球根の中には〜ヨブ記と詩篇22篇

今日は、日本では「建国記念の日」と呼ばれる祝日で、クリスチャンとしては複雑な思いを味わう日でもあります。

それはもともとの由来が、明治に定められた紀元節で、それによれば紀元前660年1月1日に神武天皇が即位した記念日にあるからです。

現代の日本の歴史学者で、それを史実と受け止める人は皆無でしょう。しかし、日本の起源をキリストの降誕よりも前に持ってきたい明治の日本人の願望があったのかもしれません。

なお、旧暦による正月は、今年は2月12日ですが、この日は太陰暦により毎年変わります。とにかく昔の紀元節は、太陽暦に変えたのちも、旧正月と神武神話を結び付けた苦肉の策の記念日だったとも言えましょう。

現在、私たちの教会ではヨブ記を読んでいます。今度は11章から14章の箇所ですが、正直、僕は昔、ヨブ記の初めと終わりだけを丁寧に読んで、そのストーリーを分かった気になっていました。

しかし、このヨブと友人との対話の部分は、本当に私たちの信仰の常識に対する恐ろしいほどのチャレンジの文章に満ちています。

ヨブ記が実際に現代の形で記されたのは、紀元前6世紀のバビロン捕囚期以降であると思われますが、実際の舞台は、紀元前2000年、つまり今から4,000年も前のイスラエルの族長たちの時代の出来事が題材となっていると思われます。

今度の箇所で、ヨブは友人に向かって「安楽な思いの中には、不運な者への侮蔑がある」(12:5共同訳) と語っています。まさにこれこそ、日本人の問題です。自分は新型コロナなどには感染しないし、かかっても軽症で済むと思っている大多数の人が、不運にもコロナにかかった人を軽蔑してしまう雰囲気です

そして、ヨブは神に向かって、「なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか」(13:24) と嘆きます。

しかし、そのように神に率直に抗議し、対話を重ねる中から、「人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦難の日の限り、待ちます。私の解放のときまで」(14:14一部私訳) と、終わりの日の復活の希望を語ります。

そして、この神の不在を嘆く祈りと、神が私たちの嘆きに答えてくださるという流れは、詩篇22篇にきわめて明確に書いてあります。

3000年前にダビデが「暁の歌」として記した詩篇の背後に、ヨブのうめきがありました。

そして、このダビデの祈りをご自分の祈りとされたのが、イエス・キリストです。イエスの十字架上のことばは詩篇22篇の冒頭のことばそのものでしたが、それが神との対話の中で、「あなたは答えてくださいました……」という復活の賛美に変わります。

この復活の記事と、ヨブ記の「木には望みがある、たとえ切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない……」(14:7) をもとについ35年前にアメリカで生まれた「球根の中には」という賛美があるのだと思います。以下で美しい映像と共にお聞きいただけます。

直訳は以下のとおりでです。今度の日曜の9時の礼拝と午後4時の礼拝ではこの日本語訳を歌う予定です。

球根の中には 花が秘められ、
種の中にはリンゴの木がある。
さなぎの中には隠された約束がある。
そこからやがて蝶が自由にされるからだ。
冬の寒さと雪の中には、
春が目覚めを待っている。
その季節の訪れまで隠されてはいるが、
それは神だけが見ることができるものだ。

すべての沈黙の中に歌がある。
そのことばと旋律を捜し求めよう。
すべての暗闇には、夜明けがある。
それはあなたと私に希望を生み出す。
過ぎ去ったときから、将来が生まれる。
そこには神秘が隠されている。
それは季節が来るまで明らかにはされない。
それこそ、神だけが見ることができるものだ。

私たちの終わりは、始まりのときでもある。
私たちの時は、永遠に向かっている。
私たちの疑いの中には信仰がある。
私たちの人生には永遠が、
死には復活がある、
それこそ終わりの勝利の時だ、
ただそれは時が来るまで、隠されている。
それこそ、神だけが見ることができるもの。

以下は詩篇22篇の抜粋私訳です。その流れの美しさを味わっていただければ幸いです。

詩篇22篇
「暁の雌鹿」による。ダビデの賛歌

私の神、私の神よ。なぜ、私をお見捨てになったのでしょう?

私の救いとうめきのことばから、なぜ、遠く離れておられるのでしょう?

私の神よ。昼、叫んでいるのに、答えてくださらず、

夜も、私には、静寂がありません。

あなたは、しかし、聖であられ、

イスラエルの賛美を住まいとされる方です。

私たちの先祖は、あなたに信頼し、

信頼した彼らを、助け出してくださいました。

彼らはあなたに叫び、助け出されました。

あなたに信頼して、恥を見ませんでした。

この私は、ただ、虫けら。人間と見られていません。

人のそしり、民の軽蔑の的(まと)です。

見る者はみな、私をあざけり、

口をとがらせ、頭をふります。

「主 (ヤハウェ) にまかせ、助けてもらえ。

救ってもらえ。お気に入りなのだから。」

まことに、あなたは、私を母の胎から取り出され、

母の乳房に、拠り頼ませた方。

胎に宿ったときから、私はあなたのふところにゆだねられました。

母の胎内にいた時から、あなたは、私の神です。

遠く離れないでください。

苦しみが近づき、助けがないからです。

……

力は焼き物のかけらのように渇ききり、舌は上あごにくっつきました。

あなたは私を、死のちりの上に置いておられます。

犬どもが包囲し、悪者どもの群れが取り巻き

私の両手と両足を 突き刺しました。

私は自分の骨をみな、数えることができるほどです。

彼らは私をながめ、ただ見ています。

私の上着を互いに分け合い、

この衣のために、くじを引きます。

あなたは、主 (ヤハウェ) よ。遠く離れないでください。

私の力よ、助けに急いでください。

あなたは答えてくださいました。

私は、御名を兄弟たちに語り、

会衆(教会)の中で、あなたを賛美しましょう。

主 (ヤハウェ) を恐れる人々よ。主を賛美せよ。

ヤコブのすべての子孫たちよ。主をあがめよ。

イスラエルのすべての子孫たちよ。主の前におののけ。

まことに、主は、悩む者の悩みを、さげすむことなく、厭(いと)うことなく、

御顔を隠されもしなかった。

むしろ、助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

大きな会衆の中での私の賛美は あなたから生まれました。

私は、誓いを 果たします。

主を恐れる人々の前で。

悩む者たちは、食べて、満ち足り、

尋ね求める人々は、主 (ヤハウェ) を賛美しましょう。

「あなたがたの心が、いつまでも生きるように!」