マタイ15章1〜20節「口に入る物より、心から出るものが人を汚す」

2021年2月21日

イエスは、「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚す」と、不思議なことを言われました。それを聞いたある人が冗談に、「クリスチャンは、酒は良いけど、タバコはだめなのですね。だって、酒は口から入るけど、タバコの煙は口から出るから……」と言いました。

多くの宗教には何らかの戒律があります。イスラム教では豚肉を食べずお酒も飲みません。モルモン教徒はカフェイン飲料を飲みません。それは異教徒のとの区別を明らかにして、信仰共同体の一致を保つ上で大きな力となります。

正統的なキリスト教会では戒律や規則のようなものはありませんが、ときにこの世の常識との分離をどのように明確にするかが課題になります。しかし、分離をルール化したとたん、別の問題が生まれます。

イエスに敵対したパリサイ派の名前の由来は、「分離された者」という意味です。そして、分離を強調すると、しばしば、イエスが非難した偽善の問題が前面に出てきてしまいます。

それよりもイエスは、自分の内側から汚れが広がるということ言われました。の根本は、心の方向にあることを忘れてはなりません。

1.「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか」

そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った」(1節) と記されますが、これはイエスを求める人々がガリラヤ湖畔に多数集まってきていたときのことです。当時の宗教指導者たちの多くはエルサレムに住んでいましたが、未開のガリラヤ地方で何が起こっているかを調べるために下って来ました。

そこで彼らはイエスの弟子たちの粗野な生活習慣を見て、なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。彼らは手を洗っていません、パンを食べるときに」(2節) と非難しました。それは何かスキャンダルを発見したかのような驚きでした。

ただし、それは私たちが思うような衛生的な手洗いではなく、宗教的な「きよめ」の儀式を経ていないという意味でした。

マルコの並行箇所では、「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることがたくさんあった」(7:3、4) と記されます。

そこでの「よく洗う」の「よく」とは原文で「こぶしで」と記され、特別な洗い方を示しています。それは、次のような方法だったと言われます。

「水はきよめられた石の器に入ったものを用います。一回に使う水の量は卵一個半程度です。まず指先を上にして手を差し出し、他の人に上から水を注いでもらい、そのしずくが手首から落ちるのを確かめます。それは、汚れた水が再び手を汚すことがないようにするためです。その後、一方の手を握ってこぶしにし、他方の開いた手とこすり合わせ、同じ動作を手を入れ替えて行い、最後に手の指を下に向けて水を注いでもらいます。」

たとえばレビ記には、「聖なるものと俗なるもの (common)……汚れたものときよいものを分け……」(10:10) という分離の教えが記されていましたが、当時のパリサイ人はそれを日常生活に適用する「きよめ」の手続きを明確にして、民を指導していました。

それが「言い伝え」(ハラカー)という口伝律法としてまとめられていました。そしてそれが垣根のように本来の律法を取り囲むことで、口伝律法の規定にさえ従っていたら、神の教えに反することにはならないという安心感を与えていました。

日本でも葬儀の際の塩を初め、冠婚葬祭の際の様々なしきたりがあります。多くの人はそのような慣習が生まれた経緯を知らずに、形だけを整えようとする傾向がありますが、同じことが、聖書を信じる人の集まりでもなされることがあります。

というアメリカのクリスチャン・ジャーナリストは南部のバイブルカレッジでの1960年代後半の生活を次のように記しています。女子学生には厳格な服装の規定があり、スカート丈は膝下と決まっていました。ときに学部長の助手が違反者を探し回り、ものさしでスカート丈を測ることもありました。

また、異性どうしは、手をつなぐこと、抱擁、キスやその他の肉体的接触は絶対に避けなければならないと、聖書の66巻をまねた66頁もある規則本には記されていました。

下級生は週に二回だけデートが許されましたが、二回とも同じ相手ではいけないとか、ダブルデートでなければいけないとか、そのうち一度は日曜の夜に教会に行くことでなければならないとか、カフェテリヤで近づきすぎないようにとか、様々な規定がありました。

そして、学生たちは自室でのみ、「キリスト教の証しと一致する」音楽をかけることが許されていました。もちろん、ビートルズを聞いたり、彼らを称賛するような発言をしたら、信仰の道から堕落をした者として軽蔑されました。

彼らの多くは聖書を真剣に読んでいたのですが、その行動や考え方は、イエスと激しい対立関係にあったパリサイ人と限りなく近くなって行ったように思われます。

ただし、イエスの時代、パリサイ人たちはユダヤ人社会では、人々の尊敬を集めた模範的な市民でした。使徒パウロが最高の聖書教師でありながら、同時に、自分の生活費を、テント作りをしながら稼いだという生き方は、パリサイ人として訓練を受けた成果です。

パウロはガマリエルという当時最高のパリサイ派教師から訓練を受けていたからこそ、キリストに出会った後に、様々な試練に耐えながらキリストにある正しい聖書解釈を教え続け、また何にも代えがたい宝物の手紙を残すことがでました。

私たちは、この社会で模範的な生活ができる、そのためならば、もっとパリサイ人の生き方から学ぶべきかもしれません。しかし、現実にはパリサイ人たちとイエスの関係は驚くほど敵対的なものになります。それはなぜでしょう。

2.「なぜ、あなたがたは、神の戒めを破るのですか、自分たちの言い伝えのために」

3節は、「そこでイエスは答えて、彼らに言われた」ということばから始まります。興味深いのは、イエスは、彼らの「なぜ」という質問に対して、別の「なぜ」という問いかけをすることによって当時の宗教指導者に応えようとしているということです。

それは、「なぜ……言い伝えを破るのか」という質問に対する最も効果的な答えは、彼らの「言い伝え」の矛盾を指摘することだからです。

これは、私たちが他の人から何らかの攻撃的な指摘を受けた時に、大変参考になる神の知恵です。イエスは弟子たちを世に派遣するにあたって、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(10:16) と言っておられました。

そこでイエスは、「なぜ、あなたがたは、神の戒めを破るのですか、自分たちの言い伝えのために」と質問しました。イエスはここで、パリサイ人たちは「言い伝え」を守るために、それよりはるかに大切な「神の戒めを破っている」と、彼らを怯えさせるような反論をしました。

そこで続けてイエスは、彼らが破っている「神の戒め」として、「あなたの父と母を敬え」、また「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」を上げました。

これこそ「十のことば」の根幹と見られますが、イエスは、パリサイ人たちが「言い伝え」の具体的な適用を指導することで、この神の命令の根本をないがしろにしていると反論したのです。

彼らの「言い伝え」によると、「だれでも父または母に向かって、私からあなたのために差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、その物を持って父を敬ってはならない」と命じるという不思議な矛盾が起きているというのです。マルコによると、両親に差し上げるべき物に対して「コルバン」と宣言することで、それが「(神への)ささげものに変えられるプロセスだったとのことです。

これはたとえば、ある人の年老いた親が、生活費の援助を求めてきたようなとき、「お父さん、残念ながら、このお金は神へのささげものとして聖別していますから、もう私の自由にはならないのです」と言ってしまうようなことでした。

理屈から言えば、神に対する約束は、親に対する約束に勝ります。しかしそのような二者択一が問われる時点で、基本が神の教えからずれています。心の動きから言うならば、神を崇めることと親を敬うことには何の矛盾がないばかりか、その二つは車の両輪のように進むものです。

しかし、現実には、この「コルバン」という宣言が言い訳になって、親を助けないことが正当化される事態が生じてしまったようです。

そのことをイエスはここで、「こうして、あなたがたは、神のことばを無にしてしまいました、自分たちの言い伝えのために」と非難しています (6節)。多くの「言い伝え」は現実の生活の中から、心の葛藤を軽減するために作られてきたとも言えましょう。

たとえば、「父と母をどのように敬うべきか、神から与えられた目の前の仕事との関係で悩んでいる……」という心の葛藤を抱くことは極めて健全なことです。その悩みの中から神への真剣な祈りと、親を助ける道が開かれます。

しかし、もし誰かが、年老いた親が困窮しているという現実を前に、「私には優先すべき神への責任があるから、親に仕えることはできません」などと言うことが正当化されるとしたら、だれがそんな人を信頼できるでしょう。そんな居直りは許されません。

その上でイエスは、7-9節で、「偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています」と言いながら、イザヤ29章13節のことばを、「この民は、口先唇)ではわたしを敬う。しかし、その心はわたしから遠く離れている。そして、空しく、わたしを礼拝している、人間の戒めを、教えとして教えていながら」と引用しました。

イザヤはその文脈で、イスラエルの民の心が神から遠く離れ、みことばを求めようとしなくなったことへのさばきとして、ご自身のみことばを彼らの前から隠し、彼らを破滅に追いやると語っています。

そして、イエスの時代のパリサイ人たちは、日々の生活の仕方を細かく記した「言い伝え」を教えることに熱心でした。そこでは、神の教えを思い巡らすことよりも、人間の教えを実生活に適用することばかりが優先されるようになっていました。しかし、そこに生まれたのは、心の伴わない空しい礼拝でした。

私たちの教会では、聖書全体の内容を深く味わい、一人ひとりが自主的に神の愛に応答するという自主的な行動の変化を大切にしています。一方、具体的な日々の行動の指針を提示することが少なく、戸惑いを覚える人も多いかもしれません。しかし、それは、人間の戒めではなく、神のみことばによって教えられるべきという基本を徹底したいからでもあります。

先ほどの米国南部のバイブルカレッジの規則を守っているような人々が、しばしば、自分たちの枠にはまらない人々を軽蔑していました。しかし、人を軽蔑することと、スカートたけの規則を破ることと、どちらが神の前に重い罪なのでしょう。

彼らの中には、南部の人種差別を正当化している人や当時のベトナム戦争を聖戦かのように言う人々が少なからずいました。人種差別に無抵抗で戦い、ベトナム戦争を非難したマルティン・ルーサー・キング牧師などは、自由主義神学に流れた共産主義者の手先と見られていました。

しかし、今になって思うと、彼らが悪魔呼ばわりしていたビートルズを初めとする人々の方がまともなことを言っていた面があるようにも思えます。彼らは少なくとも、自分の心の底の葛藤を正直に言い表していました。

私たちの場合も、いろんなことが明確に指示されるよりも、目の前の問題の複雑さに悩み、「何をどう祈ったらよいか分からない(ローマ8:26) という「心のうめき」の中から、御霊に導かれた祈り、真心からの創造主への礼拝が始まるとも言えましょう。

3.「口から入る物は人を汚しません」

そのうえでイエスは再び群衆を呼び寄せて、「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」と言われました (10、11節)。

これこそ、パリサイ人たちがイエスの弟子たちが「手洗い」の儀式を守っていないことの理由を聞いたことへの答えでしたが、イエスはそれを、パリサイ人たちを無視するかのように、彼らに直接答える代わりに、群衆を呼び寄せて説明しました。

そのような中で、「そのとき、弟子たちがイエスに近寄ってきて、『パリサイ人たちがおことばを聞いて、腹を立てたことをご存じですか』と言いました」(12節)。

それにイエスは答えて、「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます」と言われました (13、14節)。

イエスはパリサイ人たちのことを、「父が植えなかった木」と呼びました。彼らは熱心に律法を学んでいたのですが、それは御父が彼らのうちに働いて生み出したことではありませんでした。

しかも、イエスは彼らを「盲人を案内する盲人」と呼びました。それは彼らが見るべきものを見ないまま、自分たちは聖書の福音の基礎を分かっていると言い張っていたからです。彼らは最初から、イエスの教えを聞く気がありませんでした。

ただ、弟子たちにはイエスの話の意味がわかってはいませんでした。それでペテロが代表して、「そのたとえを説明してください」と尋ねました (15節)。それに対しイエスは、「あなたがたも、まだ分からないのか」と、その無理解を叱責するように答えました (16節)。

そればかりか、さらに「分かっていないのか」ということばを重ねながら、「すべて口に入る物は、腹に入り、排泄されて外に出されるということが。しかし、口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです」と説明されました (18節)。

私たちは「口に入る物」よりも、「口から出るもの」、つまり、ことば」にこそ目を向ける必要があります。それは私たちの「」の奥底にある思いが湧き出たもので、その「」の状態こそが、人間にとっての最大の問題なのです。

口に入る物」に関して、あるクリスチャン外科医が、「イエスはここで解剖学の授業をしておられます。身体の内側と外側にはその境界線をまもる精巧な皮膚の細胞があって、外からの危険から身体を守っています。

私は素手でどぶさらいをしたり、トイレに手を突っ込んで栓を開けることさえできます。皮膚細胞は、バクテリヤが私の身体に侵入しないように、しっかりと守ってくれます。

イエスの言われたことを強調すると、上皮細胞がすべての消化管の内側を覆い、不活性物質を飲み込んでもーたとえば泥棒がダイヤを飲み込んでも、ドラッグの密輸業者がビニールの包みを飲み込んでもーその物質は決して身体に侵入しないし、外に排出される前に、上皮細胞の障壁を突き抜けることもありません」と説明しました。

当時のパリサイ人たちは、偶像礼拝をする異教徒たちの生活習慣から完全に分離された生活を守ることによって自分たちの「聖さ」を保つことができると考えていました。

しかし、イエスはそれを「口に入る物」という定義に置き換え、人々の目を「口から出るもの」、すなわち私たちの」の働きに焦点を向けさせました。そしてイエスは、心から出て来るもの」として「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」という例をあげながら、「これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」と言われました (19、20節)。

ここでは七つの罪が記されていますが「殺人」にしても「姦淫」にしても、まず心の内側で恨みや欲情がマグマのようにたまってしまったことの結果が行動に現れたものです。心が神への愛と人への愛から離れて行った結果として、目に見える様々な罪が現れるのです。

フィリップ・ヤンシーは学生時代を振り返りながら、祈りは特権であるよりも責任と思え、聖書を読むことはいのちの源であるよりも義務になっていたと反省しています。そして多くの友人たちが、卒業して規則の枠がなくなったとたん、堕落して行ったのに心を痛めていました。

確かに、私たちには守るべき境界線があります。境界線が破られるとすべてが汚される恐れがあります。そのことを先の外科医は次のように続けています。「しかし、皮膚の障壁が切られて、内側の傷つきやすい部分が外界からの危険にさらされると、極めて重大な危機にさらされます。

外科医は手術する前に出来る限り強力な消毒薬で手を洗いますが、それでも患者は深刻な伝染病にかかる可能性があります。私は手をごしごし洗ったあとで、患者の準備が整うまで、指先と指先をつけて両手を合わせています。部屋の中のバイ菌を隠し持っているかもしれないもの一切に触れないためです」と説明しながら、この両手を合わせた姿を、祈りの手として描きます。

パリサイ人は外側の汚れから身を守ることで内側をきよくできると考えましたが、実際には、全く逆のことになりました。彼らの心は、規則を守る自分への誇りと、規則を守ることが出来ない人々への軽蔑で満ちました。そればかりか彼らには、神のあわれみが感じられなくなっていました。

私たちに何よりも大切なのは、自分の内側にある汚れを素直に認め、祈りのうちにそれを神の御前に差し出すことです。そのとき創造主である聖霊ご自身が私たちを内側から聖く変えて行ってくださいます。

それはたとえば、目の毒になるものから目を背けることよりも、心がイエスの愛の眼差しに捕らえられ、イエスのみことばによって養われることを目指すことです。汚れから身を避けることよりも、自分の心に響いてきたみことばを思いめぐらし、心が神と人への愛で満たされる方向を目指すことです。

私たちは、外の世界から自分を守ろうとすることよりも、内的な生活を豊かに育むことにエネルギーを注ぐべきなのです。それは自分の汚れを聖霊のみわざに明け渡すことから始まります。聖霊こそが私たちの内側を守ってくださる創造主なのですから。

主は、「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖だからである」(レビ19:2) と言われました。聖ということばは、「俗なるもの」とも訳された「普通」Common に対比させられる概念です。ですから、クリスチャンは「普通であってはいけない」のです。

ただそれは確かに、普通の人と違った手の洗い方をするとか、普通の人と違った音楽を聴くとかという分離で表現されることもありますが、イエスは何よりも、心のあり方や心の方向を問われました。それは、神と人との間の愛の交わりです。

私たちが聖なる者になるとは、この世の基準を超えた神の基準で生きるということを意味します。とは神の領域であり、私たちはその聖なる交わりの中に入れられました。ですから大切なのは、この世との分離を目指すこと以上に、神と教会との交わりを深めることです。そこに聖霊様の働きが現れます。

それはより具体的には、神があなたの人生に現れてくださったその原点を大切にすること、あなたが人の優しさに支えられたその原点を大切にすることではないでしょうか。それこそが神と信仰の友との交わりを深める原点になります。

普通とは違った形で、神を愛し、人を愛する、それこそが聖なるものとされるという意味です。聖における、分離から交わりへの転換をこそ考えるべきではないでしょうか。なぜなら、「愛する」とは、私たちの心が、自分から離れてどこに向かうのかという方向を意味しているからです。