私たちはイエスを救い主と告白することで「救われる」と教えられますが、その「救い」とは、目の前の様々な課題の解決となかなか結び付けては理解できないことかも知れません。
しかも、旧約預言の成就と言われても、それがたとえば、現実の新型コロナの恐怖と、どのように関係しているというのでしょう?
1.「二人とも神の前に正しい人」「彼は、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ」
なぜルカは、イエスの誕生に先立って、バプテスマのヨハネの誕生の経緯を、神殿での祈りから始めて詳しく描いているのでしょう?
ヨハネの母「エリサベツは不妊の女」(7節) であり、ヨハネの働きは「ダビデの王位」(32節) を復興する「救い主」の道を備えるためでしたが、その記述から当時の多くの人はすぐに、ダビデを王に立てた預言者サムエルの誕生を思い浮かべたことでしょう。彼の母ハンナも子が授からなかったので、シロにあった主 (ヤハウェ) の宮で祈っていました。
その後、サムエルが成長する途中で、シロは廃墟になり、彼の最大の働きは、ダビデに油を注いで王に任じるという備えの働きになります。そしてヨハネの働きも、ダビデの子である救い主イエスにバプテスマを授け、王としての油を注ぐことでした。
ザカリヤとその妻は、「二人とも、神の前に正しい人」(6節) と描かれます。それは主を信頼し、いつでも主に祈る人という意味です。また、「主のすべての命令と掟を落度なく行っていた」とは、結果を出すことより、主の目を意識して、与えられた務めに忠実だったとも理解できます。
そしてここでザカリヤは、「祭司の務め」(8節) として最高の栄誉である「主の神殿に入って香をたく」(9節) という務めを果たしていました。そこは、神殿の至聖所を仕切る幕の前で、祭司一人だけが入ることの許された聖所の最奥の部分でした。
ただし、主は、旧約の最後の預言者マラキ以来、沈黙を続けておられました。しかも、ヘロデ大王が大拡張工事で広げたこの神殿は、外見は豪華でも、肝心の十戒の「石の板」が失われたままで、「主 (ヤハウェ) の栄光」は見られないままでした。
ところが今、「主の使い」が、香をたいている最中の「香の祭壇の右に立った」(11節) のです。長く沈黙しておられた神が新しい啓示を与えてくださいました。
そこで「御使い」は「あなたの願いが聞き入れられた」(13節) と言います。その願いとは、息子の誕生という個人的な願いであるとともに、神殿に主の栄光が戻り、ダビデ王国が復興するという民族全体の願いでもありました。
さらに御使いはザカリヤに対し、「不妊の女」と蔑まれていたエリサベツから預言者が誕生し、「その子はあなたにとってあふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます」と告げます (14節)。
しかも、「彼は……まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ」(15節) と告げられますが、ヨハネが神のみわざのために用いられるのは、両親の教育や彼自身の努力以前に、「神の選び」によるのです。
そして、その同じ神が、あなたをも選んで聖霊を与えてくださいました。その時期が違うだけのこととも言えましょう。
そして、「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ」(17節) とは、旧約聖書最後の預言、「わたしは、主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ……」(マラキ4:5、6) ということばに基づきます。
サムエルもダビデも子育てにおいて失敗しましたが、新しい救いの時代は、家庭の機能回復から始まるのでしょう。
同時に「彼は……不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します」と言われます (17節)。
マラキでは、さばきが強調されていましたが、ここでは主の救いに備えるという面が強調されます。両方とも真実なのですが、マラキはユダヤ人への警告を目的とする一方、ルカは、最後のさばきの前に、異邦人が主に立ち返るという救いの広がりの面を強調したのだと思われます。
ザカリヤから生まれる者は、世界の歴史の完成を告げる最後の預言者として、人としての最も栄誉ある働きにつきます。
あなたも、「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)、主から与えられた使命に忠実に、御前に心を開く祈りの生活を続けるなら、主はあなたを通してご自身の救いのご計画を進めることができます。あなたが主を礼拝していることも主の選びによるのであり、新しいことは既に始まっているのです。
2.「主は今……私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」
ところがザカリヤは、「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています」(18節) と答えてしまいます。そこには、人知を超えたことばに対する疑いが見られます。
それでザカリヤには、心が柔らかくされるための期間が与えられます。それはさばきであるとともに神の恵みです。御使いは「これらのことが起こる日まで」という限定期間付きで、彼が「口がきけなくなり、話せなくなります」(20節) と告げられます。彼には、神殿から出た後に、人々に向かってこの驚くべき神の救いのご計画を語り告げるという使命がありましたが、その準備ができていなかったからです。
さらに続く、「その時がくれば実現する」(20節、1節参照) とは、この書のテーマの一つでもあります。人はしばしば、自分の期待の実現は待ち望めても、神のみこころの実現を待つことができません。
ザカリヤは「その時が来る」まで、聖書を注意深く読み、神の救いのご計画に思いを馳せることができました。しばしば、このような苦しみの時期は、真の意味で神の救いのご計画を思い巡らすための機会として用いられます。
その後、妻のエリザベツも身ごもった後、「五ヶ月の間、身を隠し」ます (原文24節脚注参照)。夫は口がきけませんから、彼女は一人で主の御前に静まり、身に起こったことに思いを巡らしたことでしょう。
その際、エリサベツは自分のことばで、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言います (25節)。これは、サムエルの母ハンナが、「私の心は主 (ヤハウェ) にあって大いに喜び……私の口は敵に向かって大きく開きます……不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が打ちしおれてしまいます」(Ⅰサムエル2:1、5) と賛美したことを思い起こさせる告白です。
彼女たちは「不妊の女」として人々の恥にさらされていることに何よりも心を痛めていました。主は、それぞれの心の痛みを決して軽蔑されることはありません。彼女たちのすばらしさは、主の御前に自分の心の痛みを訴え続けたということにあります。
そして、彼女たちの極めて個人的な心の痛みとイスラエルの痛みは、主の前で一つになっています。自分の痛みを正直に受け止め、主に訴えることは、世界全体の救いにつながっているのです。
私たちは、自分に対する主のご計画、また、主からの使命をなかなか理解することができません。それは、探して見つかるというより、主との日常生活の交わりの中で、主ご自身から与えられるものです。
ですから働きの成果にばかりに目を留めず、今与えられている責任を忠実に果し主に心を開き続けることと、また、何かが示されたなら、それにすぐ応答できるように心をやわらかくしておくことが大切なのでしょう。
3.聞いた人たちは、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。
1章57、58節では、「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ」と記されますが、バプテスマのヨハネの誕生は、神の「大きなあわれみ」と見られました。
「不妊の女といわれていた人」(36節) からの誕生は、先のサムエルばかりか、イサクやヨセフの誕生、マノアの妻から生まれたサムソン (士師13:2) の例にもあるように、神の不思議な救いのみわざと結びついています。
しかも、ザカリヤがエルサレム神殿で祭司の務めを果し「やがて彼は出てきたが、彼らに話をすることができなかった。それで彼が神殿で幻を見たことが分かった」(22節) と描かれた状況は、多くの目撃者の中で起こった神の不思議でした。
それで彼らは、生まれる子が父の後を継ぐ祭司としての名をつけられると期待していましたが、母は意外にも「ヨハネ」という名を主張しました。それはヘブル語で「ヨハナン」(主は恵み深い)で、珍しい名ではありませんが、「あなたの親族にはそのような名の人は一人もいません」(61節) と言われたように、それまでの家の枠組みを超えた名前でした。
それで、ザカリヤの意見を聞いたところ、彼も「その子の名はヨハネ」と書きました。それは御使いから告げられた名で (13節)、その命名は神への従順の行為でした。
そこで、「すると、ただちにザカリヤの口が開け、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた」(64節) と描かれます。つまり、人々の目にも、この命名が神ご自身によることが明らかにされたのです。
そのように生まれる子の名が神から与えられることは、イサクの誕生の場合は別として、サムソンの場合でも、サムエルの場合でもなかったことでしたから、人々は「いったいこの子は何になるのでしょう」(66節) と言いました。
ザカリヤもエリザベツも「神の前に正しい人」(6節) であり、神殿での働きに忠実でしたから、人々はこの子を通して「主 (ヤハウェ) の栄光」が神殿に戻って来ることを期待したことでしょう。当時の神殿は、敷地だけはソロモン神殿に遥かに勝っていましたが、至聖所には肝心の「契約の箱」がなかったからです。
ただし、子の命名にも現れているように、神のみわざは彼らの期待の枠を越えるものでした。
私たちも、神のみわざを、自分たちの期待の範囲でとらえてしまいがちです。それは、仕事の成功や、結婚の導きであったり、人間関係の改善であったりします。
しかし、神は、「見よ。わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」(イザヤ43:19) と言われます。しばしば、神の恵みとあわれみが見えないのは、大流星群の到来を聞きながら、別の方向の空を見上げて、「私は何も見えなかった!」と失望しているようなものです。
「神は、世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」(エペソ1:4) と記されるように、私たちも神によって選ばれ、神によって備えられた使命があります。
親の期待が込められた名は本当に大切ですが、同時にそれを越えた神からの期待を表す名を発見する必要もありましょう。それは人間的な期待の枠から自由になるためでもあります。
4.「私たちの敵からの救い」とは?
68節から79節は、「ザカリヤの賛歌」、またはラテン語の最初の語から「ベネディクトス」と呼ばれます。これはザカリヤが、「聖霊に満たされて預言した」(67節) もので、賛歌の中心は、イスラエルの民の「購い」(68節)です。
それは当時の人々にとっては、ローマ帝国の奴隷状態からの解放を意味しました。それはかつて彼らがエジプトの奴隷状態から、またバビロン帝国の支配から解放されたことと同じです。
そのためにダビデの家に「救いの角」(69節) が立てられると預言されます。「角」は力と勇気の象徴で、ダビデの家系から力強いリーダーが現れ、国を独立させることと思われました。
それは「聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに」(70節) と言われますが、たとえばエレミヤ33章14節以降には、当時、目の前に迫っていたバビロン帝国によるエルサレムの破壊とセットに、「見よ、その時代が来る……わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす……わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う……ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない」(14、15、17節) と預言されていました。
しかもその際、「昼と夜が、定まった時間に来る」という神の契約が守られ続けているのと同じように、このダビデとの契約も破られることはないと保証されます (同20節)。
しかもその際、「この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである」(71節) と言われます。つまり、目に見える異教の王の支配からの解放が約束されていたのです。
その上で、「主は……ご自分の聖なる契約を覚えておられた。私たちの父アブラハムに誓われた誓いを」と記されます。それは主が彼に「あなたは祝福の基となる」(創世記12:2共同訳)、また「あなたは多くの国民の父となる……王たちがあなたから出てくる……わたしはあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」(同17:4、6、7) と約束されたことです。
そのことがさらに、「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく」(74節) と描かれます。
それは当時の人々にとって、ローマ帝国ではなく、あわれみに満ちた神のご支配のもとで、何の制約もなく、神の栄光に満ちた神殿に仕える自由を意味しました。当時は、神殿全体を見下ろすアントニア城塞という軍の砦が併設され、監視されているという屈辱がありましたが、そのような制限がなくなるという救いでした。
しかし、救い主として現れたイエスは、そのような期待をことごとく裏切ったように思えました。何しろ、救い主自身がローマ帝国の十字架刑で殺されたからです。ザカリヤの預言は、はずれたのでしょうか?イエスが実現した「神の国」とは何でしょう?
イエスは、「からだを殺してもたましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」(マタイ10:28) と言いましたが、当時の王国は、「剣」で人を脅し服従させていました。それから数百年後、ローマ帝国はキリスト教を国教とし、イエスの前にひざまずくようになりました。それは、初代教会の信者たちが、死の脅しに屈しなくなり、剣でクリスチャンが支配されなくなった結果でした。
それは、神の御子が人となったことから始まります。へブル人への手紙はその目的に関し、「子たちがみな血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、無力化するためであり、また、死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」(2:14、15) と記されます。
「死」は私たちの敵です。それは、愛する者との別れ、どんなに豊かな人も裸にされて灰にされ、すべての労苦が無駄に見えるときです。
しかし、神の御子は、死ぬことができる身体となって、私たちを死の恐怖から解放してくださったのです。それをもとに拙著へブル書の解説の本のタイトルが、「恐怖からの解放者イエス」とされました。
クリスマスこそ、イースター・復活祭の前奏曲です。救いの完成は、朽ちることのない復活の身体を受け、死の力から完全に解放されるときです。
仏教やギリシャ哲学的な二元論は、肉体を軽蔑し、救いを「たましいが肉体から解放され天国に行く」ことに矮小化する傾向があります。しかし、イエスの救いは、今ここから始まり、全世界が新しくされ平和に満たされることに及びます。それを覚えるとき、この世の暴力やリストラの脅しから自由になり、様々な問題に取り囲まれながら、主にある勝利を確信して喜ぶことができます。
5.神殿での祈りから生まれ、人々の目を神殿から自由にしたヨハネ
「幼子よ、あなたこそ いと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に知識を教えるからである」(76、77節) と記されますが、この書では、神殿での祈りから始まるヨハネの誕生を、ダビデ王国の道備えをしたサムエルの誕生と関連付けます。
それは、サムエルがイスラエルを主 (ヤハウェ) に立ち帰らせていなければ、ダビデは民をまとめることはできなかったからです。サムエルの預言者としての働きは、契約の箱が奪われる中で始まり、その本質は、人々の「心を主 (ヤハウェ) に向け、主にのみ仕え」(Ⅰサムエル7:3) させたことでした。
そこでの「罪の赦しによる救い」も、神の幕屋でのいけにえによってではなく、人々の心が主に立ち返った結果として描かれています。
つまり、「罪の赦しによる救い」は、私たちの功績以前に、「神の深いあわれみ」(78節) を理解し受け入れることよるのです。
さらにそこに実現する救いが、「そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」(78、79節) と描かれます。
そこでは「曙の光」が、ローマ帝国やこの世の支配者との戦いではなく、「平和の道」へと人々を導くというのです。そして、この祭司ザカリヤから生まれた子は、神殿で仕える代わりに、「成長し、その霊が強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた」(80節) と意外な展開が描かれます。
それは、エルサレムにおいて、神殿を中心に権力構造ができており、「罪の力」は「最も聖なるもの」を「争いの原因」としていたからです。それもサムエルが登場する前の祭司エリの子の堕落の状況と同じです。
不思議な逆説ですが、豪華絢爛たる神殿での祈りから生まれたヨハネは、人々の目を荒野へと向けさせたのです。それは、神との交わりに邪魔になるものを敢えて退けることを意味したとも言えましょう。
預言者マラキの時代以来、沈黙しておられた神が、新しいダビデ王国を再建する救い主の到来の道を備えるバプテスマのヨハネの誕生を告げます。それはダビデに油注いだサムエルの働きと重なります。
その後、意外にも、神殿での祈りから生まれたヨハネは、人々の心を神に立ち返らせるために、神殿でのいけにえ礼拝に導く代わりに、ヨルダン川でバプテスマを施しました。それは神殿の否定のように見えましたが、神殿の本質に立ち返らせる働きだったのです。
私たちはこの目に見える世界に生きています。しかし、そのすべての背後に、神のあわれみに満ちた「選び」がありました。それは、この世の営みを否定することではなく、矛盾に満ちた世のただ中に少しずつ実現する神の救いを証しすることです。
それはまた、目の前から問題を無くすことではなく、人生の嵐のただ中で、神の完全な守りを体験できることです。