2020年12月24日 クリスマス・イブ音楽礼拝
今、読まれたイエスの御降誕の記事には、「飼葉桶」ということばが3回登場します。第一はマリア自身がイエスを「布にくるんで飼葉桶に寝かせた、宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と記されます。イエスはまさに居場所のない人の仲間となられたということを意味します。
第二は、羊飼いたちに救い主の誕生が知らされたとき、飼葉桶こそ「あなたがたのためのしるし」と言われたことです。貧しい飼葉桶に眠るということが羊飼いにとっての「しるし」となったのです。
そして第三に、羊飼いたちは急いでベツレヘムを訪ね「飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた」と記されます。このときになってはじめて、マリアとヨセフは、御子の誕生の時にはるか遠い空で天の軍勢の賛美があったことを知りました。つまり、地上の惨めさの背後に、天における大きな喜びがあったのです。
とにかく、生まれた救い主が飼葉桶に寝かせられたということこそクリスマスの不思議です。そこでは、あらゆる人間的な常識の逆転が生まれます。
新型コロナ・ウィルスの脅威がますます激しくなっているように思える昨今ですが、これは社会が大きく変化する契機でもあります。14世紀には黒死病(ペスト)が、東アジアから西ヨーロッパに10年間のうちに瞬く間に広がり、1349年には西ヨーロッパ全体に広がり、人口の三分の一が死亡したと言われます。特にイタリアのフィレンツェでは人口が半分にまで激減します。
ただ、ペストで壊滅的な打撃を受けたフィレンツェでは新しい文化が花開き、1436年には140年間かけて建てられ続けた大聖堂が完成し、イタリア・ルネッサンス前期のシンボルとなります。
この間、ペスト以降の社会的大変動の中で、金融、商業の分野でのメディチ家の勢力が台頭し、ローマ教皇庁にまで大きな影響力を持つようになります。そして、16世紀初めにはローマのサンピエトロ寺院建設のための資金を貸し出し、それを免罪符の販売で回収するという、信仰をお金集めの手段にするような堕落を生み出し、それに反発した修道士ルターが1517年に宗教改革運動を始めます。
歴史的には、このような経緯のゆえに、「ペストは近代の陣痛」と呼ばれます。確かに、感染爆発(パンデミック)は新しい時代を開くのですが、そこには金融資本の支配の加速と既存の宗教勢力の没落という負の局面と、人々の心を自由にするルネッサンス文化や宗教改革による真の信仰復興の両面があったのです。
そして、それはどの時代に起きるパンデミックにも共通していることだと思われます。
事実、1世紀から3世紀のローマ帝国の支配下で、何度もパンデミックが起きましたが、そのたびに既存の宗教の無力さが証明され、聖書の福音を信じる人が増えて行きました。そして、ついにはローマ帝国全体がキリスト教化されるまでになりました。
ただ、それと反対に、14世紀のパンデミックは、カトリック教会の衰退を決定づけ、宗教改革を引き起こすようになります。
現代のパンデミックも、同じような作用をもたらすことでしょう。その際に必要なのは、何よりも、神による問題の解決を求めて悲しみを訴え、神に向かって「うめく」ということではないでしょうか。
ローマ人への手紙の8章は、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません」という力強い宣言から始まります。このように、イエスを救い主として信じて、礼拝の場に集まっている私たちはみな、キリスト・イエスのうちにある者です。その私たちはもう罪に定められことは決してありませんと力強く断言されています。
そしてその理由が、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」と不思議な記述がなされます。それは旧約の民を「罪と死」に定めた律法の代わりに、私たちの心に創造主なる聖霊ご自身が住んで、私たちが真心から主の御教えを実行したいという思いに変えられるという、心の底の変化が、キリストによって実現したからなのです。
そのことがさらに、「肉によって弱くなったために、律法にはできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰したのです」(8:3) と記されます。
ここにクリスマスの意味が記されています。私たちは神からの最高の贈り物である聖書の教えを受けても、この身体がアダムの子孫のままであっては、神の御教えに反抗し、それを実行することができなくなっています。それで神はイエスを私たちと同じ罪深い肉の姿でお送りくださり、肉の思いに縛られない生き方を新しく示してくださいました。それは私たちが自分自身のうちにある肉の力によってではなく、聖霊の力によって生きるときに開かれるものです。
では御霊によって生きるとは、どのような歩みなのでしょうか。
このパンデミックは、被造世界全体の「うめき」とも言えます。そのことがローマ人への手紙8章22、23節では、「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」と記されています。
私たちは、聖霊を受けたら、何が起きても心が平安で満たされるようになると思いがちですが、ここでは御霊の初穂を受けた者は、この世界の悲しみのうめきを敏感に聞き取るようになって、その痛みに自分の心が共鳴して呻かざるを得なくなるというのです。
あなたのまわりの人々に今年も様々な悲しみがあったことでしょう。それに合わせて、「どうして、このような事態になってしまうのだろうか……」と、解決が見えないまま「うめく」ことに聖霊の働きがあるというのです。しかも、問題の最終的な解決のためには、「私たちのからだ贖われる」というキリストの再臨まで待つ必要があるのですから、気の遠くなる話です。
ただ、24節で「私たちはこの望みとともに救われたのです」とあるように、当面与えられている「救い」とは、現実の変化というより、確かな「望み」が生まれることに他なりません。
実は、この世界の様々な問題は、目の前の問題を急いで解決しようとするところから生まれます。日本では、経済か感染対策かで意見の対立が生まれますが、ドイツのメルケル首相は、繰り返し、これは選択の問題ではない、感染対策も経済も教育も文化もすべてが同じように大切なのだと言っています。
しかし、現実には、日本でGoToキャンペーンを進めると、感染が広がったと批判されています。もっとどうして、あちらを立てればこちらが立たずという現実がある、菅総理大臣も日々悩みながら対策を考えている、彼のために真剣に祈ろうという話にならないのかと思います。
たしかに、それ以前に、もっと菅さんにも判断の難しさを分かち合っていただきたいとは思います。だれも今後の感染状況など分かりはしないのですから、すべての政策判断はある意味で手探りなのです。その葛藤が、国民全体に共有される方が大切なのかと思います。その意味であまりにも目先の議論に走るメディアの責任も大きいです。
26節はさらに厳しい葛藤が、「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」と記されています。
私たちが多くの場合、他の人を厳しく非難できるのは、その人の葛藤を知らないからとも言えます。本当に、当事者になったら、どうして良いか分からない現実が迫ってきます。そこでは、「何をどう祈ったらよいか分からない」という現実こそが、物事の本質がよく見えてきた結果かと思います。しかし、そのような迷いの中で、聖霊ご自身が、「ことばにならないうめきをもってとりなしてくださる」という聖霊の働きが始まります。
これは、問題解決の仕方がよく分かっている人には、聖霊が働かない……という逆説とも言えるかもしれません。しかし、残念ながら、社会は何でも断言できる人を求めているのかもしれません。
とにかく、聖霊は、私たちがどう祈ってよいかわからないというほどに問題に悩み、キリストの再臨まで最終的な解決はないのかと悩み、うめく中でこそ、私たちの中でその働きを始められるというのです。
つまり、聖霊は、悩みのただなかに働かれるのです。どうしてよいか分からずに、悩み「うめく」ことを避けていては、聖霊のみわざを体験できません。とにかく、ここには、被造物のうめき、私たちの心のうめき、御霊のうめきという三重の「うめき」が記されています。
そして、そのようなことの結論として、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) という確信が記されています。
歴史的には、パンデミックは常に、社会全体の構造変化を生み出してきました。ですから、今回も、同じような大きな変化が期待されます。しかし、それは今まで安心していた人の立場を失わせる一方で、新しく力を持つ人々も出てくることを意味します。実は、最近の株価の異常な上昇は、社会のアンバランスを示す指標でもあるのです。人によって危機感や将来見通しが驚くほど違います。
私たちはそのような中で、絶望に向かう変化と、希望に向かう変化の両方を落ち着いて見分ける必要があります。すべての変化には両面があります。そこで私たちには何よりも、主にあって真剣に悩むことが求められているのかもしれません。この世界の問題の解決がそう簡単であったなら、神の御子が私たちと同じ弱い人間として生まれる必要もありませんでしたし、また神の御子が私たちの罪を負って十字架にかかる必要もありませんでした。
しかし、世界の問題の複雑さを覚えて、悩み、うめくときに、そこに聖霊に働きが始まります。どうか、悩みのただ中で、聖霊の臨在を体験できることを求めて行きましょう。そこにこそ「新しい創造」の芽生えが見られます。パンデミックを、主にある新しい創造のきっかけとされるようにともに祈りましょう。