今から四、五十年前、欧米に行った人は、町の中に何らかの障害を持つ方が多いことに驚きました。ただ、日本でそのような方が少なく見えたのは、その存在を家族が恥じて、家の外に出さない結果だったと言われます。
何らかのわざわいに会っている人を、軽蔑する雰囲気が日本にあります。しかし、それはヨブ記の時代も同じです。ヨブは、自分がわざわいに会っている中で、「神のさばきを受けている」と友人たちから笑いものにされていると嘆きました。
しかし、ヨブは、原因が分からない苦しみの中で、復活への希望を語ることができました。それが、「人は死ぬと、また生きるのでしょうか?」という問いかけでした。復活の希望、それはどのような苦難や悲しみにも、出口があり、すべてが祝福に変えられるという生きた希望です。
1.「神は知恵の奥義をあなたに告げたであろうに」
11章1節も他の友人と同じように、「それで答えた、ツォファル、ナアマ人が。そして言った」という語順になっています。ツファルもヨブの痛みに七日七夜寄り添っていた友人の一人です。
彼の出身地「ナアマ」とはカインの子孫のトバル・カインの娘の名に由来し (創世記4:22)、シェバの女王と同じ地だとも言われます。とにかくツォファルも、ヨブの激しいことばに、問われてもいない答えを言わざるを得ない気持ちでした。
たとえばヨブは10章2、3節で、ヨブが神と争っているというのではなく、神がヨブと争っているという大胆な表現を用いました。さらに彼はそこで、神が「人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、悪しき者たちのはかりごとを輝かせている」と大胆に訴えていました。これは神を悪の創造者のように非難することばです。
さらに10章18-20節で「私の生きる日はわずかなのですか」と問いながら、「それならやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくふるまいたいのです」と、幼稚?とも言える訴えをしていました。
それに対しツォファルは、「ことば数を多くすれば、答えられないのだろうか?人は唇によって、義とされるのだろうか?」(11:2私訳) と諫めます。これはヨブが、多様に巧みな言葉を重ね、神に答え難い議論を吹っかけ、自分の正義を認めさせようとしていると非難するものです。
さらに、「あなたの無駄(空しい)話は、人々を沈黙させるであろうか、あなたが嘲るとき、あなたを辱める者はいないのだろうか」(11:3) と、ヨブのことばを「無駄話」と断罪し、彼の発言が神と人とを嘲ったものであり、その報いがあると警告しています。
その理由が、「あなたは言う。『私の主張は純粋だ。私はあなたの目に清い』と」(11:4) と記されるように、ヨブが自分の正義を訴えていたことを持ち出します。ただそれはヨブのことばを正確に引用したものではありません。
ヨブは、「完全(誠実)だ、この私は。自分自身のことを分かりはしないが」(9:21) と注意深く自分の正当性を訴えましたが、その理由は、「神は完全な者も悪い者」も同じように「滅ぼされる」という不条理を訴えたもので、自分が神の目に「清い」はずだと、神の判断を勝手に持ち出してはいません。
これは私たちの間でも起きることです。自分のことばが別のことばで言い換えられて、断罪されてしまう理不尽です。
5、6節では、ヨブが自分の正当性ばかりを一方的に主張して、神からの「知恵の奥義」を求めようとする謙遜な姿勢がないと非難する意味で、ツォファルは「しかし、神があなたにことばを与え、唇を開いていてくださったとしたら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろうに」という皮肉を言います。
そしてさらに「知れ。神があなたの咎を忘れてくださることを」と述べますが、これは励ましのように見えて、ヨブの苦しみの背後には、人々の目には隠された「咎」があるはずという理解があります。
そしてツォファルが語る7-9節のことばは、まさに神についての正しい洞察と言えます。しかし問題は、言外に、ヨブは自分の正当性ばかりを主張して、神から与えられる「知恵の奥義」を求める「渇き」を持っていないと、ヨブの傲慢さを責めている点にあります。
さらに、10-12節で、ツォファルはヨブに神のさばきを謙遜に受け止めるようにと勧めているようで、そこには鋭い棘が込められています。11節の「不真実な者」とは「無価値な者」とも訳せ、神がヨブの「不法」を気づかないわけはないと断罪したものです。また12節の「野ろばの子」とは、ヨブの「愚かさ」を嘲ったことばで、自分の「無知」に気づくようにという皮肉な勧めです。
そして、13-20節でのツォファルのことばは、「不真実な者」また「無知な者」に、真の悔い改めを迫り、そこに明るい将来が待っていることを告げる、美しい表現ですが、これは日本語での「お天道様は見ていてくださる!」と言うのとあまり変わりはしません。
しかしヨブのように、「自分には何かの咎があって、このようなわざわいに会っている」とは思えない人にとって、あまり役に立つことばではありません。私たちに人生には、突然、自分の子が北朝鮮に拉致されたという理不尽ばかりか、自分の努力が報われて成功したと喜んだ直後に、他の人の妬みを受け、成功の実を奪われ、不当にも左遷されるということだってあり得ます。
ですから、これらのことばは、理不尽な苦しみに会っている人にとっては、かえって、神の御支配に疑問を持たせる表現になり得るのです。
確かに、「人生を長い目で見ると、私たちの善い行いに、それなりの善い報いが見られる……」と言いたいところですが、そのような結果が見られない時代の方が長かったとも言えます。
18節の「望みがあるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む」ということばも、大切な人間心理を描いた名言です。ギリシャ神話の「バンドラの箱」のたとえにあるように、人間にどれほどのわざわいが襲っても、「希望」さえあれば生きて行けるとも言われるからです。
しかし、第二次大戦のときの「神風神話」のように誤った希望こそが、現実を見えなくさせ、悲惨を長引かせるという逆説があることも忘れてはなりません。
最後の20節は、悪に対する神の公平なさばきを語ったものですが、これも注意しないと、「目が衰え果て」「逃れ場を失っている」という絶望感を味わっている人に、自業自得を宣告することになりかねません。
2.「けれども、この私は全能なる神に語りかけ、神と論じあうことを願う」
12~14章でのヨブの応答は、今まで中で一番長いもので、これより長い応答は26章から31章までのものになります。
12章2節は解釈が困難で、「まことに、あなたがたは民だ、知恵があなたがたとともに死ぬところの」という意味に解釈できます。これは、ヨブの三人の友人がある意味で、人間の知恵しか語っていないので、「知恵」という概念自体が彼らによって無に帰してしまうという意味で、彼らを嘲ったことばです。
そして3節は、「しかし、私にも、同じように心(良識)がある。私はあなたがたに劣ってはいない。これくらいのことを知らない人などいようか」と訳すことができます。簡単に言うと、「あなたがたが『知恵の奥義』などと誇っていることばは、誰もがすぐにわかる常識の範囲を超えていない」という意味だと思われます。
4-6節は、新しい共同訳では、「私は友人たちの笑いぐさ。神を呼び、神が答えてくださったのに 完全で正しき人が笑いぐさとなっている。安楽な思いの中には不運な者への侮蔑があり 人が足を滑らせるのを待っている。略奪者の天幕は安全で 神を怒らせる者 神を支配しようとする者は安らかである」と訳されています。
ヨブは、神との対話の中に生きていたという意味で、自分を「正しく、完全(誠実)」と見なしていますが、そのように尊敬されていた自分が、わざわいに会ったとたん「笑いもの」とされ、軽蔑されているという激しい変化を嘆いています。
6節最後は、「神を自分の手の内に運ぶ者は(安らかである)」という意味に解釈できます。それはヨブの友人のように、神に関しての「知恵の奥義」を理解できているという者たちへの皮肉です。彼らは自分が作った神のイメージの中で、束の間の安らぎを味わっているに過ぎません。
12章7-10節は、神がすべての生き物をご自分の御手の中で治めておられるという真理を語ったものですが、それに関しては、獣も空の鳥も海の魚も当然それを自覚している常識に過ぎないと述べたものです。
そして、11節では「耳がことばを聞き分け、舌が食物を味わう」と語りながら、そこには何の善悪の基準もないということを示唆します。
そして、12節ではビルダテが「先人に尋ねよ。先祖たちの探求したことを確かめよ」(8:8) と言ったことを批判するように、「年寄りに知恵があり、年のたけた者に英知があるのか?」と、常識への疑問を投げかけます。
そして「知恵と力は神とともにあり、思慮と英知は神のものだ」(13節) と言いながら、それが人間には理解し難いことであると述べます。これは、ツォファルが、神に関しての「知恵の奥義」(11:6) を知っているかのように語っていることの傲慢を正す意味があります。
そのような文脈の中で、14、15節の「見よ。神が打ち壊すと、二度と建て直せない……水を送ると地はくつがえる」とは、この地の調和を破壊する、理不尽な神のみわざを語ったものです。
さらに16節では「力と英知は神とともにあり」と言いながら、「迷い出る(惑う)者も迷わす(惑わす)者も神のものだ」と言いながら、神が人間の世界に混乱を引き起こす張本人であると語ります。
そして17-21節では、神が「助言者たち」「さばく者たち」「王たち」「祭司たち」「勢いのある者」「信頼されている者」「長老たち」「君主たち」「力ある者たち」の誇りを奪い去っているみわざが描かれます。神は、人間の知恵や力をあざ笑うように人間の歴史を導いているというのです。
そして22節は「神は闇の中から深い底をあらわにし、死の陰を光へと運ぶ」(共同訳) とも訳すことができます。
その上で、「神は国々を栄えさせ、また滅ぼす。地の民のかしらたちから良識を取り去り……神は彼らを酔いどれのようによろけさせる」(23-25節) は、この世の国々の栄枯盛衰を驚くほど的確に描いた表現です。
先日まで、織田信長を討ち果たした明智光秀の生涯が描かれた大河ドラマが放映されていましたが、いまだに、なぜ明智光秀が織田信長をあれほど簡単に討ち果たし、同時に、光秀がたった11日後に秀吉に討ち果たされることになるのか、それらは多くの学者にとっての謎とされています。しかも天下を取った秀吉は、無謀な中国大陸制覇を夢見て、自滅します。
まさに神が信長、光秀、秀吉の「良識を取り去り、彼らをさまよわせ……酔いどれのようによろけさせた」としか言いようがないとも言えましょう。
13章1、2節では、ヨブが三人の友人たちと神のみわざに関しての表面的な知識においては劣っていないということをまず語ります。
その上でヨブは、「けれども、この私は全能なる神に語りかけ、神と論じあうことを願う」(3節) と、自分がなぜわざわいに会う必要があるのかを、神と論じることを願望すると語ります。
そしてさらに、4、5節では、彼らを「無用の医者」と呼びながら、彼らが沈黙を守っていたらよかったのにと振りかえります。
さらに6-9節では、彼らは神を弁護し「神の顔を立てるつもり」で、「神を欺こうとしている」と不思議なことを述べます。
そして10節で、ヨブは友人に向かって「神は必ずあなたがたを責める。ひそかに自分の顔を立てるなら」と宣告します。後に神の怒りは三人の友に向かって燃えることになりますが、彼らの問題は、神の顔を立てようとして、実際は、自分自身の顔を立てようとする欺きがあったことです。
そしてヨブは、13節で友人たちに沈黙を命じ、また14節で命がけの覚悟を示しながら、15節の決定的なことば、「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前(顔)に主張しよう」と言います。
ヨブは、激しい痛みのゆえに、早く死んでいた方が良かったと何度も嘆いていましたが、ここでは、たとえ神に殺されても、「神を待ち望む」と言います。それは、神の御顔に向かって自分の正当性を主張するためです。これは友人たちが神の顔を立てようとしたこととは正反対に、神にすがりついて行く姿勢です。
そして16節では、「神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の御前(顔)に来ることはできない」と述べます。これはヨブが、神に不平を述べているようでも、神を恐れ、神にすがりつこうとしている姿勢を表します。
そして18節では大胆にも、「今、私は自分の言い分を並べる。自分が義とされることを知っている」と述べます。これは友人たちがヨブに、罪を認め、謙遜になるようにと勧めたこととは正反対です。ヨブはまさに、命がけで自分の正当性を神と人とに訴えようとしています。
そのことが19節では、「私と言い争える者があろうか。あるならば、今、私は黙して死んでも良い」(共同訳) と記されます。
3.「私は苦役の日の限り、待ちます。私の解放のときまで」
13章20節から14章の終わりまでは、ヨブが神に向かって語りかけたことばです。そこでヨブは最初に、「ただ二つのことを私になさらないでください」と懇願します。
それは21節にあるように、「あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください」ということですが、これは「私を標的とする」(7:20) ことを止めるようにという一つの懇願にまとめることができます。
そして、22節ではヨブが何よりも神との対話を望んでいると語りながら、23節では、「私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください」と懇願します。
ヨブは神に自分の正義を訴えているのですが、そのような文脈の中で、「もし、自分に咎、罪、背きがあるなら、それをまず私に知らせるべきだ」という意味で「神と論じ合っている」と考えるべきでしょう。ヨブは自分が神の攻撃を受けるその理由を知りたいのです。
そのことが24節では、「なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか」と描かれます。
そして25節では吹けば飛ぶような「木の葉」や「乾いた藁」に過ぎない自分を攻撃することの不条理を訴えます。
さらに26節では、「実に、あなたは私に厳しい宣告を書きたて」ていると、自分だけが特別に厳しいさばきを受けていると訴えます。その根拠は、人は若いときに身勝手にふるまうことがあるということを前提に、神は自分の「若いときの咎」を忘れることなく、「負い続けさせ」ているという残酷にあります。
14章1、2節では、「女から生まれた人間(アダム)」全般のいのちの儚(はかな)さが、花の儚さにたとえられます。
そして3、4節では、その儚いいのちの自分を「さばきの場に連れて行こう」とする神に対して、自分には何の弁明をすることもできないと訴えます。そして、5、6節では、神ご自身が人の一生に限界を設けているということを前提に、その短いいのちの日々を、「もっと楽しく過ごさせて欲しい」と懇願しています。
14章7-9節は驚くほど美しい詩で、「木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し その若枝は絶えることがない。たとえ、その根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹きだし、苗木のように枝を出す」と記されます。
そこから「球根の中には」という讃美歌の歌詞が思い浮かびます。そこでは次のように歌われます。
球根の中には 花が秘められ、
種の中にはリンゴの木がある。
さなぎの中には隠された約束がある。
そこからやがて蝶が自由にされるからだ。
冬の寒さと雪の中には、
春が目覚めを待っている。
その季節の訪れまで隠されてはいるが、
それは神だけが見ることができるものだ。
ただ、このときのヨブは、復活の希望をまだ明らかに見ることができていないので、「しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。水は海から消え去り、川は干上がり、涸れる。そのように、人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない」(10-12節) と述べます。
これは人の死を、イスラエルの地の干ばつの被害のような、望みのないものに描くことです。
ただし、ヨブはそれで終わらず、心の底にある「復活」への憧れを、13-17節で描きます。
まず「ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてくださればよいのに」と述べますが、「よみ」とは、肉体の死の後にある「眠り」(14:12) のときを指します。それは最後の審判を待つときであると同時に、復活を待つときです。
さらにヨブは、「人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の解放のときまで」(14:14) と述べます。ヨブは3章17、18節で肉体の死を「憩い」「安らか」なときと描きましたが、ここではさらに進んで、死後の復活の希望を「解放のとき」(NRS等の英語訳、共同訳参照) と描いています。
さらにヨブは、沈黙していた神に向かって、「あなたがお呼びになれば、お答します」と語りかけ、さらに神ご自身がヨブの生涯を「御手のわざ」として大切に「慕っておられる」はずと善意に解釈します (15節)。
さらにヨブは、「今、あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を留めないでください。私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください」(16節) と願います。これはたとえヨブに罪があっても、それに目を留めず、封印していて欲しいという願望です。
ただ18-22節では、再びヨブの絶望感が歌われます。先には「木には望みがある」と述べましたが、18、19節では「山は倒れて崩れ去り……水は石を打ち砕き……地のちりとされる」ことを前提に、神が「人の望みを絶ち滅ぼす」という冷酷さが描かれます。
さらに20-22節では、神が人を圧倒して追いやり、人は自分の子孫の行く末を見ることもできず、肉体の痛みの中で嘆くことしかできないという絶望感が描かれます。
ヨブは、復活の希望を明確に知りはしませんが、それに憧れていることは確かです。ただ同時に、現実の苦しみの中で、自分の絶望感を神に訴えることで話を終えます。そのようにヨブの心は揺れ動いています。しかし、私たちの祈りの生活こそ、そのようなものではないでしょうか。
詩篇22篇はそのような心の揺れを美しく描いています。「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望の叫びから始まり、3-5節ではイスラエルの賛美を住まいとされる神が描かれ、6-7節では自分が虫けらのように蔑まれていることを嘆き、9、10節では自分の誕生の時が、神の御手の中にあったことを覚え、12-21節では再び、神の救いを必死に求める祈りが記され、そして21節三行目から、「あなたは、私に答えてくださいました」という復活の賛美へと変わります。
実は、この流れと、ヨブ記13章20節から14章17節に至る流れは極めて似ています。ヨブは、謂れのない苦しみに会いながら、復活への「夢」を持つことができたのです。
「球根の中には」の2,3番目の歌詞は次のように歌われます。
すべての沈黙の中に歌がある。
そのことばと旋律を捜し求めよう。
すべての暗闇には、夜明けがある。
それはあなたと私に希望を生み出す。
過ぎ去ったときから、将来が生まれる。
そこには神秘が隠されている。
それは季節が来るまで明らかにはされない。
それこそ、神だけが見ることができるものだ。
私たちの終わりは、始まりのときでもある。
私たちの時は、永遠に向かっている。
私たちの疑いの中には信仰がある。
私たちの人生には永遠が、
死には復活がある、
それこそ終わりの勝利の時だ、
ただそれは時が来るまで、隠されている。
それこそ、神だけが見ることができるもの。
ツォファルは、「知恵の奥義」をヨブに求めるように勧めました。しかし、それはどの宗教でも言われるような理屈、絶望の中にいる人をさらに苦しめる論理に過ぎませんでした。
しかし、ヨブは絶望感を神に訴える中から、キリストの復活の中にある希望への憧れを告白できました。
ただ、それはまだ確信にまでは至ることない、キリストにある啓示を待って初めて明らかになる復活の希望でした。それこそ「死は勝利に吞み込まれた」(Ⅰコリント15:54) ことが分かるとき、さらに「疑いの中には信仰があった」ことが分かるときなのです。