新型コロナ感染が再び急速に広がっていますが、その中で、感染対策か、経済か、文化かなどという選択を迫るような発想が既に問題の本質を見失っているのかもしれません。コロナで死ぬ人のことも、将来に絶望して死ぬ人のことも、同じように気に掛ける必要があります。しかも、数年後には感染が収束し、そのような優先順位の選択に悩んでいたこと自体が嘘のように思える状況になることだけは、歴史の教訓として断言することができます。
私たちは、目の前の「あれか、これか」という選択を巡って対立する以前に、また目の前の様々な障害を取り除こうと必死になる以前に、真の意味でこの世界を支配し、歴史を導いておられる天の神に目を向ける必要があります。二千年前にイエスによって始められた「天の御国(神の国)」は、完成に向かって成長を続けています。そのような長期的な視点から現在を見る必要がありましょう。
1.「完成に向かっている天の御国」
マタイ13章は、この福音書で記録されている五つの説教の三番目、まさに真ん中に位置します。
その16、17節では、イエスの弟子たちが「天の御国の奥義」(11節) を既に「見て」「聞いている」ことの「幸い」をイエスは、「多くの預言者たちや義人たちが、あなたがたが見ているものを知覚し(見)たいと切望しながら知覚でき(見られ)ませんでした。あなたがたが聞いているものを聞きたいと切望しながら、聞けませんでした」と言われました。
イエスの弟子とされていることは、預言者たちにとっての憧れの的なのです。ただし、それは、彼らの前の預言者や義人たちが必死にみことばの種を蒔いてきたことへの報酬とも言えます。
その上でイスラエルに長く続いた不毛の時代との比較で、今、ご自身の弟子たちによって、新しい時代、みことばが豊かな実を結ぶことができる時代が到来しつつあることを、「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る(理解する)人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍。あるものは三十倍の実を結びます」(23節) と言われました。
実際、キリストの弟子たちは、イエスの十字架と復活の後、死をも恐れない者に変えられました。彼らはみことばを全世界に宣べ伝える者となり、そのみことばが次々に実を結びました。今、私たちは百倍の実を結ぶ祝福の時代に入っているのです。
それを前提に、24節では、「天の御国は、ある人が良い種を自分の畑に蒔いたことに比べられます」と記されました。
そして31節でも、「天の御国はある人がからし種を取って畑に蒔くことに比べられます」と描かれ、33節でも「天の御国は女の人がパン種を取って三サトンの小麦粉の中に隠すことに比べられます」と描かれ、それぞれが、蒔いた種が爆発的な成長を生み出すという前提で記されています。
そして36節からは、弟子たちへの解き明かしが始まり、「良い種を蒔く人は人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子らです」(37、38節) と言われます。ここではイエスがご自身のことを「人の子」として紹介され、弟子たちが蒔かれた良い種としての「御国の子ら」と呼ばれます。
そして続く箇所では、御使いに毒麦を集めさせて、火で焼かせる権威をお持ちの方も「人の子」として描かれています。つまり、「人の子」こそが、「天の御国」をこの地に始める方であり、また「天の御国」を完成させるお方なのです。
なお、「人の子」とはダニエル書7章13節を思い起こさせる表現です。ただ、そこでの、「見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた」という表現は、しばしば、キリストの再臨として理解されてきました。
しかし、イエスが十字架刑の判決を受ける最大の原因となったのは、ご自身のことに関し、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と言われたことでした (マタイ26:64)。つまり、イエスがご自分をダニエル書7章の「人の子」であると宣言されたことが、神への冒涜と糾弾されて、最高議会で満場一致の死刑へと定められたのです。
なおその箇所でも、またダニエル7章でもその中心は、「人の子」が天の父なる神の「右の座」にすぐに着くということです。つまり、再臨を待つ以前に、イエスが十字架で死に、三日目に復活し、天の父の右の座に着いた「王の王、主の主」(黙示19:16) としての支配が既に始められているのです。
そしてダニエル7章では、四頭の大きな獣というこの世の異教徒の支配者の圧倒的な強さが描かれる中で、「いと高き方の聖徒たちが国を受け継ぎ」(18節) と記されるように、キリストにつながる「御国の子ら」の勝利が描かれています。
そのことがさらに別の観点から、この世の終わりの時代に、「いと高き方の聖徒たちを悩ます」横暴の権力者が現れながら、「さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる」と描かれます (25-27節)。
同じくマタイ13章では「御国の子ら」が受ける栄光のことが、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」(43節) と描かれます。それはダニエル書12章2、3節では、「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます……賢明な者たちは大空のように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく星のようになる」という明確な復活預言として記されます。
それはキリストによって「良い種」としてこの地に蒔かれた私たちが受ける、あらゆる人知を超えた、驚くべき栄光を指します。
つまり、これらのたとえでは、「人の子」がみことばによって「御国の子ら」をこの世界に植え、成長させる傍らで、悪魔が毒麦を蒔き、世界を混乱に陥れるという現実があると描かれ、同時に「人の子」が世の終わりには、ご自身の権威によって毒麦を御使いたちに集めさせ、火で焼かれるという公正なさばきの実現が約束されているのです。
この世の政治は、しばしば、ある特定の集団を敵に仕立て上げ、その敵を排除したら理想的な社会が実現すると人々を駆り立てます。しかし、政策論争が、相手の欠点をあげつらう誹謗中傷合戦になってしまうこと自体が、すでに健全な民主主義から外れています。
残念ながら、この世界にはいつもその時その時の権力者との戦いがありました。そしてそれがときに、血で血を洗う争いになります。それに対して、この箇所は、毒麦を抜き去るのは、「人の子」である救い主の責任であると明記されています。
しかも、その「人の子」は何と、この世の権力者によって無実の罪で、十字架にかけられることを耐え忍ばれた方です。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言われながら、ローマ帝国にご自身の弟子たちを満たして行かれた方です。
2.「すべての宝にまさる天の御国と、厳しいさばき」
44節では、「天の御国は畑に隠された宝のようです」と記されます。当時は銀行に財産を保管するというシステムはありませんから、大切な宝がしばしば畑に隠されたまま、持ち主がいなくなり、何世代もたってから発見されるようなことがありました。
そのような場合、合法的にそれは発見者の物となりますから、「それを見つけた人はそれを隠します。そして、喜びをもって出て行き、持っているものすべてを売り払い、その畑を買います」と当然のことのように記されます。
そこでは、「持っている物すべてを売る」ことに何の躊躇も見られません。天の御国は、そのように全財産を引き換えにするほどの価値があるというのです。
45、46節も同じ流れで、「また天の御国は、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠と一つ見つけると、出かけて行って持っている物すべてを売り払います。そしてそれを買います」と記されます。ここでも「天の御国」は、真珠を探していた「商人」に、持ち物すべてを売り払うことを躊躇させない価値のあるものとして描かれます。
先の「畑に隠された宝」の例では、どんな愚かな人でも同じ行動を取ると思われますが、このたとえの商人は、まず「良い真珠」を「探している」ことが前提になります。そしてその商人は、その真珠の価値を知っているからこそ、そのような大胆な行動が自然のうちになされるのです。私たちはこのたとえで、「天の御国」の価値をどれだけ知っているかが問われることになります。
どちらにしても、この二つのたとえでは、見えない神の御支配を信じる信仰の力というよりは、天の神は目に見えなくても、その天の神の御支配の現実は、「持っている物すべて」と引き換えにしたいと自然に思わせるほどに、その価値が損得勘定しか考えないような人に明らかであるということなのです。
それはたとえば、無期懲役刑に処せられた人が途方もない大金持ちであった場合、全財産と引き換えにでも、この地で自由に生きられる恩赦を得たいと思うことに似ているかもしれません。死んでしまっては、自分の財産は何の意味もないばかりか、子孫に遺産相続争いという不幸しか残さないことになります。
天の父なる神の愛と御支配を信じながらこの地で生かされることは、何にも代えがたい宝ではないでしょうか。
47-50節は、「天の御国は、海に投げ入れる地引網のようなものです。それはあらゆる種類のものから集めるためのもので、それがいっぱいになるときに、それを岸に引き上げて、そこに座り、良いものは器に集めます。そして無価値なものは外に投げ捨てます。この世の完成(終わり)の時にも同じようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分けます。そして彼らを火の燃える炉に投げ入れます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」と記されます。
これは毒麦のたとえに似た面がありますが、ここでは「天の御国」が、先のたとえにあったように「御国の子ら」によって構成されるというよりも、その機能の面に目が向けられます。
イエスが「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45) と言われたように、神の愛はすべての人に注がれ、すべての人が神の愛の中で生かされているのですが、この世の完成のときに、神はまず「正しい者の中から悪い者どもをより分ける」という選別のプロセスに入ります。それは、「人の子」が御使いを遣わして毒麦を集めることに似ています。
そして、「泣いて歯ぎしりする」とは、彼らが天の御国の福音を軽んじた結果を後悔するという意味です。このことばは、24章45-51節では、主人の帰りが遅いと思って酒飲みたちと食べたり飲んだりしている人へのさばきの際に用いられ、25章14-30節では、主人から預けられた1タラントを地の中に隠していた「役に立たないしもべ」へのさばきとして用いられます。どちらでも、主の期待を忘れた生き方をする者たちが「泣いて歯ぎしりする」のです。
これらのたとえの締めくくりとしてイエスは弟子たちに、「あなたがたはこれらのことをみな理解できましたか」と尋ね、彼らは、一言で「はい」と答えます (51節)。
そしてイエスは弟子たちに、「このことのゆえに天の御国のための弟子訓練を受けた学者はみな、一家の主人のようです。その人は、自分の倉から新しい物と古い物とを取り出します」と言われます (52節)。これはイエスの弟子たちが、旧約聖書の教えと、イエスにある新しい福音との両方の関連を明確に語ることができるという意味かと思われます。
これも17節にあったようにイエスの弟子たちが「多くの預言者たち」にとっての憧れの知恵を与えられているという意味になります。そこにイエスの弟子とされていることの途方もない幸いと特権が強調されています。
3.「彼らの不信仰のゆえに……」
53、54節では、「イエスはこれらのたとえを完了することになられた。そしてそこを去って、郷里に行かれ、会堂で彼らに教えておられた」と記されます。イエスはまわりの地方で「あがめられる」ようになった後で初めて故郷に帰りました。それは郷里で福音を語ることの難しさを熟知しておられたからです。
当時の人々は、安息日ごとに会堂に集まり、創世記から申命記に至るモーセ五書(トーラー)の朗読を聞きました。それは、動物のいけにえをささげる代わりでもありました。彼らは、一年をかけて、一字一句省くことなく、また読み間違えることもなく、ただ厳かに朗読し続けました。
その後で多くの場合、預言書が読まれましたが、当時の礼拝では、朗読者や説教者を自由に受け入れることがあったようです。
それに対する反応が、54-56節で、「すると、彼らは驚いて、『どこからこの人はこんな知恵と数々の力を……この人は大工の息子ではないのか、母はマリヤと言われるではないか、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。妹たちも、みな私たちと一緒にいるではないか、それなら、この人はこれらをどこから』と言った」と記されます。
なお、この箇所は、「いったいどこからこいつは……、いったい何なのだ、こいつに与えられたこの知恵は……こいつの力あるわざは」という乱暴な言い方ではないかと思われます。
かつて、イエスがカペナウムの家で教えておられたときのことがマルコ3章21節では、「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『イエスはおかしくなった』と言う人たちがいたからである」と描かれます。少なくともイエスの肉の兄弟たちはイエスが正気を失っているという噂を真に受けたのかもしれません。
そのような評価が下る最大の理由は、「こいつは大工のせがれではないか、その母もマリヤと呼ばれる者で……」というイエスの職業と出生にあります。「大工(テクトン)」という職業は、「建築家(アーキテクトン:英語のアーキテクト)」とは区別される平凡なものでした。建築家は労働者を用いて家を建てる指導的な働きをしましたが、大工は一人で家の中の家具や調度品を作っていました。ですからイエスは職人としての尊敬は得てはいても、指導者としての経歴はありません。
また、当時の人々は「誰の息子の誰」という形でその人の名を呼びました。興味深いのは、ここでは「ヨセフの子のイエス」と呼ばれる代わりに、「その母はマリヤと言われる」と記されていることです。これはヨセフが亡くなって長い月日が経過していたのか、それともイエスの出生に対する疑問からこのように呼ばれたのかわかりません。どちらにしても、この呼び方に軽蔑が込められていました。
なお、ここでは、4人の兄弟の名と「妹たち」と記されますので、イエスには最低六人の弟や妹がいたことが明らかです。彼は早くから一家の大黒柱として生計を支えていたことでしょう。そのイエスが、30歳になったとき突然、新しい宗教指導者としての働きを始めたのです。
その結果が、「こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに、『預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです』と言われた」と記されます (57、58節)。
たとえば、預言者エリヤは異教の町シドンのツァレファテの一人のやもめのもとに遣わされ、「力あるわざ」を行いましたが、それは彼が郷里の人々から拒絶された結果でした (Ⅰ列王17章)。また、エリシャがアラムの将軍ナアマンのツァラアト(重い皮膚病)を癒すことができたのも、将軍が妻の女奴隷のことばを信じたからでした。使者を迎えたイスラエルの王はその要請を「言いがかり」としか受け止めませんでした (Ⅱ列王記5章)。
ルカ4章24-27節ではこの二つの例を引用しながら、「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません」と記されます。
それにしてもここでは、「預言者が敬われないのは……だけです」という表現で、預言者は「自分の郷里、家族の間」を除けば、「尊敬される」と言われていることを忘れてはなりません。それは、生まれながらの肉の関係が、預言者の働きを受け入れる上では、妨げとなっているという皮肉です。
たとえば、イエスの兄弟の場合は身近にその生き方を見ていて尊敬の思いを持っていたはずだとは思いますが、それでも同じ母から生まれた者を、神から特別に遣わされた神の御子と見ることはできなかったことでしょう。彼らがイエスを救い主として明確に信じられるようになるのは、十字架の後の復活を見てからのことです。
そしてその結果が、「そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの力あるわざをなさらなかった」(58節) と記されます。これは「信仰のない者に奇跡は行われない」という意味ではありません。イエスのみわざの核心は、何よりも「信仰のない者に信仰を与える」ことだからです。
しかし、信仰がないことと、不信仰とはまったく異なります。また、未信者と不信者もまったく異なります。不信仰とか不信者というのは、信仰自体を否定する不真実な者を意味します。
イエスが「多くの力あるわざ」を行なわなかったのは、たとえば悪霊追い出しを見て、「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」(12:24) などという評価を下すなら、かえってイエスのみわざがつまずきの原因となるからです。
最初から信じる気のない人は、不思議なみわざを見れば見るほど、信じないでよい理由を探し出し、自分の構えを強化します。その心が「信じたい……」という方向に向かっているか、「何があろうとも、信じるものか……」という方向に向かっているかが分かれ道です。それは、「真珠を豚の前に投げてはいけません」(7:6) と言われるとおりです。
イエスがラザロを生き返らせたとき、宗教指導者たちは、断固としてイエスを除き去ろうと決意することになりました。人の心は、不信仰を正当化するあらゆる言い訳を見出します。
イエスの郷里での説教はこれが初めで最後でした。彼らの心には、出生への偏見、好奇心や嫉妬心、競争心などが渦巻いていました。
科学者 は、「奇蹟が一つあれば、私の信仰は堅くされるだろうに」と、人は言う。「人がそう言うのは、奇蹟を見ないときである」と記しています (パンセ263)。心の中に神の救いへの「渇き」がない人は、どんなしるしを見ても信じられません。郷里の人々は自分たちの仲間が有名人になったという現象には心が惹かれても、目の前の神の奇蹟であるイエスご自身の姿に感動することができませんでした。
イエスは毒麦のたとえの結論で、ご自身の弟子たちが「父の御国で太陽のように輝きます」と保証され、また弟子たちに与えられた「天の御国の奥義」は、あらゆる知恵を超えた、いかなる宝にも比較できない貴いものだと言われました。
イエスを救い主と告白する者は、既にこの世のいのちを超えた、永遠の喜びの世界に入れられているのです。しかし、同時に、天の御国の教えをあざ笑い、御子に反抗する者たちには、「火の燃える炉」によるさばきが待っているということも忘れてはなりません。
「いのちと死、祝福とのろい」があなたの目の前に置かれ、「あなたはいのちを選びなさい」と招かれています (申命記30:19)。