「あのことのせいで……」という「恨み」「後悔」「怒り」などに囚われている時、ふと、より大きな神の物語の中に「自分の居場所」を見出せるなら、「赦し」と「和解」がずっと楽になるのではないでしょうか?
創世記37章以降を、「ヨセフ物語」と呼ぶことによって、見失われがちのこともあるような気がします。今回の箇所には、特にイスラエル民族としての一致の基礎を見ることができるように思えます。
不思議にも、奴隷に売られ、無実の罪で牢に入れられたヨセフ本人の心理描写が記されず、冗長とも言える家族間の会話に多くの紙面が割かれていますが、そこにこそ、驚くべきメッセージが隠されているように思えます。
1.ヨセフを奴隷に売ったユダの悔い改め
兄たちはヨセフを「あの夢見る者」(37:19) と呼んで、奴隷として売り飛ばしましたが、神は彼をエジプトの王の夢を解き明かさせることを通して、エジプトの宰相にしました。そして、飢饉のために食物を求めてやってきた兄たちは、ヨセフの前にひざまずきます。これは、かつて見た夢の通りでした (37:7)。
42章9節は、「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出した」で一度文章を切って、「それで彼らに言った。『お前たちは回し者(スパイ)だ……』」と訳すべきでしょう。ヨセフは復讐心で彼らに難癖をつけたわけではないからです。
人が恨みに囚われるのは、「あのときのせいで、こんな不幸になった」と思うからで、今、ここで心に余裕があれば、冷静に対応できます。ですから、ヨセフはその時、かつての「別の夢」(37:9)、父と母と11人の兄弟たちが彼を伏し拝むという意味の「夢」をも思い起こし、全家族を自分の所に来させようと瞬時に思い巡らし、彼らをスパイ呼ばわりすることで、家族のことを話させようとしたと考えるべきでしょう。
兄たちは目の前にいる「この地の権力者」(42:6) がヨセフであるとは露も知らずに、嫌疑を晴らすために、「私たちは正直者でございます」(42:11) と言います。父にヨセフのことを偽った者たちが自分を正直者というのは笑止千万ですが、それこそ鍵のことばです。
彼らは自分たちの家族構成を説明し、「末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました」(42:13) と言います。それに対し、ヨセフは、末の弟を一人の人が連れて来るまで彼らを監禁すると言いつつ、三日間、彼らを閉じ込めます。
そして、三日目に彼らに、「このようにして、生きよ。この私は神を恐れる者だ……兄弟の一人を監禁させ……穀物を持って行け」(42:18、19私訳) と、新たな提案をします。ヨセフはここで、彼らと同じ神を恐れていると言っているわけではありませんが、このことばによって彼らの目を神のご支配に向けさせようとしたのではないでしょうか。
正直者かを問われ、一人を監禁するとの提案を聞き、兄たちはヨセフに自分たちのことばが通じるとは思わず、「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれがあわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった」(42:21) と互いに言い合います。ヨセフはそれに心を動かされ、「彼らから離れて、泣いた」(42:24) と描かれます。
そして、末の弟が来るまでシメオンを人質にしようと縛ります。次男である彼に代表責任を負わせたのは、長男ルベンの無実が分かったからだと思われます。
その後ヨセフは彼らに食料を持たせて父の家へと送り返しますが、その際、穀物の代金までも気づかれないようにそれぞれの袋に返してやりました。帰路の途中で一人がそれに気づいたとき、彼らは「身を震わせて」、互いに「神が私たちなさったこれは、いったい何なのだろう」(42:28私訳) と言い合います。彼らの心に、神への恐れがよみがえってきているかのようです。
そして、父のもとに帰った時、彼らは事の顛末を報告します。不思議なのは、それまでの会話が細かく再現されていることです。それによって、読者の心はヨセフと兄たちとの緊張関係に向けられます。
そして彼らは自分たちの袋すべてに「銀の包み」があるのを発見して、父とともに「恐れた」(42:35) と記されます。なお悪いことが起きるかと思ったのでしょう。
そのような中でルベンは、ベニヤミンをエジプトに連れて行って、再びヤコブのもとに「連れ帰らなかったら、私の二人の子を殺してもかまいません」(42:37) とまで言って保証します。ここにはルベンの必死さが現れますが、ヤコブがそのような乱暴な提案に乗る可能性があると思うこと自体が不思議です。
それに対しヤコブは、「私の子は、おまえたちと一緒には行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから」(42:38脚注) と言いますが、まるでヤコブにとっては他の子たちなど、どうでも良いかのようです。
43章では、穀物を食べ尽くした後、ヤコブの方から再びエジプトに穀物を買いに行くことを願う様子が描かれます。ヤコブには目の前の飢えの心配しか見えていないかのようです。
それに対し、今度はユダがベニヤミンを連れて行く必要を説き、「私自身があの子の保証人となります」(43:9) と言いつつ父の説得に成功します。
その際、ヤコブの名が6節以降は「イスラエル」と描かれながら、「全能の神 (エル・シャダイ) が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そしておまえたちのもう一人の兄弟とベニヤミンを渡してくださるように。私も子なしになるときにはなるのだ」(43:14一部私訳) と言います。今人質とされているシメオンを「おまえたちの兄弟」と呼び、ベニヤミンを失う可能性しか考えていないことには唖然とします。
ただ、イスラエルが自分にとっての最悪が起こることも全能の神の御手の中にあることを認め、全てを神に委ねる祈りが記されることは画期的です。これは、主ご自身が、アブラハムへの契約をヤコブにも同じように保障したときに用いたご自身の「全能」を強調する呼び名で (35:11)、神への信頼の証しです。
43章16節以降で、ヨセフは兄たちが弟を連れて来たので、彼らを手厚くもてなすために自分の家に招き入れます。彼らは恐れて、前回の「銀」を返したいと願いますが、それは彼らがかつて「私たちは正直者です」と繰り返し (42:11、31)、ヨセフも「おまえたちが正直者かどうか」を試した(42:19、33、34)という流れから大切なことでした。
それに対しヨセフの家の管理者は、イスラエルの神を意識しつつ「あなたがたの父の神が……宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました」(43:23) と安心させ、シメオンを解放します。これによって彼らの正直さが証明されました。
その後ヨセフが家に帰ってきたとき、父の安否を尋ね、「同じ母の子である弟のベニヤミンを見て」、「わが子よ、神がおまえを恵まれるように」と言いつつ、「弟なつかしさに胸が熱くなり……急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣き」ます (43:29、30)。
44章で、ヨセフは彼らを食料とともに送り帰すと見せかけ、ベニヤミンの袋に愛用の銀の杯をしのばせ、盗人に仕立て上げ、捕えました。それは兄弟たちを試すためでした。ヨセフは父に溺愛され、兄たちから憎まれましたが、ベニヤミンも同じではないか心配だったことでしょう。それで、ヨセフはベニヤミンを自分の奴隷とし、兄たちを父のもとに帰すと言います。
それに対しユダは必死に彼にすがりますが、ここでも父との会話が詳細に繰り返され、家族関係に私たちの心が向けられるように記されています。
そこでユダは、まったく父の気持ちになりきって、「私の妻は二人の子を産んだ。一人は私のところから出て行ったきりで、きっと獣にかみ裂かれてしまった……おまえたちがこの子まで私から奪って、この子にわざわいが降りかかるなら……白髪頭の私を、苦しみながらよみにくだらせることになる」(44:27-29) と、父の言葉を紹介します。
レアの子であるユダにとって、ラケルだけが「私の妻」と呼ばれ、自分たちが「子」と見られていないことは何よりも辛いことでしたが、その父親失格者の気持ちを真正面から受け止めています。
そればかりか、ユダは、自分が父に対してベニヤミンの安全を保証したと言いつつ、「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を……帰らせてください」(44:33) と、自分をベニヤミンの身代わりにして欲しいと懇願しました。
ヨセフを奴隷に売った張本人が、父親の悲しみを自分の悲しみとして、自分を妬ましいラケルの子の身代わりの奴隷として差し出そうとしています。
2.「わたしは、エジプトで、あなたを大いなる国民とする」
ヨセフはそれに心を動かされて、部屋から他の人をみな出したうえで、「私はヨセフです、あなたがたがエジプトに売った弟の」(45:4) と正体を明かしました。しかし、それと同時に、「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました」(45:5) と言って彼らを安心させました。
ここでは何と、兄たちによって「奴隷に売られた」ことを、「神に遣わされた」ことへと言い替えています。彼は自分の身に起こった、許しがたい悲劇を、イスラエルの民への神の救いのご計画の物語の一部分として再構築(リフレーミング)することができたのです。
私たちもキリストとともに苦しみことで、キリストとともに栄光を受けると約束されています (ローマ8:17)。私たちもときにヨセフと同じような不条理な苦しみを受けるようなことがあっても、それは神が私たちを用いて、より多くの人々をご自身の救いにあずからせるためと言えます。あなたの苦しみは無駄にはなりません。
その上でヨセフは、「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を……エジプト全土の統治者とされました」(45:8) と言って、父のヤコブと全家族をエジプトに呼び寄せます。飢饉があと五年続くと神から示されていたからです。
それからヨセフは、弟ベニヤミンと抱き合ったばかりか、自分を奴隷に売った「兄弟みなに口づけをし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った」と描かれます (45:15)。その情景は何と感動的なことでしょう。実はこれこそが、いわゆるヨセフ物語と呼ばれる部分のクライマックスだと思われます。物語の中心はヨセフの成功というより「兄弟の和解」にあります。
そして、ヨセフの兄弟たちが来たという知らせを、何とファラオとその家臣たちも喜んだというのです。それは、ヨセフが尊敬されていた証しでもあります。
そればかりか「ファラオの命により」、ヨセフは父に「エジプトの最良のものを積んだろば十頭と……父の道中の食料を積んだ雌ろば十頭」を贈り (45:21、23)、イスラエルの全家族をエジプトに呼び寄せました。ヤ
コブはヨセフの兄たちのことばをすぐに信じることはできませんでしたが、「ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた」(45:27) と描かれます。
最後のことばは、「父ヤコブの霊は生き返った」とも訳すことができます。彼は「私の息子のヨセフがまだ生きている」こと自体を「十分だ」と喜び、ヨセフに会うためにエジプトに向かいます (45:28)。
イスラエルはヘブロンを旅立ち、途中の「ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げ」ます (46:1)。そこはイサクに主 (ヤハウェ) が、「わたしは、あなたの父アブラハムの神である」とご自身を現わしつつ、アブラハム契約を更新してくださった地だからです (26:23、24)。
それに対し、その夜の幻の中で、神は「ヤコブよ」と呼びかけ、「わたしは……あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。このわたしがあなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ戻る」(46:3、4) と言われます。
神はかつてイサクに「エジプトへ下ってはならない」と言っておられましたから (26:2)、ヤコブはこれを聞いて、心から安心してエジプトに下ることができました。
その上で、エジプトに下った息子たちとその子たちの名前が記され、「エジプトに来たヤコブの家族は全部で七十人であった」(46:27) と記されます。彼らはエジプト人が忌み嫌う「羊を飼う者」(46:32、34) として、その地の偶像礼拝の文化に同化することなく、約束の地に近い肥沃なナイルデルタ東側のゴシェンで増え広がることができました。
反面、エジプト人は飢饉の中で、自分たちの「からだと土地」(47:18) までもファラオに売らざるをえなくなりました。これは理不尽なようですが、当時のエジプトは中間王朝末期の混乱期で、ファラオの家が豊かになることは政治的安定に寄与し、民も感謝していたことでもあります (47:25)。
ヨセフは父ヤコブをファラオの前に立たせますが、そこで「ヤコブはファラオを祝福した」と記されます (47:7)。ファラオが彼の年齢を尋ねたのに対して、130年と答えながらも、「私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、年月には及びません」と続けたのは、謙遜さであると同時に、自分の先祖の神を誇るものでもあります (47:8、9)。
その上で再び「ヤコブはファラオを祝福して……立ち去った」と記されます。ファラオではなくヤコブこそが祝福の基であると描かれています。
つまり、神はヨセフを用いて、エジプトに平和を実現するとともに、「イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得て……大いに数を増やした」(47:27) というのです。これは、ヨセフが異教の王に誠実に仕え、信頼を得ることができた結果です。
しかし、それはすべて、神のみわざであったことを決して忘れてはなりません。もちろん、そのようにその神のご計画が成就したのは、ヨセフが、自分の悲劇を、神の救いのご計画の中でとらえることができたためでもあります。私たちも、自分を悲劇の主人公に仕立てることなく、自分の人生を神の救いの物語の一部としてとらえなおすことが大切でしょう。
3.「神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました」
イスラエルは、死が近いのを知って、ヨセフを呼び寄せ、「私をエジプトの地には葬らないでほしい……先祖の墓に葬ってくれ」(47:29、30) と願います。エジプトで豊かにされても、アブラハムの子孫にとってはカナンこそが神の約束の地だからです。
彼は自分の子孫が、やがて約束の地を所有することを夢見ながら死のうとしています。同じように私たちも、「神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んで」(Ⅱペテロ3:13)、「地上では旅人であり寄留者であることを告白し」(ヘブル11:13) 続けます。
ヤコブは自分の死がさらに近づいたとき、「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して……」という28章のベテルの体験をヨセフに改めて伝えます。
その上でヤコブは、ヨセフを長子として二倍の相続権を与えるために、彼の子のマナセとエフライムに他の子と同じ立場を与え、特に次男のエフライムに長子の祝福を与えます。そこから後に、イスラエルの民を約束の地に導き入れたヨシュアが生まれ、最良の地シェケムを受け継ぎます (48:22)。
いつ帰れるか知れない土地の分配に関わる祝福こそ、信仰のわざです。私たちも、目に見える現実を超えた神の祝福を信頼して、今この時を生きるように召されています。
その上で、ヤコブは12人の子供たちそれぞれに「ふさわしい祝福」(49:28) を与えます。そこでは、最初の三人の息子に対する厳しいことばと対照的に、「王権はユダを離れず……」(49:10)という祝福が語られます。ここに後のユダ族の成長と繁栄の基礎があります。そこからダビデが生まれるのです。
なお、ヤコブは最後に、12人の子供たちすべてに対して、先祖の墓ヘブロンのマクペラの洞穴 (49:29) に自分を葬るように願います。その際、レアをサラやリベカに並べて言及し「そこに私はレアを葬った」と言います (49:31)。かつては、ラケルだけを自分の妻かのように呼んでいた彼が、最後に家族の一致を強調したかのようです。
ヨセフは父をエジプトの医療技術を用いてミイラにし、ファラオのすべての家臣たちも引き連れ、「たいへん立派で荘厳な哀悼の式を……七日間……行なった」(50:10) のですが、その地は「ヨルダンの川向こう(東岸)」でした。
その上で、「息子たちは彼をカナンの地に運び」(50:13)、アブラハムがサラのために買った墓地に葬りました。それは出エジプトのリハーサルのようでした。神は彼らに「夢」を見させようとされたように思えます。
神はかつてアブラハムを深い眠りに落とし、「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、四百年の間、奴隷として苦しめられる。しかし……その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出てくる」(15:13、14) と語られました。それこそ、イスラエルの子らが成就を待ち望むべき真の「夢」でした。
その後、兄たちはヨセフの復讐を恐れ、父の遺言として「おまえの兄弟たちは実に……悪いことをしたが、兄弟たちのそむきと罪を赦してやりなさい」(50:17) と言っていたことを持ち出して、赦しを乞います。それは、父が敢えて直接ヨセフには命じずに、兄たちの謝罪に任せたという意味であったのかと思われます。
ここで、「ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた」(50:17) とあるのは、その父の気遣いが伝わったからとも言えましょう。ヤコブが直接にヨセフに和解を命じれば、父の権威で強制された和解になってしまいます。
その後、兄たちはヨセフの前にひれ伏し、「私たちはあなたの奴隷です」(50:18) と言います。かつて兄たちは彼の最初の夢を聞き、「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか」(37:8) と怒りましたが、それが文字通り実現しました。
それに対しヨセフは、「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」(50:20) と言います。何と神は、人が憎しみで謀った悪さえも用いて、良いことのための計らいへと変えられます。
これをもとに、パウロは後に、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神がすべてのことをともに働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) と告白しました。それは夢物語ではなく、私たちすべての信仰者にとっての最も大切な確信です。
ただそれは、奴隷に売られた悲劇の主人公がエジプトの総理大臣にされる個人の成功物語としてではなく、アブラハムの子孫を「天の星」のように増やし、約束に地に住まわせるという神の救いのご計画の一部として「益とされる」という意味です。
神は、かつてアブラハムに見させた夢を、またヨセフに見させた夢を実現してくださいました。ヨセフ物語とは、その神の物語の一部です。
ですから、ヨセフは死に臨んで、約束の地に憧れつつ、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます、そのとき……私の遺骸をここから携え上ってください」(50:25) と遺言します。ミイラにされ棺に納められたのは、約束の地に向かう準備に他なりません。
囚人奴隷から一夜のうちに総理大臣とされるという劇的な変化を期待するなら、人生は失望に終わるでしょう。聖書が描くのはヨセフ個人ではなく、神の民の物語です。
私たちも好むと好まざるに関わらず、人と組み合わされながら生きています。ですから、自分一人の人生の中での物語の完結に囚われてはなりません。
敢えて言えば、「たとい、私が苦しんでも、それが他の人の祝福の契機とされるなら、それが私の喜びです……」と言うことができる人によって、この世界に愛が広がって行くのではないでしょうか。