私たちは小さいころから、「誠実さは報われる」と教わっています。ですから、「道徳と経営は合一すべきである」と説いた渋沢栄一の物語などが励ましになります。それを単なる理想と斜に構えていては人生の喜びを失います。
しかし、人類の歴史では、驚くべき不条理がまかり通った時代も限りなく多くあります。ヨブは、誰よりも誠実に生きながら、誰よりも不条理な苦しみに合い、しかも、友人から嘲りを受けました。しかし、彼はその絶望のただ中で、天の「とりなし手」に憧れ、また常識を超えた「希望」を見ることができました。
1.「彼が……全能者に対して尊大にふるまい、その方に向かって突き進むからだ」
15章1節も「答えた、テマン人エリファズが、そして言った」と記されます。エリファズとは、4、5章で記されていたように、最初にヨブの信仰の姿勢を、神から特別に与えられたという「知恵」によって正そうとした友人です。
2節は、「知恵のある者は、風の(むなしい)知識によって答えるだろうか。また、東(ひがし)風で腹を満たすだろうか」と記されますが、イスラエルの地での「東風」は、破壊的な力の象徴でもあります。エリファズはヨブのことばを、当時の支配的な価値観を揺るがす破壊的なものと断定しました。
さらにヨブの話しを「無益なことば」また「役に立たない議論」と呼びました。そればかりか、ヨブが「(神への)恐れを無用なものとし、神の御前での黙想(祈り)をおろそかにしている」と断罪しました。
そしてその理由を、ヨブの「咎」が彼の「口に教え」、彼自身が「悪賢い人の舌を選んでいる」と説明しました (5節)。ヨブがそのように愚かな考えに動かされているという事実は、ヨブの「口」、また「唇」が何よりも明らかにしているというのです (6節)。
確かに、ヨブのことばは、神を恐れる敬虔な心を無用と言っているようにも聞こえます。なぜなら、ヨブは、神のなさることに善悪の判断はつけがたく、神はわざわいの創造者であるということを繰り返し語っているからです (9:5-10、12:14-25)。それでは「神を恐れ」、御前で「黙想」する健全な理由を失わせることになります。
しかし最近、マインドフルネスという黙想の方法が流行っているように、目の前の出来事に善悪の判断をつけずに、あるがままにそれを受け止める訓練を積むことは、一見、信仰の土台を揺るがすように見えても、そこに神の働きのスペースを広げることになります。
多くの人は「黙想」を信仰を成長させる手段?と見ていますが、それからするとヨブがしてきた神に食ってかかるような態度は、健全な黙想とは見えなかったのだと思われます。
しかし、自分の信仰を成長させようと自意識過剰になること自体が、健全に「神を恐れる」という神が創造した信仰ではなく、人間のわざとしての信仰を考える空しい行いなのかもしれません。
その上でエリファズは7-10節で、ヨブが「知恵をひとり占めにしている」かのように自分を誇り、三人の友人のことばを軽く見たことを非難します。そのような文脈で、11節の「神の慰めは、あなたに不十分なのか。あなたに対して優しく語られたことばは」とは、三人の友人が、神の前に遜る者には豊かで平安な将来が約束されていると、極めて建徳的な希望を語ったことを指しています。
しかし、ヨブはそれらの希望に満ちた言葉を、自分には当てはまらないものと捉え、彼らに反論しました。そしてエリファズはその激しいヨブの反応を見て、「なぜあなたの心は取り去られたのか。なぜ、あなたの目はぎらついて(目が大きく開かれて)いるのか、あなたが神に向かって苛立ち、口からあのようなことばを吐くとは」(15:12、13) という驚きのことばを口にしています。
しかし、14-16節のことばは、エリファズが4章17-19節で、神から与えられた知恵として語っていたことと基本的に同じ意味です。それは、神の厳しい基準からしたら、人間にはさばきを受ける正当な理由があるという趣旨です。つまり、エリファズの心にはヨブの反論のことばは届いておらず、エリファズはヨブの反論自体を聞いて、彼が正常な判断力を失ってしまっていると断定しているのです。
その上でエリファズは、「先祖には隠されなかった」「知恵」を教えると言います。19節ではまず、先祖だけにこの地が与えられ、他国の攻撃からも守られるという「祝福」を語りながら、その対比で20-24節に描かれた神からの「のろい」が記されます。これは申命記28章15節以降やレビ記26章14節以降に描かれていることの要約のように見えます。
特にレビ記では、神との契約を破る者に対して、「あなたがたは自分の敵にうち負かされ……追う者がいないのに……逃げる。もし、これらのことが起こっても、あなたがたがなおもわたしに聞かないなら、わたしはさらに……七倍重く懲らしめる」(17、18節) という厳しい、終わりの見えない「さばき」の警告が記されています。
それは、この20節での、「悪しき者は一生もだえ苦しむ。横暴な者にはある年数がたくわえられている(隠されている)」という終わりの見えない恐怖を指しています。
15章21-24節には、「その耳には恐ろしい音が聞こえ、平和なときにも……いつも剣につけ狙われ……闇の日が間近に用意されている……苦難と苦悩が彼をおびえさせる」という日常的な恐怖にさらされるようすが描かれます。
それこそ、先のレビ記26章の核心で、そこでは続けて「あなたがたのうちで生き残る者にも……心の中に臆病を送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ……追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる……あなたがたは敵の前に立つこともできない」(36、37節) と記されます。
これは現在、多くの人々が新型コロナに感染ることに怯え、なすべきことができなくなっていることにも適用できるかもしれません。
最後のことばは、「あなたがたはコロナの前に立つこともできない」と言いかえると現実的に聞こえます。しかし、人それぞれの感性は異なりますから、臆病を神のさばきと捉えることには注意が必要です。
25、26節には、そのような恐怖に圧倒される理由が、「彼が神に対して手向かい、全能者に対して尊大にふるまい、その方に向かって突き進むからだ、かたくな(頑固に)に、分厚い盾を取りながら」と描かれます。これはまさに、ヨブが「この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う」(13:3) と言ったような態度を、「全能者に対して尊大にふるまう」傲慢な姿勢と非難していることと思われます。
そして、27-29節には、「顔を脂でおおい、腰の周りを脂肪で膨れさせる」という豊かさを謳歌していた者が、「瓦礫の山となるところに住む……自分の財産も長く持たず……収益は地に広がらない」と描かれますが、これは繁栄を極めていたヨブの没落を婉曲的に描くような表現です。
エリファズはこれによって、ヨブが神の前に遜り、自分の傲慢さを神に謝罪するように仕向けているのでしょうが、それは本当に正しい聖書解釈なのでしょうか。
レビ記26章も申命記28章も、神がイスラエルの民と「契約を結んだ」という文脈の中で警告されている神のさばきです。当時のすべての「契約」においては、契約の守る者への「祝福」との対比で、契約を軽んじる者への厳しい「のろい」が警告されていました。
そこでの「さばき」とは、神が一方的にイスラエルの民に与えた特権との関係で記されていることです。それは特別な恩恵を受けることの代償とも言えます。しかし、ヨブは神との契約の中で繁栄を享受していたわけでも、事前に、そのような「のろい」の契約を警告されていたわけでもないのですから、ヨブの苦難を、神に逆らったことへの「さばき」と理解することには無理があります。
これは私たち異邦人のように、神との契約を知らなかった人すべてに適用できます。たとえば、新型コロナは神の御支配の中にありますが、それを契約を破った者への「さばき」と見ることはできません。
2.「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に」
16章からヨブの応答が続きますが、2節で彼は友人たちを、「あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ(共同訳「あなたがたは皆、慰めるふりをして苦しめる」)」と呼びました。友人たちは確かにヨブを必死に「慰め」ようとしているのですが、それが彼の気持ちをさらに「みじめに」して行くというのです。
3節の「益にならないことば」「役に立たない論法」とは、ヨブを「みじめに」したエリファズなどのことばを引用した文章として解釈できます。それは特に15章2、3節でのエリファズがヨブを嘲ったことばの要約とも言えましょう。
4節は、ヨブの友人たちが彼と同じ不条理に会った場合を仮定し、ヨブは彼らをもっとうまく慰めることができたはずと言います。そこでの「頭を振る」は、批判というより、痛みに共感する動作と解釈できます。
ヨブは自分が彼らの立場にあったとしたら、苦しむ人を「強くする」、真の慰め手になったはずと言いました。
6節後半は共同訳で「語らず忍んでも」と意訳されるように、自分の痛みの状況を「語る」こともまた「忍んで(沈黙する)」ことも何の解決にもならなかったという告白です。
そして7節では、原文で「神」という主語はなく、「まことに今、彼は私を疲れ果てさせました」と言いながら、すぐに神に向かって「あなたは、私の仲間を荒れ果てさせました(共同訳は「あなたは私の仲間との友情をことごとく壊しました」と意訳)」と訴えました。
さらに8節は、「あなたは私をつかみ証人とされました。このやせ衰えた姿が私に向かって立ち上がり、私の顔に向かって答え(不利な証言をし)ます」と訳すことができます。
そして9節は自分の惨めな姿が、神の攻撃の証しとなっているという意味で、「彼(神)は激怒して私を攻め立て、私に向かって歯をむき出される」と言われます。
これは哀歌3章10、11節での「主は、私には待ち伏せる熊、隠れたところにいる獅子、主は私を道から外れさせ、私を引き裂き、無残な姿にされた」という記述と重なります。ただ、哀歌は、イスラエルの民が神との契約を破ったことに対する「さばき」として、レビ記26章、申命記28章の預言が成就したこととして描かれていることに対し、このヨブ記では、ヨブは自分が苦しみに会う理由を納得できずに、ただ、神が自分の敵となって、自分を苦しめていることの詩的表現として、神の攻撃が描かれています。
16章9節後半の「私の敵」は単数形ですので神ご自身を指します。これは驚くべき表現ですが、ヨブの友人または周りの人たちが、神に動かされてヨブを攻撃するという意味で、「私の敵は私に向かって目を鋭くする。彼らは私に向かって大きく口を開け、そしりをもって私の頬を打ち、こぞって私を攻める」と記されます。
そして11節では、ここで初めて「神」という主語を明確にし、「神は私を不遜な者に引き渡し、悪しき者の手に投げ込まれる」と言われますが、この「不遜な者」「悪しき者」は単数形ですから、ヨブの友人たちを指すというよりも、身近な人全般を指すとも言えます。
さらに12節では、「私は平穏でいたのに、彼は私を引き回し、首筋をつかんで粉々にし、標的とするために立たせた」と、その主語が神か人か分からない表現とされています(共同訳は「彼」という主語で訳している)。
そして13節は「彼の射手たちは私を包囲した。彼は私の腎臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した」と記され、14、15節も神による攻撃か人からの攻撃かが不明な表現になっています。ただ11節に記されたように人々の攻撃の背後に神がおられます。
16章16節でヨブは、「私の顔は泣きはらして赤くなり、まぶたには死の陰がある」と自分の状況を描写します。
そして17節では「私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよいのだが」と、自分がこのような仕打ちを受ける謂れがないということを主張します。これこそヨブが訴えたいことの核心とも言えましょう。
そして18節では、地に向かって祈るように「地よ、私の血をおおうな。私の叫びに休み場がないようにせよ」と訴えます。それは自分の叫びが「天」に届くことを願ってのことです。
そして、19-21節では「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなして(主張して)くださいますように。人 (アダム) の子が、その友のためにするように」と、ヨブは告白します。
これは極めて不思議な表現です。ヨブにとっての祈るべき相手は神ご自身に他なりません。ところがヨブは、9章33節で「仲裁者」をイメージしたように、ここでも、自分を謂れもなく攻撃する神に「とりなして」くださる、神の仲間のような方をイメージしています。それは、地には自分の真の友、自分の証人、保証人もいないことの中から生まれた憧れです。
ヨブには、神の右の座に立つキリストのような存在を知ることはできませんが、神ご自身が自分を攻撃する不条理を必死に訴えている中で、そのような、神の右の座に立つ「とりなし手」を思い浮かべ、憧れるようになったと言えましょう。
それは、ヨブが圧倒的な神の御支配と自分の不条理に真正面から向き合った結果です。
ヘブル人への手紙では、「天におられる大いなる方の御座の右に座し、聖所で仕えておられる」(8:1、2)、「大祭司イエス」のことが記され、「イエスは、人々を完全に、永遠に救うことがおできになります、ご自分によって神に近づく人を。それはこの方がいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」(7:25) と記されています。
神は唯一であるということしか知らなかったユダヤ人が、ヨブが抱いた憧れを通して永遠の大祭司イエスを知るようになりました。ヨブ記の中にヘブル書の信仰の蕾が見られます。
3.「もし、私がよみを私の住まいとすること、また闇に自分の寝床を広げることを待ち望むなら」
16章22節の「数年もたてば、私は帰らぬ旅路につく」ということばは、17章1節の「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私には墓場があるだけです」という絶望感の告白につながります。
さらに17章2節では自分の友を「嘲る者」と呼び、「彼らの敵意の中で夜を過ごします」と言います。そしてその上で、また不思議にも、「どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか」と願います (17:3)。
地の上では、自分が友の嘲りの対象とされ、また天の神からは目の敵にされていると感じながら、なお、天の御座において、自分の無実を「保証し」、自分の無実を「誓ってくれる人」が与えられることを、神に願っています。これは先の16章19-21節の延長の上にあります。
17章4節では、友の嘲りに関して、神ご自身が「あの者たちの心を賢明さから引き離されました」と、それも神のみわざであると認めます。その上で、「ですから、あなたが彼らを高く引き上げられることはありません」と、彼らが神に喜ばれることはあり得ないという確信を述べます。
さらにヨブは、「分け前を得るために友の告げ口をする者。その子らの目は衰え果てる」(17:5) と言います。これは自分の社会的な立場を守るために、友を裏切るような者のことで、自分の罪を告発する者に神のさばきが下ることを意味します。
そして6節の主語は原文では、「神は」ではなく「彼は」となっており、先に描かれた「友の告げ口をする者」のせいで、「私が人々の笑い者とされ、顔に唾される者となった」ということを、「神に」訴えています。
そして自分の悲惨をさらに「私の目は苦悶でかすみ、私のからだはどこも影のようだ」と描きます。
17章8、9節は皮肉のことばとも捉えられることがあり、解釈が非常に困難です。ただ素直に読むと、「心の直ぐな人」は、ヨブが受けた不条理に「驚き恐れ」、「無実(潔白)な者」は、友を売るような「不敬虔な(神を敬わない)者に憤る」という当然の反応が記されているとも言えます。
そのような中でヨブは、このような不条理にも関わらず、自分の確信として「正しい人は自分の道を保ち、手のきよい人は強さを増し加える」と告白し、「この悲劇的な暗闇を突き破るロケットのようであった」と解釈することもできます (デリッチ p300)。
そのような中でヨブは、友人に回心を迫るように、「だが、あなたがたはみな 帰って来るがよい」と呼びかけ、同時に、「私はあなたがたの中に、知恵のある者を一人も見出さないだろう」という皮肉も述べます (17:10)。
その上で、彼らが言うところの「神の慰め」(15:11) という希望が、自分には当てはまらないということを11節からさらに語ります。それは、神の前に遜り、神の赦しを求めたら、「あなたは自分の子孫が……地の青草のように増えるのを知る。あなたは長寿を全うして墓に入る」(5:25、26) というエリファズの知恵のことばが自分にはまったく当てはまらないということを主張するためです。
これ以降のヨブの告白は、先の希望から一転、暗い絶望へと変わっています。これこそ、ヨブ記の難しさであると同時に面白さです。
11節でヨブは、「私の日は過ぎ去り、私の企ても砕かれた、私の心に抱いたことも(心の願いも)」と記されます。
そして、12節でヨブは、友人たちの楽観的な展望を「夜は昼に変わり、闇のあるところに光が近づく」という表現で引用します。それに一番近い言葉は、11章17,18節でツォファルが語った、「あなたの一生は真昼のように輝き、闇も朝のようになる。望み (ティクバ) があるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む」ということばかと思われます。
それに対して、ヨブは、この苦しみから逃れるために、早く死ぬことばかりを願わざるを得ない気持ちを告白します。それが、「もし、私が待ち望むなら、よみを私の住まいとすることを、また闇に自分の寝床を広げることを、そして、その穴に向かって『あなたは私の父』と言い、蛆虫に向かって『私の母、私の姉妹』と宣言するなら、いったいどこに私の望み (ティクバ) があるのか、どこに私の望み (ティクバ) を目にするのか。それらがよみの戸口に下ったとしても、私たちがともに、ちりの上に降りたとしても」(13-16節) と述べています。
これは、ヨブが現実に「待ち望んでいる」、死後の世界である「よみ」に、ツォファルが言ったような「望み (ティクバ)」を見出すことはできないという意味です。当時の人々は、死後の復活を生きた希望として見ることができなかったからです。
しかしここにも逆説的に、ヨブの絶望感から生まれた「希望」への憧れが記されています。それは彼が14章14節で、「人は死ぬと、また生きるでしょうか」と、終わりの日の復活に「希望」を見出そうとして、それに憧れを抱いていたということに結び付きます。
第二次大戦のドイツ占領下で、アウシュビッツのガス室に送られるユダヤ人は「」(希望)という曲を皆で歌いだし、ナチスの親衛隊に鞭打たれても続けました。それは19世紀のウクライナで作られ、ユダヤ人が約束の地で自由に暮らす「希望」を歌ったもので、現代のイスラエル国歌になります。
心の奥底で、ユダヤ人のたましいが憧れている、
東の岸へと、その目がシオンへと向けられている、
私たちの希望(テイクバ)はまだ失われてはない
その希望(ハ・ティクバ)とは二千年来のもの、
それは私たちの土地で自由な民となること
シオンとエルサレムの地におい」 (私訳)
ヨブ記を読んでいるユダヤ人は、徹底的に不条理で、絶望的な死を前にして、そのあとの「希望」を歌うことができました。それは、キリストにある復活を知らないまでも、ヨブの「憧れ」を共有していたからかもしれません。それが現代のイスラエルを建国する原動力になりました。
一方、私たちは、人間イエスの復活と、天における大祭司イエスのとりなしを、聖書の記事から明確に知ることができています。ヨブが憧れとして語った夢が、イエス・キリストにおいて現実のものとなりました。ですから私たちは、どのような不条理な苦しみにあったとしても、「希望」を抱き、恐れに圧倒されることなく、神のみこころに従うことができます。
しかも、私たちは恐怖に襲われても、天の大祭司による慈しみに満ちた「とりなし」にすがることができます。それは、「私たちの大祭司は私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みに会われたのです」(ヘブル4:15) と記されているからです。