立川チャペル便り「ぶどうぱん」2020年クリスマス号より
見よ。わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。
あなたがたはそれを知らないのか。
必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける (イザヤ43:19)
新型コロナ・ウィルスの脅威がますます激しくなっているように思える昨今ですが、これは社会が大きく変化する契機でもあります。14世紀には黒死病(ペスト)が、東アジアから西ヨーロッパに10年間のうちに瞬く間に広がり、1349年には西ヨーロッパ全体に広がり、人口の三分の一が死亡したと言われます。特にイタリアのフィレンツェでは人口が半分にまで激減します。一方、そのころローマカトリック教会は、政治的な対立から、教皇庁を1309年に南フランスのアヴィニヨンに移さざるを得なくなり、1378年から1417年にはローマとアヴィニヨンに二人の教皇が並立するような異常事態にありました。
ただ、ペストで壊滅的な打撃を受けたフィレンツェでは新しい文化が花開き、1436年には140年間かけて建てられ続けた大聖堂が完成し、イタリアル・ネッサンス前期のシンボルとなります。この間、ペスト以降の社会的大変動の中で、金融、商業の分野でのメディチ家の勢力が台頭し、ローマ教皇庁にまで大きな影響力を持つようになります。そして、16世紀初めにはローマのサンピエトロ寺院建設のための資金を貸し出し、それを免罪符の販売で回収するという、信仰をお金集めの手段にするような堕落を生み出し、それに反発した修道士ルターが1517年に宗教改革運動を始めます。
歴史的には、このような経緯のゆえに、「ペストは近代の陣痛」と呼ばれます。それは伝統的なカトリック教会の権威の喪失と新しい商業金融資本家の台頭、ルネッサンス、宗教改革を生み出すという流れです。しかし、ペストの大流行から宗教改革まで170年もの時間がかかっているのですから、そう簡単に整理できる話でもありません。大きな潮流の変化を見る必要があります。
またペストは頻繁にヨーロッパ全土を襲っており、ルターも生涯で5度もペストの流行に直面しています。特に1527年にペストがウィッテンベルグを襲った際には、王の勧めに逆らってその地に留まり、自分の家を病舎として提供しました。彼は友人に、「2日で12人が死んだ、ペストのど真ん中の我が家で私は暮らしている」と書いています。そして、その際、ルターは第一子として生まれたばかりの長女エリザベスをペストで失っています。しかも、その間ルターは尿管結石、狭心症、耳鳴りなどの様々な病に襲われるとともに、精神的にも悪魔の攻撃を身近に感じ、死と隣り合わせの生活でした。そのような中から、「神はわが砦、わが強き盾」という宗教改革のシンボルともいわれる名曲を記しています。またそのような讃美歌の誕生を契機に、現代の礼拝の形や、様々な自由詩を歌う形が生まれます。
つまり、感染爆発(パンデミック)は新しい時代を開くのですが、そこには金融資本の支配の加速と既存の宗教勢力の没落という負の局面と、人々の心を自由にするルネッサンス文化や宗教改革による真の信仰復興の両面があったのです。そして、それはどの時代に起きるパンデミックにも共通していることだと思われます。事実、1世紀から3世紀のローマ帝国の支配下で、何度もパンデミックが起きましたが、そのたびに既存の宗教の無力さが証明され、聖書の福音を信じる人が増えて行きました。そして、ついにはローマ帝国全体がキリスト教化されるまでになりました。ただ、それと反対に、14世紀のパンデミックは、カトリック教会の衰退を決定づけ、宗教改革を引き起こすようになります。
現代のパンデミックも、同じような作用をもたらすことでしょう。その際に必要なのは、何よりも、神による問題の解決を求めて悲しみを訴え、神に向かって「うめく」ということではないでしょうか。このパンデミックは、被造世界全体の「うめき」とも言えます。そのことがローマ人への手紙8章22-26節では「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています……同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」と記されています。ここには、被造物のうめき、私たちの心のうめき、御霊のうめきという三重の「うめき」が記されています。そして、そのようなことの結論として、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) という確信が記されています。
現代は不思議にも、新型コロナ・ウィルスのために医療機関が悲鳴を上げ、また旅行業界や飲食業が倒産に瀕している一方で、株価は大きな上昇を続けています。日本の日経平均株価は感染拡大への恐怖から今年の2月から3月中旬にかけて大幅な下落を示しましたが、そのあと6月初めまで急上昇します。その後、一進一退を繰り返した後、10月末から再び急上昇に転じ、11月は一か月間としては歴史的な上げ幅である15%もの上昇を見せました。これは米国大統領選挙後の動きとワクチン認証後の景気回復を期待した動きと言われています。それにしても、今年3月からの上昇幅も50%を超えるほどになっており、1989年のバブル経済を思い起こす展開となっています。この第一の理由は、コロナ不況への対策のために大量にお金が政府、日銀から供給されたためと言われますが、そうは言っても、将来への展望がなければ、株価は上がらないわけで、意外に多くの人々が、新型コロナの被害よりも、これを通して日本経済の体質が変えられることを期待しているからとも言えましょう。
歴史的には、パンデミックは常に、社会全体の構造変化を生み出してきました。ですから、今回も、同じような大きな変化が期待されます。しかし、それは今まで安心していた人の立場を失わせる一方で、新しく力を持つ人々も出てくることを意味します。実は、この株価の異常な上昇は、社会のアンバランスを示す指標でもあるのです。人によって危機感や将来見通しが驚くほど違います。
とにかく、パンデミックは社会が大きく変わる契機になります。そこには絶望に向かう変化と、希望に向かう変化の両方があります。そこで大切なのは、何よりも、歴史の支配者であられる全能の神との交わりの中で、私たちの歩みを進めて行くことです。冒頭のみことばにあるように、すでに神が始めておられる「新しいこと」の「芽生え」を、いまここで発見することが何よりも大切と言えましょう。
ただ同時に、そこには決して変わってはならないこともあります。それはともに礼拝し、ともに賛美と祈りを献げ、ともに食事をするというような、主にある密接な交わりです。現在、急速な勢いで進んでいるインターネットを通しての交わりは、対面による交わりを補強することはできますが、完全に代替されるものではありません。変わってよいことと、変わってはならないことの区別をつけることも大切です。それは三千数百年前から記された聖書を通して明らかにされることでもあります。