるユダヤ人のクリスチャン聖書学者は、ここにイエスのユーモアが隠されているとも言います。そこには、「もし、わたしが、あなたが呼んだように『ダビデの子』、イスラエルの牧者であるなら、わたしは、あなたにではなく、イスラエルの失われた羊に遣わされているはずだよね。それでも、わたしを『ダビデの子』と呼ぶのかな?」というニュアンスだったというのです。
とにかく、このカナン人の女は、イエスの側には自分を助ける理由はないことを十分に認識しながら、なお、必死にイエスにすがっています。イエスは、彼女が自分の立場を十分にわきまえながら、なお不可能にチャレンジするように訴えているという、その気持ちを受け止め、さらに隠された彼女の信仰を引き出すような発言をしたのだと思われます。
なおこのときのイスラエルの民がどれほど大きな神の救いを必要としていたかをエゼキエル37章から見ることができます。
そこで神はまずこの預言者に、「その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた」という情景を見せます (2節)。
そこで主はさらに、「これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く……わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る』」と言われました (11-14節)。
つまり、ダビデの子であるイエスの使命は、イスラエルを神の民として回復させ、彼らに神の霊を注ぐことにあったのです。
イスラエルの民は神の契約を裏切り、国を失い、干からびた骨のように無用の存在に落ちていました。イエスが現れたのは、そのようなイスラエルの民を再び生かすためでした。
私たちも「干からびた骨」のように、望みを失っている場合があるかもしれません。そのときに必要なのは、自分が神に喜ばれる存在であるということをアピールすることではなく、この女のように「主よ、私をお助けください」とイエスに言ってすがりつくことに他なりません。渇きを感じない人に水を飲ませることはできないからです。
なお、預言者エゼキエルはこのとき、神の命令に従って預言すると、「ガラガラと音がして、骨と骨が互いにつながった……その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった」(7、8節) という不思議なことがおきます。
しかし、それでも「その中に息はなかった」という中で、「息よ、四方から吹いてこい。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ」とさらに預言されます (8、9節)。その後のことが、「すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった」と描かれます (37:10)。
イエスの復活と聖霊降臨からキリストの教会が生まれることは、この預言の成就です。一度に三千人が救われた最初のペンテコステの日の集会に集まっていたのは基本的にみなユダヤ人ばかりでした。確かに改宗者もいましたが、彼らはユダヤ人の一部となっていました。
つまり、それはユダヤ人が聖霊によって新しく生まれ変わり、新しい神の民となった時なのです。そこに異邦人が、後には割礼も受けず、食物律法を守ることもなく、そのままで「神の民」として接ぎ木されることになります。それが現在の教会につながっています。
イエスによって新しくされたユダヤ人の集会こそが教会の原点です。その意味でイエスは確かに「イスラエルの家の失われた羊たち」に遣わされていたのです。
3.「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」
そして、この女は、イエスがイスラエルの牧者という枠を超えた救い主であることを、どういうわけか直感的に認識していました。 それで、女は、「主よ。そのとおりです」と答えながら、すぐに「ただ、小犬でも食べています、その主人の食卓から落ちるパンくずは」と言いました (27節)。
ここで興味深いのは、この女は、イエスにまず、「主よ(ご主人様)」と呼びかけながら、小犬がその主人の食卓から落ちるパンくずは食べますということで、イエスを自分の主人に位置付けています。そして自分をその主人の「小犬」の地位に置くことで、イスラエルの民に与えた残りのパンくずを食べることは極めて自然であると主張しています。
先にイエスが男だけでも五千人の大群衆にパンを与えたとき、そのパンくずを集めただけで十二のかごがいっぱいになりましたが、この女は不思議にも、イエスがイスラエルの民の救い主としての働くことから生まれる「パンくず」の多さを理解していました。
イエスはイスラエルの王として、旧約におけるイスラエル預言を成就しましたが、そこから新しい異邦人への救いが始まりました。この女は、イエスのそれまでの働きを聞きながら、それを理解したのです。
当時のユダヤ人は、新しい「ダビデの子」としての救い主が来たら、イスラエルがローマ帝国の代わりにユーフラテス川以南の広大な約束の地を支配するようになり、そのとき異邦人たちは奴隷のようにイスラエルの民に仕えると期待していました。
しかし、この女は、新しいダビデの子は異邦人を奴隷にする王ではなく、異邦人にも恵みを施してくださる全世界の王であることを認めたのです。これは当時のユダヤ人の誰も期待していなかったほどの大きな福音理解でした。
それにイエスは感動して、「女の方、あなたの信仰は偉大です(立派です)。あなたの願うとおりになるように」(28節) と言われました。イエスはこの女の人が、ユダヤ人さえ思い巡らしていなかったダビデ王国の偉大さを理解したことを高く評価してくださったのです。
そしてその結果が、「彼女の娘はそのときから癒された」と描かれます。これは、「あなたの願うようになるように」と言われたイエスのご意思がすぐに実現したという意味です。イエスは彼女の娘に手を置くなど、何かをしたわけでもありませんが、イエスのことばが、まるで、「光、あれ」と言われて光を創造された神のように、世界を動かしたのです。
たとえばイエスはユダヤ人の会堂管理者ヤイロの娘の病を聞いたときには、彼の家をわざわざ訪ねました。しかし当時のイエスが異邦人の家に足を踏み入れることなどしたら、それこそ大きなスキャンダルになります。そのような問題を起こすこともなく、この異邦人の娘は癒されました。
その様子が、マルコの並行記事では、「彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた」(7:30) と記されています。
カナン人の女は、本来、希望がないと思えるところに希望を求め続け、その信仰を評価していただけました。罪とは、神と自分に絶望することです。神には自分を変えることなどできないと絶望することです。その点で、カナン人の女が、当時の人々の期待の枠を超えたはるかに大きなことをイエスに期待できたことは本当にすばらしいことです。
一方、私たちは彼女の信仰のすばらしさを見て、かえって自分の不信仰に悩みますが、信仰は自分で生み出せるものではありません。それは、「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのみことばを通して実現するのです」(ローマ10:17) と記される通りです。
私たちは人の信仰の立派さを、その人の言動に現れる品性とか、堅い信念のような心のありかたに見ようとします。しかし、このカナン人の女は、イエスと弟子たちが静かに休みたいと思っておられることにも配慮ができず、また、ひとこと願ったらそれがイエスに心に届くということも信じられず、ただただ、「叫び続け」ました。イエスの弟子たちの誰が、この女の信仰を称賛することがあり得たでしょう。
この女の人の信仰の偉大さとは、イエスがダビデの子であることを認めた上で、そのダビデの子によって始まる国がどれほど豊かなものであるかを理解したことにあります。
この女は、イエスが始まる「神の王国」では、その主人と子どもたちの食べ残しのパンくずでさえ、周辺諸国の人々を養うことができるということを信じたのです。
最近、オバマ元大統領が書いた回顧録が出版されました。そのタイトルのもととなったのが、There’s a great camp meeting in the Promised Land という黒人霊歌で。次のように歌われます。
「疲れはしないか?約束の地では偉大な集会が開かれる。叫べ 、諦めてはならない。叫べ、諦めてはならない。子どもたちよ、準備はできているか。疲れはしないか、イエスが来てくださるのだから」
トランプ前大統領誕生の背景には、オバマさんの政策に大きな不満を持ったアメリカ人が驚くほど多かったという事情がありましたから、彼を美化するつもりはありません。
しかし、彼はその本の最初に、「アメリカの歴史を調べれば明らかなように、この国ではいつも、征服と奴隷支配、人種カーストと強欲資本主義が理想より優先されてきた」と記しながら、「この本は招待状だ。世界をもう一度つくりなおし、努力と決意と豊かな創造力によって、私たちの理想と違わぬアメリカを実現する旅にぜひ参加してほしい」と書いています。
英語のタイトルは、the(その)ではなく、一つのという意味での「A Promised Land」となっています。それは、オバマさんが性急な理想を掲げて戦いを加速する代わりに、一歩一歩、問題の解決に近づこうとした政治姿勢を表しています。
今日の箇所で、イエスはカナン人の女を退けるようなことばを言いながら、彼女の願いを叶えました。そこにはイスラエルの民の再生というプロセスを経て、全世界に神の平和を実現するという、段階的な救いの計画が明らかにされていました。
私たちは今、全世界が神の平和(シャローム)で満たされる世界を待ち望んでいます。イエスの再臨のときその理想が実現します。しかし、そのまえには、現実の苦しみの中で、諦めることなく叫び続けるというプロセスがあります。
そしてイエスはそのような叫びに耳を傾け、あなたの目の前の問題の解決を最終的な約束の地の一里塚にしてくださいます。