つい先日は、 という英国の生物学者が書いて世界的なベストセラーになった「」というショッキングなタイトルの本をご紹介しました。
正直、僕はこの本の手にして読むことに若干、恐怖を感じました。「ただでさえ揺らぎやすい信仰が、なお揺らいでしなうのではないか……」などと思いながら。でも、それは杞憂に終わったと思います。なぜなら、「この方は、聖書のこと、表面的にはわかっているようで、根本的なことが分かっていない……」とすぐ気づいたからです。
今朝の朝ドラ「エール」で戦後の名曲「長崎の鐘」が生まれる背景が語られていました。モデルとなっている医師、永井隆が、原爆の悲惨を見た人から、「神がおられるなら、なぜ、このようなことが……」と問われたことに対して、「もっと落ちなさい……」と言ったと描かれていました。たぶん、それはそこで理屈による説明がなされることの危なさと無意味さがあるからだと思われます。そして、とことん落ちたところから生まれたのが、あの長崎の鐘という歌なのだという流れかと思います。以下のユーチューブで映画の場面と共に藤山一郎の歌をお聞きいただくことができます。
ところで、詩篇88篇は詩篇の中では珍しく、表面的には何の慰めも希望も見られない形で描かれています。
著者は、原因不明のことで、神から懲らしめを受け、神の憤りを受けていると感じています。ここで著者は、主 (ヤハウェ) を「私の救いの神」と呼び、「私の叫びに耳を傾けてください」と訴え続けています (1、2節)。さらに自分の苦難を描きながら、それを神のみわざと解釈し、「あなたは私を最も深い穴に置かれました……あなたの憤りが私の上にとどまり……あなたは私を苦しめておられます」(6、7節) と訴えます。
そして、以下の絶望感は切実です。
「あなたは 私の親友を私から遠ざけ
私を 彼らの忌み嫌う者とされました。
私は閉じ込められて 出て行くことができません。
私の目は苦しみによって衰えています
主 (ヤハウェ) よ 私は日ごとにあなたを呼び求めています
あなたに向かって両手を指し伸ばしています」(8、9節)
これは、どう考えても不条理な苦しみに会いながら、その原因を友人から分析されて、さらに落ち込んでしまった義人ヨブの気持ちと祈りを描いているようにも見えます。
しかし、それでも著者は、神を「呼び求め」続け、神に「叫び求め」続けます (9、13節)。その上で、「主 (ヤハウェ) よ なぜあなたは私のたましいを退け、私に御顔を隠されるのですか」と問います (14節)。
これはヨブの祈りに似ています。ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ1:1) のですが、神の許可を受けたサタンの攻撃を受け、子供も財産も失ったあげく、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で」打たれ、死の苦しみを味わいます (同2:7)。そのときヨブは、「なぜ私は……胎を出たとき、息絶えなかったのか」(同3:11) と自分の「生まれた日を呪った」というのです (同3:1)。それに対しヨブの友人は、これを神の「叱責」、「訓戒」として謙遜に受け止めるようにと迫ります (同5:17)。
それを聞いたヨブは、今度は神に向かって、「私が罪ある者だとしても……どうしてあなたは、私を標的とされるのですか」(同7:20) と訴えます。
ヨブは知らずに本質を言い当てました。サタンが義人ヨブを標的とすることを、神が許可されたからです。しかしヨブの訴えを聞いた友人は必死に神を弁護して、原因はヨブの側にあると反省を迫ります。
それに対しヨブはさらに神に向かって、「私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません……あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻め立てられます」(同30:20、21) と食い下がってゆきます。ここに神との対話があります。
神は「嵐の中からヨブに答え」ますが、そこには、なぜヨブが標的とされたかの答えはありません (同38-41章)。最後に神を弁護してヨブに反省を迫った友人たちに神の燃える怒りが向けられます (同42:7)。神を非難したヨブに神は個人的に語りかけ、人間的な知恵で神を弁護した友人は神から責められます。神はヨブの傲慢とも見える訴えを表面的には非難されますが、神が彼との対話自体を喜んでおられたのは確かと言えましょう。
ところでこの詩篇の15、16節の以下の祈りは、ヨブの悲惨をさらに超えているようにさえ思えます。
私は苦しんでいます。
若いころから死に瀕していました。
あなたの恐ろしさに耐えかねて
私の心は崩れ落ちそうです。
あなたの燃える怒りが私の上を越えて行き
あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました
ときに私たちは、「神は絶対的に善なるお方、お優しいお方」と信じなければならない、「神を意地悪な方」などと呼んではいけない……と自分の気持ちに蓋をします。
しかし、この著者は、神の愛など信じられない……という気持ちを露骨に神に訴えているのです。これは理屈を超えています。
ただ、そのような祈りが、霊感された祈りの書である詩篇に記されており、私たちの主イエスキリストもそれを心から味わってくださったことは確かです。霊感された祈りに従って絶望感が正直に訴えられるとき、そこに不思議な希望が生まれます。
私が心から尊敬する英国の神学者 は、この新型コロナウィルスの世界的な蔓延の中で、様々な理屈や神学的な解釈を試みることの危険を訴え、この詩篇88篇のような祈りを、心の奥底のうめきとして表現して祈ることを勧めています。
ドーキンスは、理屈で、「神は妄想である」と論じます。私たちはそれに理屈で応答する以前に、自分の絶望感を正直に神に訴えることが許されているということから答えることができます。なぜなら、私たちの信仰とは、理屈ではなく、「祈り」だからです。
神が何よりも嫌われるのは、人が自分の知恵で神を判断することです。わざわいを原因結果ばかりで説明してはなりません。あなたの苦しみは、神の御手の中で起きています。ですから、その状況を神は変えることがおできになります。わざわいの理由が説明できることにどれだけの意味があるでしょう。苦しみの中で、神にすがり続けることこそが、聖徒の信仰です。
祈り
主よ、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました」(ヨブ42:2)。主よ、私は自分の苦難の中で、その意味を勝手に解釈する代わりに、あなたにすがり続けます。