明日12月4日は中村哲さんがアフガニスタンで長らく苦境に立つ現地の人々にお仕えしながら凶弾に倒れて1周年になります。今朝、日本経済新聞のコラムに、彼のことを「義理と人情のクリスチャン」と表現していることに、何か目が開かれた思いがします。
クリスチャンは自分の国の価値観から抜け出ることを考えがちですが、「義理と人情」には、やはり文化を超えた美しさもあるのではないでしょうか。
中村哲さんの功績が、アフガニスタンで絵本として子どもたちに語り継がれ始めているようです。そして何とその日本語訳が、あのさだまさしさんによってなされています。
さだまさしは中村哲さんの生き方に深い感動を覚えて、「一粒の麦」という曲を書いて歌っています。とっても感動的な歌詞です。以下でお聞きいただけます。
イエスはご自身の十字架の死を預言して、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24) と言われました。
そして、中村哲さんは、一粒の麦として、アフガニスタンの地で命を落としました。しかし、その死は決して無駄にはなりません。彼が医師でありながら、水路の作成に情熱を燃やされました。それが現地の人々の必要に答えることだと感じたからです。
クリスチャンはときにあまりにも内省的に自分を厳しく見る傾向があるかもしれません。しかし、あの欠けだらけのダビデが、自分の生涯を振り返って、「私は主の前に完全であり、罪から身を守った」と詩篇18篇で告白しているのです。このダビデの詩は、ダビデの生涯を振り返る歌としてⅡサムエル記22章にも記されています。
中村哲さんは現地の人々の必要とともに、天地万物の創造主のまなざしを意識しながら、自由に生きられました。神は、減点主義者ではあられません。欠けだらけの私たちが何かの課題を見て、そのために情熱を注いで生きること自体を喜んでくださいます。ある意味で、もっと図々しく、神に対して自分の正当性を主張し、神の前に大胆な行動を取っても良いのかと思わされます。以下は詩篇18篇の部分私訳です。ともに味わっていただければ幸いです。
詩篇18篇20-28節
主 (ヤハウェ) は、私の義に応じて報い、
手のきよさに応じて返してくださった。
それは、私が主 (ヤハウェ) の道を守り、
私の神に対し悪を行わなかったから。
主のすべてのさばきは私の前にあり、
主のおきてを私は遠ざけなかった。
私は主の前に完全であり、
罪から身を守った。
主 (ヤハウェ) は、私の義に応じて、
御目の前の私の手のきよさに応じて、返してくださった。
あなたは、真実な者には真実であられ、完全な者には完全であられ、
きよい者にはきよく、ひねた者にはご自身を隠される。
あなたは、貧しい民を救ってくださるが、
高ぶる目は、低くされる。
あなたは私の灯火(ともしび)を灯され、
主 (ヤハウェ)、私の神は、私のやみを光とされる。