創世記31章~35章「押しのける人から祈りの人へ」

2020年11月1日

人は、常に何かを失うことを恐れながら生きています。今も、多くの方々が新型コロナウィルスの蔓延の中で、ご家族や自分たちの仕事や健康が失われることを恐れています。しかし、自分たちの弱さを覚えさせられる中でこそ、神の御手にある安心を体験できるともいえます。

「ヤコブの格闘」は、イスラエルの物語の原点とも言える箇所です。敢えて説明が省かれて、象徴的な場面が簡潔に記されています。まさに心の底で何度も味わうべき箇所といえましょう。私も、何度も味わい、そのたびに新しい発見があります。

1.「私の父祖の神……が、私についておられ……私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ」

ヤコブは、「杖一本だけを持って」生まれ故郷を離れてハランに向かい、そこで母リベカの兄ラバンに騙されながらも「大いに富む」者となりました (30:43)。

しかし、それはラバンから受けた報酬を増やしたものでしたから、彼の家の者たちのねたみを買いました。また、ヤコブもラバンの態度の変化に気づきました。

そのとき (ヤハウェ) はヤコブに、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる」(31:3) と仰せられました。これは20年前のベテルでの主の顕現 (28:15) に続くものです。

それでヤコブは「ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ」(31:4)、「私はあなたたちの父に、力を尽くして仕えて来た。それなのに、あなたたちの父は私を欺き、私の報酬を何度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えることを許されなかった。彼が『ぶち毛のものはあなたの報酬となる』と言えば、群れのすべてがぶち毛のものを産んだ。また『縞毛のものがあなたの報酬となる』と言えば、群れのすべてが縞毛のものを産んだ。こうして神は、あなたたちの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ」(31:6-9) と述べます。

また御使いが夢の中で彼に、「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。わたしはあのベテルの神だ。あなたはそこで、石の柱に油注ぎをし、わたしに誓願を立てた。さあ立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい」(31:12、13) と言われたと彼女たちに告げます。

それに対し彼女たちも、「私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。あの人は私たちを売り、しかもその代金を食いつぶしたのですから……さあ、神があなたにお告げになったことを、すべてなさってください」(31:15、16) と答えます。

そればかりか、そのとき「ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出し」(31:19) ますが、それは家の守り神を奪うことを意味します。ラケルは父にとって大切なものを奪うことで、父に復讐しようと思ったと言えましょう。

自分の利益のために行動したラバンは不誠実さのゆえに娘たちから憎まれ、騙されても誠実を尽くしたヤコブは彼女たちの尊敬を得ることができました。

ヤコブは、「ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにし……自分のものすべてを持って逃げました。ところが 「三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされ……ラバンは身内の者たちを率いて、七日の道のりを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いつき」ます (31:22、23)。それはカナンの一歩手前です。

しかし、神は前の夜にラバンに現れ、ヤコブと事の善悪を論じないように」(31:24) と警告されます。それで、彼はヤコブに、「私には、あなたがたに害を与える力があるが」(31:29) と脅しつつ、テラフィムだけを取り戻そうとします。ラケルはそれを「らくだの鞍の中に入れ、その上に座って」、「女の常のことがある」などと言いながら隠し通します (31:34、35)。

しかし、ヤコブはその件を全く知らなかったので、「怒って、ラバンをとがめ」、それまでの二十年間の不当な扱いを初めて堂々と抗議します (31:36-41)。

その結論として、「もし私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです」(31:42) と言います。

ラバンはかつて、「あなたのおかげで主 (ヤハウエ) が私を祝福してくださったことを、私は占いで知っている」(30:27) と言ったように、ヤコブの神の力を知っていました。

もし、主がラバンに現れなかったら、ラバンはヤコブからすべてを奪い去ったことでしょう。ヤコブはそれを知っているので、「神は……昨夜さばきをなさった」と言い、ラバンもそれを聞いて、ヤコブとの「契約を結び」(31:44)、互いがそこに立てた石塚を超えて侵入することのないことを誓います。

そして今、ヤコブの神は、御子イエスにつながる私たちに対し「わたしはあなたとともにいる」と語ってくださいます。ヤコブは騙されるたびに豊かにされました。一方、騙したラバンの側は、娘と孫たちに見放され、さみしく自分の家に帰りました。

ですから私たちも人間的な策略を弄することなく、いつも神との交わりを親密に保つことに心を向けるべきでしょう。それこそが、真の意味での豊かな生活の基盤となります。

2.「ヤコブは……御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った」

その後、「ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが……現れ」(32:1)、エサウとの出会いを恐れる彼を励まします。彼は御使いたちを見て、「ここは神の陣営」と言い、そこを「マハナイム」と呼びます。

詩篇34篇4-8節には、「 (ヤハウェ) を呼び求めると、主は答えてくださり、すべての恐怖から救い出してくださった……主 (ヤハウェ) の御使いが陣を張り、主を恐れる者を囲んで助け出してくださる。味わい、見つめよ。主 (ヤハウェ) のすばらしさを」と記されますが、主はヤコブが求める前に、「神の陣営」を見せてくださいました。

エサウは二十年前に、ヤコブが自分を「二度までも……押しのけ (アカブ)」(27:36)、長子の権利と祝福を騙し取ったと理解し、「ヤコブを殺してやろう」と思っていました (27:41)。そのためヤコブは父の家からたった一人で離れたのですが、今は、約束の地に入る前に兄との和解を望み、使者を遣わします。

彼は神が自分とともにいてくださることを味わっていたので、ある意味で、正々堂々とエサウに使いを送ることができたのです。

ただそれに対し、エサウが「四百人を引き連れてやってくる」との知らせが届きます。すると、「ヤコブは非常に恐れ、心配し」、最悪の事態を想定して自分の群れを二つの宿営に分けます (32:6、7)。

その上でヤコブは必死に、「私の父アブラハムの神……父イサクの神よ。私に『あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主 (ヤハウェ) 」と呼びつつ、「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。

私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました」と、すべての主の一方的な憐れみを感謝しながら、「どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してくださいと祈ります (32:9-12)。

そして彼は合計550頭にも及ぶ家畜を、「エサウへの贈り物」として選び、それを三つの群れに分けて先に行かせます。その際、ヤコブは三人のしもべたちに、「あなた様のしもべヤコブから「ご主人のエサウ様に差し上げる贈り物でございます」と言わせます (32:18)。

かつて父イサクがヤコブを祝福した後、エサウに向かって、「おまえは……自分の弟に仕える」と祈って (27:40)、エサウを苛立たせましたが、ここにはそれを逆転させる意味がありました。

そればかりかヤコブは、「贈り物で彼をなだめ、その後で彼と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れて(私の顔を上げて)くれるかもしれない」と思ったと描かれています (32:20)。

ヤコブは自分がエサウに対して咎を負っていると思っていたので、彼の怒りを「なだめ」ようと必死だったのです。ただ、このような人間的な計算では、心を落ち着かせることはできませんでした。

ヤコブは、どうしたわけかその夜のうちに起き、「二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を……渡らせ」(32:22) ます。

今や彼が獲得したすべての物を明け渡した上で、一人だけ、後に残ります。そして、このように裸になった彼は、自分が何者かが問われるのです。

するとこのとき、ある人が夜明けまで彼と格闘し」(32:24) ました。これはヤコブが求めた戦いではなく、ある人の側から彼に向き合った結果です。

彼の人生は、自分の知恵と力で成功をつかみ取るようなものでしたが、今も、ふって湧いた格闘に勝つことだけに必死です。それは自分の内面の恐れとの戦いでもあります。しかし、ももの関節が外されたとたん、その人に必死にすがりつき、祝福を願い求めます。

その際、彼は自分の名を尋ねられ、ヤコブと答えることによって、自分の生き方をも顕にします。そこには「押しのける」とか「つかみとる」という意味がありました。それに対し、「その人」は、彼に新しい名を与えます。

イスラエル」とは、「戦う」と「」とを合わせたものです。そして、その意味を、「あなたが神と、また人と戦って、勝ったから」と言います (32:28)。後にホセアは彼の生涯を、「ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力神と争った。御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った。ベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた」(12:3、4) とまとめます。

彼は生まれる時から兄のかかとをつかみ、兄を二度も押しのけ、祝福を父から騙し取りました。しかし、彼が最初から向き合うべき方は、神ご自身でした。

ここでヤコブが、「あなたの名を教えてください」(32:29) と尋ねるのは、神をも自分の頭で把握したいという気持ちの現れとも言えましょう。しかし、彼に必要なのは、ただ遜って神の祝福を受けることでした。

そして彼は、願った「祝福」を受けることができました。これこそが、神と戦って「勝った」と言われる意味ではないでしょうか。私たちもときには、祝福」を受けるために、神との祈りの格闘が必要かもしれません。

彼はこの出会いを通して、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」(32:30) と言います。そこには恐れと同時に、喜びがありました。

彼は「そのもものためにびっこをひいて」いましたが (32:31新改訳第二版)、太陽は彼の上に昇って」いました。これは何と感動的な情景でしょうか。これは夢ではなく現実でした。そのしるしが「びっこひいて歩く」ことでした。

そしてその痛みの中で、神の圧倒的な祝福を感じることができました。私たちも同じように、現実の痛みを通して「祝福を体験することができます。

その後、ヤコブは家族の先頭に立って、七回地にひれ伏し」ながらエサウに近づきます。それに対し、「エサウは……走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた」と描かれます (33:1-4)。

つまり、イスラエルという名には、自分の力で戦う生き方から、神の御前に遜るという生き方への転換が込められているとも言えましょう。なお、ここでヤコブへの祝福が、「びっこをひく」ことの中で現わされたように、神の力は「弱さのうちに完全に現れる」(Ⅱコリント12:9) と記されます。

そしてそのようなヤコブの生き方は、私自身を現わしています。自分の弱さを隠し、神も人も自分の頭の枠でとらえようとし、自分の不安と戦っていました。しかし、あるとき、不安を抱えたままの自分を支える神がおられることに気づかされました。私の歩みは、精神的にびっこをひいたような状態のままですが、その私の上に太陽が上り、神の愛に包まれているということが少しずつ分かってきました。

不動の心を持つことが目標ではありません。何と「キリストは……自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」(ヘブル5:7) とあるように、自分の弱さ、不安や悲しみをそのまま訴える生き方こそが神に喜ばれるのです。

3.「ベテルに上って……苦難の日に私に答え……ともにいてくださった神に、祭壇を築こう」

エサウはヤコブを自分の居住地のセイルに迎えるために、「旅を続けて行こう。私が……すぐ前を行くから」(33:12) と提案しますが、ヤコブは自分の群れの弱さを理由に、やんわりとそれを退けます。彼はエサウとの適度な距離を保つことに必死だったのでしょう。

またそれが、「ゆっくり旅を続け……セイルへ参ります」(33:14) と言いながら、御使いと挌闘したペヌエルのすぐ近く、ヨルダン川東岸の「スコテへ移動し、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った」理由と言えましょう (33:17)。

そればかりか、彼はそこからエサウの住む南に向かう代わりに、そこからヨルダン川を渡って西に向かい、シェケムの町の手前で宿営し、「天幕を張った野の一画を……買い取った」ばかりか、そこに祭壇を築きます(33:19、20)。

それにしても、主がヤコブに約束の地への帰還を命じたとき、「わたしはベテルの神」とご自分のことを呼んでおられました (31:13)。主が最初にヤコブにご自身を現してくださったベテルは、シェケムから三十数キロ程度南に下った地ですから、ヤコブはその目的地にもっと早く行くことができたはずです。

ヤコブのカナンへの帰還
いのちのことば社「コンサイス聖書歴史地図」

 

しかし、進行を遅らしたことで、悲劇が起こります。ヤコブがラバンのもとから去る7年ほど前に生まれたと思われるディナが (30:21)、その土地の族長の息子シェケムに犯されてしまったのです (34:2)。

このときディナが十代後半だったとしたら、ヤコブはエサウとの和解から十年程度も道草をしていたという計算になります。

シェケムの父はディナを嫁にしたいとヤコブに申し入れ、自分たちの娘も差し出し、互いに縁を結ぶことを願います (34:8、9)。「ヤコブの息子たちは……シェケム……をだまそうと」(34:13)、それを受け入れるふりをし、彼らに割礼を受けさせ、その傷が痛む時に、シメオンレビがその町の男子をすべて殺すという野蛮な行為に出ました。

神がアブラハムに与えた約束を覚えるしるしとして割礼という儀式が生まれたのに、その背景を説明することもなく、ただ割礼だけを受けさせ、その傷の痛みにつけこんで町を攻撃するなどということは神の意図に真っ向から反します。

本来なら、ここから復讐の連鎖が起こり、ヤコブ一族は「根絶やしにされてしまう」(34:30) 可能性がありました。しかし、この時になって神はヤコブに現れ、「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに……神のために祭壇を築きなさい」(35:1) と仰せられます。

そして、ヤコブも「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう」(35:2、3) と応答します。ラケルも父から盗んだテラフィムをヤコブに渡したことでしょう。

それにしても、これはもう十年早く行なわれるべきことでした。なぜなら、ヤコブは最初にベテルで、神の圧倒的な約束、「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る」(28:15) を聞いたとき、自分が枕にした石を取って、その上に油を注いで、「神が私とともにおられ……無事に父の家に帰らせてくださるなら、主 (ヤハウェ) は私の神となり……この石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます」(28:20-22) と応答していたからです。

ヤコブは、エサウと和解できた後に、すぐにベテルに上りそれを実行すべきでした。

そして、「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった」(35:5) と記されますが、これはヤコブが戦う前に、神ご自身がヤコブの側に立って戦ってくださったということです。

イスラエルという名は、「神と戦う」というより「神が戦う」ことを意味するからです。

そして、彼はようやくベテルにつき「祭壇を築き」ます (35:7)。

その上で、リベカに昔から寄り添っていた「乳母デボラ」の死のことが述べられます (35:8)。それはかつてリベカがヤコブに、「兄さんの憤りが収まるまで、おじラバンのところに……とどまっていなさい……あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れたとき、私は人を送って、あなたをそこから呼び戻しましょう」(27:44、45) という約束をリベカが実行していたしるしだと思われます。

ヤコブはデボラの死を嘆き、彼女を葬った地を、「アロン・バクテ(嘆きの樫の木)」と呼びます。なお、リベカがいつどのように亡くなったかは記されていません。ただ、デボラへの言及によって、リベカがヤコブへの約束を果たしていたということが明らかにされていることで十分なのでしょう。

その上で、「ヤコブがバダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された」(35:9) と描かれます。そして主は再びヤコブに向かって「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルがあなたの名となるからだ」(35:10) と言われます。

その上でアブラハムへの約束を更新するように、「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。生めよ、増えよ。一つの国民、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれる」(35:11) と言われます。

ここでは、イスラエルの子孫が民族の枠を超えて、アブラハムという名の意味「多くの国民の父」となるという約束がヤコブを通して実現するということが確認されています。つまり、イスラエルの子孫とは、民族の枠を超えた呼び名となることが確認されているのです。そして今、私たちはキリストにあってアブラハムの子、新しいイスラエルの民とされています。

そして35章14節に至って、ヤコブがかつての約束、「石の柱を立て……その上に油を注いだ」ということを実行したと描かれます。28章から始まった旅が、ここでようやく完結したと言えましょう。

ヤコブが神から特別に愛されたのは、彼にその資格があったからではありません。神は彼を一方的に選び、数々の恵みを施し、神を信頼することを教え、最後に何よりも「祈ること」を教えてくださいました。

それでも彼は目の前の問題が過ぎ去ると、すぐに安易な生活に流れました。しかし、神は忍耐をもって彼を導き、彼が誓約したことを実行させてくださいました。

あなたの歩みにも、同じような神の導きがあります。そして、それを象徴するような「新しい名」があるのかもしれません。たとえば私の場合、不安を覚えるとき、神の御手に「抱擁」されているというイメージが、また失敗を恐れながら生きていることに気づいたとき、その私が落ちてしまわないように、神によって「支えられている」というイメージが迫ってくることがありました。

あなたの人生にも、ヤコブを導かれた神のあわれみが迫ってくる体験があったのではないでしょうか。