イザヤ43章10〜21節「見よ、新しいことを わたしは行う」

2021年1月1日 元旦礼拝

昨年の元旦は In to the unknown(未知の旅に踏み出そう)という「アナと雪の女王」Ⅱの主題歌からメッセージを始めました。すると「新型コロナウィルス」の世界的な蔓延という未知の領域に足を踏み出してしまいました。昨年流行した「鬼滅の刃」のテーマの「全集中の呼吸」で私たちの感覚を研ぎ澄まし、見えないウィルスを回避する戦いを続けなければなりません。

しかし、パンデミックは大きな社会変革の契機になると言われるように、私たちはこのピンチをチャンスに変えることができます。実際、健全なキリスト教信仰は、パンデミックのたびごとに人々の心と身体に真の癒しを与えて、広まり続けました。

今、たとえば飲食業や旅行業が全面的に衰退しているかというと、このような中でも成長している会社があります。そこに共通するのは、顧客のニーズに応えているということです。顧客が自分でも意識していない必要を発見し、それを提供できる会社は、どのような状況下でも成長できます。それこそが市場経済の根本原理です。また、社会の必要に応える会社も成長します。それがたとえばこのコロナ自粛下でのデジタルコミュニケーション技術を支える会社です。また、地球温暖化の問題も中長期的に大きな課題であり、それがたとえば脱炭素技術の開発に現わされます。

現在、株価は30年前のバブル高値を目指して上昇基調にあります。その原因は何よりも日銀が景気対策のために貨幣供給量を増やしていることが原因ですが、株式市場には常に、将来の成長産業の先取りの動きがあり、未来社会を暗示させる力があります。今も、神が支配する世界での新しいことの「芽生え」が目の前にあります。それを察知することが大切です。

1.「わたしの目には、あなたは高価で尊い」

イザヤ書43章は、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。あなたの名をわたしが呼んだ」と、神ご自身の主導による一方的な救いのみわざが描かれます。そして、主は彼らに優しく、また断固として、「あなたは、わたしのもの」と語りかけら、その結果としての祝福に満ちた歩みが、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(2節) と描かれます。

海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは、あなたとともにいる」と保障し、私たちのこの地上での波乱万丈の人生にも寄り添ってくださいます。簡単に言うと、新型コロナウィルスは、神の御許しがなければあなたに感染することはありません。ウィルス感染を避ける最大限の注意は求められていますが、すべてが全能の神の御支配の中にあることを忘れてはなりません。

そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主 (ヤハウェ) 、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるから」(3節) と言われます。これも静かに、心の底で味わうべき全能の神からの語りかけです。「イスラエルの聖なる者」とは、いかなる力の比較も、人間の想像も及ばない圧倒的な神であるという宣言です。ですから私たちは地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。

それが不思議にも、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これはペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという意味です。

実際、エルサレム神殿の再建をペルシャ帝国が応援したのは、エジプトへの通り道を政治的に安定させるためでした。これはエジプトの犠牲の上にイスラエルの繁栄が築かれるという意味です。しかし、この背後に、神のあわれみのご計画がありました。人の目にはちっぽけなイスラエルが、神の目にはあの大国エジプトよりも重い存在と見られていたというのです。

主はそれを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(4節) と言われます。「高価」とは、かけがえのない価値とか希少価値を意味します。たとえばアブラハムにとってイサクは、かけがえのない「ひとり子」であり、イエスは、神にとってかけがえのない「ひとり子」でした。また「尊い」とは、「重くされている」という意味で「栄光」と同じ語源のことばです。これは、神が私たち一人ひとりを救うためにご自身の「ひとり子」さえも犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。

その上で主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と敢えて明言してくださいました。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。そして、その具体的な意味を、主は不思議にも、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。これは理解しにくいことですが、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。

このように、他国や他人との比較で自分の価値が計られることには違和感を覚えるかもしれませんが、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。当時のイスラエルの指導者は、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的に取ってきました。

これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、その二人の陰に身を隠しながら、その対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方の代わりに、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。

あなたが頼りにしようとする権力者は、はかない存在であるばかりか、神の目には、あなたの方がはるかに重い存在なのです。私たちは人の奴隷にならずに、自分が神にとってどれほどかけがえのない存在と見られているかを意識しながら生きるべきなのです。

先日のNHKの番組で、ニューヨークで感染者が急増したときに、アメリカ中から看護師の方々が自主的に集まってきた記録が報じられていました。それぞれが心に強い迫りを感じて、家族や愛する人を地元に残しながらニューヨークの病院にボランティアとして集まりました。

あるご婦人は、奉仕期間が終わってPCR検査を受け、陰性であることが確認されると涙を流しながら、これで田舎に帰って愛する子たちに会えると喜んでいました。

また南アフリカでは、もとギャングだった牧師が、ギャングになったばかりの相争う若者たちを束ねて、コロナで職を失った人々に食料配布を行っていました。それらの方々に共通するのは、自分が創造主なる神の目に「高価で尊い」存在であり、神に特別に愛されている者としての使命を心から意識しているということです。ここで、「私にしかできない働きがある」という健全な意味でのプライドを持っていることです。

2.「あなたがたは、わたしの証人」

5-9節で、主は四方の国に散らされたイスラエルの民を、もう一度約束の地に集めると約束しながら、イスラエルの民がいかに盲目で、耳が聞こえないものであっても、彼ら以外に主のみわざの意味を証しできる者たちはいないというご自身の葛藤と、彼らを用いてご自身を現わそうとするご意志を証ししておられます。

それを前提に主は、「あなたがた」を強調しながら、「あなたがたは、わたしの証人。─主 (ヤハウェ) のことば─わたしが選んだわたしのしもべ」(10節) と言われます。これは私たち異邦人クリスチャンにそのまま適用されます。

そのことを使徒ペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています」(Ⅰペテロ2:9、10) と言っています。

私たちはその責任の大きさに耐えられるほどには、神を知ってはいないと卑下するかもしれませんが、そのような懸念を払うように、「これは、あなたがたが知って、わたしを信頼し、わたしがその者であることを悟るためだ」(10節) と言われます。私たちは自分たちの人生を通して、主を深く知り、より深く信頼し、主がどのような方であるかを悟ることができるようになるのです。

ここでは「わたしがその者である (I am He)」という曖昧な表現があえて用いられながら、それを説明するように、「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」と、ご自身が他の神々と比べようのない方、ただひとりの創造主であることを証しておられます。

そして主は、敢えて「わたし」という代名詞を二回重ねながら「わたし、わたしが主 (ヤハウェ) 」(11節) とご自身の名を紹介します。原文では主のご自身のお名前であるヤハウェが用いられており、そこには「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) という主の自己紹介が込められています。そこには、主が人間のことばで描きようのない、すべての存在の始まりであり、すべてを超越しているという意味があります。

ですからここでは続けて、「ほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせた」(11、12節) とご自身のことを紹介しておられます。さらに、「あなたがたのうちに、他はいなかった。あなたがたは、わたしの証人」(12節) と、先のことばを繰り返しながら「 (ヤハウェ) のことば─わたしは神だ」と断言されます。そして、未来に目を向けさせながら、「これから後もわたしがそれだ (I am He)。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(13節) と、ただ主だけに信頼するように訴えておられます。

以前、「あなたの神は小さすぎる」(Your God is too small) というタイトルの本がありました。サタンは私たちに二つのレンズを与え、聖書の神を実際の生活から縁遠い小さい方に見せるとともに、目の前の問題を実際よりも大きく見せるという働きをするとのことです。

ここでは何よりも、「わたしがその者である (I am He) ……たしが主 (ヤハウェ) である……わたしが神だ……わたしがそれだ (I am He)」という表現が繰り返され、主 (ヤハウェ) とはどのような方であるかを思い起こすようにしなさいと訴えられているのです。

しかも、主は、「この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を選ばれ(Ⅰコリント1:28) ました。神の物語の中では、私たちがこの世的には小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、主にある逆転の大きさが証されるという神秘が生まれます。

パンデミックは社会構造が変わるチャンスです。あなたが小さいからこそ、弱いからこそ気づくことができる何かがあります。そこで「こんな私は何もできない……」という代わりに、「今、このような必要に気づかされているのだけれど、主よ、どうしたらよいのでしょう」と、真剣に「うめき祈る」ときに、そこに聖霊のみわざが始まります。世の常識が変わるからこそ、あなたの感性が生かされるチャンスがあるのです。

なおその際、「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多く要求されます」(ルカ12:48) という神の国の原則を覚える必要があります。それが「鬼滅の刃」の一つのテーマでもあります。

そこではこの社会で「うめく」ことから永遠の強さを求めて鬼になってしまう人と、家族や社会を助けるための強さを求めながら、同時に、仲間を生かすために自分の身をさえ犠牲にできる人との違いが描かれます。

3.「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」

(ヤハウェ) は、こう言われる」という表現は1、14、16節で用いられ、そのたびにその方がどのような方かが描かれます。

14節ではまず、「その方は、あなたがたを贖われるイスラエルの聖なる方」と表現されます。主は、イスラエルを外国の奴隷状態から解放する、この世を超越した「聖なる方」であり、その救いのみわざが、「あなたがたのために、バビロンに使いを送り、彼らをすべて亡命者として下らせる。カルデヤ人をその歓喜の船から……」と描かれます。

当時、イスラエルは国を失って他国の情けでかろうじて生かされている存在であり、カルデヤ人とはバビロン帝国の中心的な民族で、「歓喜の船」に乗っているように高ぶっていましたが、そこから「亡命者」のような悲惨な状態に追いやられるのです。この「バビロン」や「カルデヤ人」という名を、あなたを虐げ迫害している人々に当てはめると、この箇所の意味がよりパーソナルに響くことでしょう。主は常にあなたを守る側に立っていてくださり、あなたに代わってあなたの敵に復讐してくださるというのです。

そしてその根拠を、主は「わたしは、主 (ヤハウェ)、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(15節) と言われます。「イスラエルの創造者」というのは珍しい表現です。これはアブラハムから始まる神の民イスラエルの創造の歴史を思い起こさせるものです。

同時に、これは私たち一人ひとりの歴史にも当てはまります。エペソ1章4節には、「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」と記されています。私たちは自分の出生を恥じることがありますが、それらはみな、あなたを神の最高傑作として用いるための神の創造のわざだったのです。

また「あなたがたの王である」とは、主こそが私たちの真の支配者、管理者、保護者であるという意味です。あなたも、この「イスラエルの創造者、あなたがたの王である」ということばに自分の名前を入れて読んでみてはいかがでしょう。神は何らかの目的をもって、あなたの人生をこれまで導いて来られたのです。

そして再び「 (ヤハウェ) は、こう言われる」(16節) と宣言されながら、主がかつてエジプトの軍勢を紅海におびき出し、絶滅させたことが「その方は、海の中に道を、強い流れの中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出された。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えた」(17節) と描かれます。

モーセに導かれた民がエジプト軍の追撃を見て絶望しパニックに陥った時、目の前の海が真っ二つに分かれて彼らはそこを渡ることができました。一方エジプト軍は海の中に呑み込まれ、もう追うことができなくなりました。

その上で、主は、逆説的な意味で「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」(18節) と言われます。神はイスラエルの民に、繰り返し、出エジプトの事を始めとする過去の偉大な救いのみわざを思い起こすように命じておられましたから、この命令はまったく意外なものです。それは、彼らが過去の成功体験に縛られて、国を滅ぼそうとしていたからです。

たとえば、エルサレムがアッシリヤに包囲された時、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは日本の神風神話と同じです。しばしば、過去の成功談は偶像化されて人を失敗に導きます。「成功は失敗のもと」になることを常に覚えて、現実を注意深く見る必要があります。神の救いのみわざは毎回ユニークなもので、パターンが違います。私たちはそれを覚えなければなりません。

それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。そのことを、主は、「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(19節) と言われました。

私たちは、過去の体験に基づく自分の期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に、常に、何か、新しいことの芽生えを見つけることができます。そして、このとき彼らはバビロンの向こうに、強大なペルシャ帝国の出現の前触れを見ることができました。それにも関わらず、彼らの目は南の大国エジプトの政治情勢にばかり向かっていたのです。

現代の日本社会の根本的な問題は、1960、70年台初めまでの高度成長時代のある種の成功体験が社会の構造や官僚組織を支配していることかもしれません。そのためお役所は前例を重んじ、何か問題が起きた時、どうしてそのような対処をしたかを説明できる体制や文書を整えることばかりに注意を払っています。

その体制が今、ようやくコロナ危機でデジタル化などの対応が求められていますが、根本的な問題に気づいていないのかもしれません。

クリスチャンは四千年の歴史の流れの中から現代を見ることができ、天の国籍を持つものとして日本の様々なしがらみから自由になり、この世の常識を超えた発想ができるはずなのですが、多くの日本の教会も1980年代までの教会成長の成功体験から自由になれていないのかもしれません。

なお、イスラエルの民はエジプトから解放されるとき、海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。それを前提に、主は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。 荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(19、20節) と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。

なお、「ジャッカル」も「ダチョウ」も忌み嫌われた動物の代名詞のような存在で、廃墟を住処としていましたが、そののろわれた動物さえも神の救いにあずかるというのです。まして神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのは、当然です。私たちの目の前にも、荒野や荒地が広がっているように見えるかもしれませんが、創造主は「荒野に水を、川を荒れ地に与え」て、そこをエデンの園のような祝福の世界に変えることができるのです。

そして、これらのまとめとして、「この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(21節) と描かれます。私たちキリスト者も、神にあって新しく創造された民です。そして、神は今、私たちのためにさらに「新しいことを行う」ことによって、私たちが神の「栄光を宣べ伝え」ることができるようにしてくださるというのです。これは私たちへの命令ではなく、必然的に起こることとして描かれています。

そして、その変化のきっかけは、コロナ危機に怯える世界の「うめき」に心の耳を開き、そこにある絶望感や不安を自分自身の痛みかのように受け止めて「ともにうめく」ことです。そこで「何をどう祈ったらよいか分からない」という葛藤に向き合うとき、聖霊ご自身が「ことばにならないうめきをもってとりなしてくださる」と言われます。そして、そこには「すべてのことがともに働いて益となる」という確固とした約束があります (ローマ8:22、23、26、28)。

私たちの信仰の目はときに、自分の過去の体験や人の証しに影響されすぎる傾向があります。それぞれのときに、それぞれの個性に合わせて、圧倒的にユニークなみわざを見せてくださるあなた個人の「創造者」であり「」であられる方を、いつも見上げる必要があります。

私たちは神への信仰をあまりにも自分の努力で操作できるものに見てはいないでしょうか。あなたが思いもしなかった「新しいことを わたしは行う」と、あなたの神は語っておられます。その「芽生え」を見る目こそが、あなたに何よりも期待されていることです。

ドン・モーエンの作った以下の曲はこの箇所から生まれています。歌詞は次の通りです。目の前の状況が絶望的に見える時こそ、神のみわざを体験できる好機です。全能の神が新しい道を開いてくださいます。

God will make a way, where there seems to be no way.

神は、道を造ってくださる。道が何もないと見えるようなところにも。

He works in ways we cannot see, He will make a way for me,

神は、私たちが見えない方法で働かれ 私のために道を作ってくださる。

He will be my guide, hold me closely to His side,

神は、私の導き手であり、私をご自身のふところに抱いて、

with love and strength for each new day,

愛と力を 日々新しく与えてくださり、

He will make a way, He will make a way,

神は道を造ってくださる。

by the roadway in the wilderness He lead me

神が荒野の道に私を導かれることがあっても、

Rivers in the desert will I see;

私は砂漠の中に川を見ることができる。

Heaven and earth will fade but His word will still remain,

やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。

He will do something new today.

神は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。