先週金曜日の米国大統領候補討論会で、トランプ大統領が米国の感染状況は今後、急速に改善すると楽観的見通しを語っている最中、ヨーロッパでの新型コロナ感染者数が急増していました。
最近まで、ドイツのメルケル首相は、経済と感染対策の両立を強調して、制限措置への踏切に躊躇していました。しかし、昨日の国民向けの10分間あまりの報告で、この一週間の驚くべき変化を、具体的なデータを提示しながら、国民に外出制限措置の必要を訴えていました。それによると、この一週間で新規感染者数が二倍になり、感染経路が分からない比率が75%に達したとのことです。
方針転換を、きちんとデータをもって示し、それに対する補償も同時に提示する姿勢には感心させられます。
日本のGo Toキャンペーンと正反対に、ドイツでは11月中に限り、不必要な旅行の禁止、劇場その他の閉鎖、飲食店の夜間閉鎖などを実施するとのことでした。そして、それに応じて、それぞれに75%の経済保証をするとも宣言されました。
以下でメルケル首相の話しを見られますが、落ち着いて、国民一人一人に自覚を促す語り方で、説得力があります。
一方、イタリアでは少し早くに外出制限措置が発表されましたが、町ではそれに反発する暴動が起きています。以下では、昨日、イタリア・ミラノの宣教師が紹介しておられた動画をご覧いただけます。本当に、今年前半のロックダウンで苦しんだ人々のストレスを感じ取ることができます。
日本の今後の感染状況がどうなるかはまったく分かりませんが、一人ひとりの自覚で感染者数の急増が抑えられることを期待したいと思います。東アジアの状況は、欧米とはかなり異なっていますから……
ただ、私たち信仰者は、このようなときに、何よりも、この状況すべてを支配しておられる全能の神に祈るべきでしょう。
詩篇141篇は、「私の祈り」自体が、神の御前で喜ばれる「香(こう)とされる」と歌われています。以下は、この詩篇自体の英語訳を歌にしたものです。
以下に、以前、記しました、詩篇141篇「私の祈りが 御前の香(こう)とされる」というディボーションメモをご紹介しますので、お読みいただければ幸いです。
この詩篇は、悪しき者たちから自分が守られることを、主 (ヤハウェ) に願った祈りです。ただ「私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように」(2節) という表現に、不思議な響きを感じます。
神殿の至聖所の前の、香をたくための祭壇で、祭司は朝にも夕暮れにも「香りの高い香をたく」ことが命じられ、それは「主 (ヤハウェ) の前の常供の香のささげ物」と呼ばれていました (出エジプト30:7、8)。
そして、黙示録5章8節では、「香は聖徒たちの祈りであった」と記されながら子羊であるイエスへの賛美が記されていました。
しかし、ここでは、敵から守られることを願う個人的な必要からの祈りが、神に喜ばれる「ささげ物」と見られています。
それは祈りの内容が「主 (ヤハウェ) よ 私の口に見張りを置き 私の唇の戸を守ってください」(3節) とあるように、自分のことばが神の前に聖くされるように願ったものだからです。
さらに4節では「私の心を悪に向けさせず 不法を行う者たちとともに 悪い行いに携わらないようにしてください」と、自分が「悪い行い」と一線を画すことができるようにと願っています。
そこで「私が彼らのごちそうを 食べないようにしてください」とは、悪い行いから生まれた報酬を受け取ることがないように自分の心が守られることを願う祈りです。
つまり、自分の口のことばや心の思いが、神に喜ばれるものとなるように祈ることは、神への最高のささげ物とされるというのです。私たちの祈りはどうでしょうか?
5節では「正しい人」が「真実の愛」(ヘセド:契約の愛)をもって、「私を打ち」、「戒め」ることを歓迎したいという思いが祈られます。
箴言27章6節では、「愛する者が傷つけるのは誠実による」と記されています。そして、5節の最後は、「彼らの悪行のただ中に、なお私の祈りはあり続けます」と訳すことができます。
その意味は、悪しき者たちの改心を祈るというよりも、彼らのただ中で、自分のことばや心が彼らの悪に毒されないようにと祈っていると解釈する方が、この詩篇の文脈に合っていると思われます。
6節の「彼らのさばき人たちが岩の傍らに投げ落とされるとき」とは、悪しき者に対する神のさばきが明らかになるときを指します。そのとき、彼らは「私のことば」が神のみこころにかなった「優しい」または「喜ばしい」ものであったことを「知る」ようになるというのです。それは、自分の口のことばが、彼らの悪に毒されなかった結果です。
筆者も、自分の言動が、争いを広げるもののように非難され、悩んだことがありましたが、10年近くたってようやく理解され、深い慰めを受けたというようなこともありました。
7-10節では、著者が悪しき者たちの攻撃を受けて、瀕死の状態に置かれながら、「私の目は」「私の主 ヤハウェ」である「あなたに向いている」と告白されます。
そして、「私のたましい」が「仕掛けられた罠」や「不法を行う者の落とし穴」から守られることと同時に、「悪者が自分の網」にかかって、自滅することを祈ることが記されます。それは、神の公平なさばきが誰の目にも明らかになるという正義を求める祈りです。
祈り
主よ、私たちはときに、この世の悪や、自分が属する共同体の誤った動きに流されそうになることがあります。そのとき、この詩篇の祈りを用いさせてください。そして私の祈りが、神の御前への香(こう)として、御前に喜ばれるものとなりますように。