創世記27章1節〜30章43節「主の祝福がもたらす豊かさ」

2020年10月18日

多くの人々は、富や名声に惹かれて依存症の罠にはまります。確かに富も力も人間関係も極めて大切ですが、それらすべてをもたらす方がどなたなのかを忘れてはいないでしょうか?

詩篇73篇25、28節では、「天ではあなたのほかに、私にだれがいるでしょう。地では、あなたのほかにだれをも望みません……この私にとっては、神のみそばにいることが、幸せです」と告白されています。

また、詩篇16篇11節では、「御前には楽しみが満ち、その右には歓喜が絶えません」と告白されています。

これをもとに、 の第一では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」という問いに対して、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである (Man’s chief and highest end is to glorify God, and fully to enjoy him forever)」と答えられます。

という米国の説教者は、「God is most glorified in us when we are most satisfied in him.(私たちが神に最高に満足する時、神は私たちのうちで最高に栄光を受けている)というクリスチャン快楽主義なるものを教えています。

私たちの信仰の核心とは、何かの義務を果たすというよりは、主を喜ぶことです。そこには生きる喜びが生まれます。主の祝福を受け継ぐことは、何にも代えがたい宝です。

1.イサクからの「祝福」を得るために、すべてを失ったヤコブ

イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた」(25:28) という歪んだ関係は、祝福の継承における悲劇を生みます。

イサク自分の判断でエサウを祝福しようとしますが、その前に猟の獲物を食べたいと願います (27:1-4)。それを聞いたリベカは、ヤコブに「子よ。あなたへののろいは私の身にあるように」(27:13) と言ってまで、祝福を騙し取る計略を授けます。イサクは声の違いに気づきながら、「おいしい料理」(27:4、7、9、14、17) に気を惹かれ、ヤコブを祝福します。

祝福」とは、イサクの祈りにあるように「神が……天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。諸国の民がおまえに仕え……おまえの母の子がおまえを伏し拝むように」(27:28、29) とあるように成功と繁栄、尊敬などを得ることを意味します。

ヤコブはそれを受け、エサウは正反対の言葉を受けました (27:39、40)。それはかつてペリシテの王アビメレクアブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます」(21:22) と言ったことを指します。これは今、「神の子」とされる恵みに繋がります。

不思議なのは、イサクは騙されてヤコブを祝福したのに、それが有効であったことです。それは祝福を与える権威が神にあったからです。

実際、エサウに対するイサクの祈りの内容を見ると、そのことばは彼の意志を超えた神から出ていることが明らかです。

後の教会の歴史では、迫害の中で信仰を捨てた司祭が授けた洗礼は有効であるかという議論が起こった時、礼典の有効性は司式者の信仰ではなく、その権威を授けた教会にあるという判断がくだされています。洗礼を授けるのは、個人ではなく教会なのです。

エサウはこのことで激しく怒り、「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけ(語根:アカブ)。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」(27:36) と言い、また「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう」(28:41) と心の中で言います。

母リベカはエサウの心の声を聞くことができました。それで、ヤコブをハランに住む兄ラバンのもとに遣わし、そこでエサウの憤りが鎮まるのを待たせるともに、信仰を共有できる妻を娶るようにと願います。

リベカはイサクに、「私は(エサウの妻の)ヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました」と言いますが (27:46)、それはヤコブを逃がす口実ばかりではありません。

リベカは、神の民を作るために父の家を離れて見知らぬ土地に来ました。もし息子たちがカナンの娘たちを娶ってしまうなら、彼女の人生自体が否定されることになります。

その意味でエサウは既に、自分で祝福の継承者となる道を閉ざしていたのです。

イサクはヤコブを送り出すに当たり、かつてのことを忘れたかのように、ヤコブが祝福の継承者であることを明らかにしながら、「母の兄ラバンの娘たちの中から妻を迎えなさい。全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増えさせてくださるように……神がアブラハムの祝福をおまえに……おまえの子孫に与え……この地を継がせてくださるように」(28:2-4) と祈ります。

ただ「こうしてイサクはヤコブを送り出した」(28:5) とありますが、エサウを気遣うイサクは、遠い旅に出るヤコブにほとんど何も持たせず、しもべも同行させず、一人で送り出しました。これは、かつてアブラハムのしもべがイサクの嫁を捜しに行ったときの豊かな旅路とは対照的です。

ヤコブはイサクからの祝福の祈りだけを財産に、見知らぬ地に向かいます。

28章6-9節では、今頃になってエサウは、カナン人の娘たちを娶ったことが父の気に入らないことに気づいて、イシュマエルの家から三番目の妻を娶ろうとします。エサウも問題ですが、これまでイサクが息子を跡継ぎにしようとしながら肝心のことをきちんと指導して来なかったことが明らかになっています。

その上で、「ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった……ある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした……彼はその場所で石を取って枕にし……横になった」(28:10、11) と簡潔に描かれますが、彼は不安と寂しさで一杯だったことでしょう。

彼は、母リベカの勧めがあったにせよ、結果的には、まだ見ることができない将来の「祝福」を得るために、目の前の家族も財産もすべてを失ってしまったのです。エサウは「祝福」は逃しましたが、家族と富に恵まれていました。あなたならどっちを選ぶでしょうか?

2.「ここは天の門だ」

ヤコブは孤立無援で暗闇に囲まれています。しかし、「彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた」(28:12) と描かれます。それは、からの助けがヤコブに向けて差し伸べられ、神と彼との間を取り次ぐ御使いがいることを示します。

しかもここでは、そこで起こった現実が何と、「 (ヤハウェ) がその上に立って」と描かれます。これは「 (ヤハウェ) はマムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた」(18:1) とあったことに匹敵します。

そこで、 (ヤハウェ) が直接に、「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主 (ヤハウェ) である……この地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり……地のすべての部族は、あなたによって……祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り……あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(28:13-15) と仰せられます。

ヤコブのこの体験は、私たちにとっても「信仰の原点」となります。人は基本的に孤独を恐れます。しかし、最愛の伴侶すら、最も深いところでの孤独感を癒すことはできません。ところが多くの人は、人や物への依存によってそれを紛らわそうとし、依存症の罠にはまります。

しかし、聖書は、積極的に、神の前にひとりになることを勧めます。孤独を避ける代わりに、深めることが解決なのです。そこで徹底的に自分の無力感に直面する時に、ヤコブへの語りかけが、神から私自身への語りかけとして迫ってきます。

イエスの父となるヨセフが、誕生する救い主の名が、「インマヌエル(神が私たちともにおられる)」と聞かされたときも (マタイ1:23)、彼が許嫁のマリヤの妊娠のことを知り、たった一人で思い悩みながら眠っていたときでした。

つまり、主のご臨在を覚えることと、孤独を深めることは切り離せない関係があるのです。

その後、「ヤコブは眠りから覚めて」、「まことに主 (ヤハウェ) はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった……ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ」と言い、「その場所の名をベテルと呼び」ます (28:16-19)。

私たちも八方塞と思える中で、ひとり静まる時、自分の上に「天の門」が開かれているのを知ることができます。

ところで、イエスは公生涯の初めに、ナタナエルの信仰告白に応答して、弟子たちに向かって、「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」(ヨハネ1:51) と言われました。これこそ、イエスが様々な偉大なみわざを行なうことができた理由です。

そして、私たちが「神の子」とされるとは、イエスに起こったことが私たちにも起こるということです。目の前の道が閉ざされていると思えるときにも、天の門が開かれているなら心配する必要はありません。神の御使いがあなたの上を上り下りしてくださるからです。

このヤコブの夢から生まれたのが讃美歌320番「主よ、みもとに近づかん」です。今から約百年前、タイタニックが氷山にぶつかって沈没し始めたとき、ウォレス・ハートリーという英国のヴァイオリニストは、乗客たちのパニックを鎮め、女性や子どもが異常に少ない救命艇に誘導されるようにと、八人の弦楽バンドを励まして演奏し続けました。彼らが船と共に沈む直前に演奏されていたのがこの曲だと伝えられています。

親が子のために命を捨てられるように、主にある「永遠のいのち」を確信する者は、命がけで人を愛することができます。この美しい歌詞を味わう時、真の喜びをどこに見いだすべきかが心に迫ってきます。

主よ、みもとに近づかん。

上る道は十字架に

ありともなど悲しむべき

主よ、みもとに近づかん

さすらうまに 日は暮れ

石の上の仮り寝の

夢にもなお天(あめ)を望み

主よ、みもとに近づかん

主の使いは御空に

通う梯(はし)の上より

招きぬれば いざ上りて

主よ、みもとに近づかん

目覚めて後

枕の 石を立てて 恵みを

いよよ切に たたえつつぞ

主よ、みもとに近づかん

現(うつし)世をば離れて

天(あま)がける日きたらば

いよよ近くみもとに行き

主の御顔を仰ぎ見ん

ヤコブはこれに感動し、「神が私とともにおられて……無事に父の家に帰らせてくださるなら、主 (ヤハウェ) は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます」(28:20-22) と誓約します。

それは自分の旅路が成功に終わったことを確認したあかつきには、同じ場所に主 (ヤハウェ) のために祭壇を築くという意味です。アブラハムの場合は、主が現れてくださるたびに祭壇を築きました。ヤコブは今、一文なしだったからなのか、信仰が未熟だったからなのかは分かりません……。

ただこの夢は、ヤコブにとって信仰の旅路の出発点を飾るものでした。私たちも、不安を持ちながらも最初の一歩を踏み出す時、神の約束が自分に迫ってくるのが分かります。

3.ヤコブが受け継いだ「祝福」がもたらした富

ヤコブは母の郷里に辿り着きました。彼は井戸の傍らで羊飼いたちと対話し、母の兄ラバンの安否を尋ねます。するとそこで、ラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやって来ることが告げられます (29:6)。

ヤコブは羊飼いたちをその場から移動させようと提案し、それがうまく行かないと、突然、そこに割り込むようにして、井戸の上の大きな石を一人でころがし、ラバンの羊の群れに水を飲ませます (29:7-10)。彼はラケルの好意を得ると必死だったのでしょう。

なお、かつてアブラハムのしもべがイサクの嫁を捜してこの地に来たとき、まず主に祈って導きを求め、リベカに出会った時にも、その行動を冷静に見たうえで、主の導きを感謝して、「 (ヤハウェ) を礼拝」しました (24:10-27)。それに比べるとヤコブの信仰は未熟です。

しかし、そのようなヤコブを生まれる前から選んでおられた神は、彼が願う前からすべてを備えておられました。私たちは自分の信仰の未熟さを卑下する必要はありません。主の祝福が信仰を育んでくださるからです。

ヤコブはラバンのもとに身を寄せ、彼に仕えます。ヤコブは、「ラケルのために七年間あなたに仕えましょうと言って、結婚の了承を得ます (29:18)。その後のことが、「ヤコブは彼女を愛していたので、それも数日のように思われた」(29:20) と描かれます。

ところが婚姻の祝宴の後、朝になってみると、そこにいたのは姉のレアでした。ラバンはこの期に及んで、「上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしない」(29:26) と言い張りながら、レアを押し付け、さらにラケルのためにもう七年間も仕えるように命じます。

これはヤコブが目の悪いイサクを騙したことに似ていますが、人を騙す能力はラバンがはるかに上手でした。

ただ、この後のことが不思議にも、「 (ヤハウェ) はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった」(29:31) と記されます。サラもリベカも不妊の女でしたが、そこに主のみわざが現されました。

レアは嫌われる代わりに多くの子どもが与えられ、ラケルはヤコブの愛を得る代わりに不妊を悩みました。それぞれの悩みは違いましたが、神は苦しみとセットに祝福を与えておられました。それが私たちにも起きています。

しかも、主はそれぞれの葛藤をご覧になり、ときに応じてあわれみを施し、ヤコブに多くの息子たちが生まれる道を開かれました。そして、レアは主のあわれみを受けルベン、シメオン、レビ、ユダを次々に産みます。その中で、彼女は主 (ヤハウェ) に感謝し、主をほめたたえています。

一方、ラケルは姉に嫉妬し、「私に子どもをください。でなければ、私は死にます」とヤコブに迫ります (30:1)。ところが、ヤコブは、リベカの不妊に悩んだ父イサクの場合のようには祈りはしなかったようです。

ラケルは女奴隷のビルハによって子を得ようとし、それによってダンナフタリが生まれます。それに対抗し、レアは自分の女奴隷ジルパによってガドアシェルを産みます。

その後、長男ルベンは「 を見つけ」(30:14)、母レアに持ってきます。これは不妊治療に効果があると見られたようですが、息子が母の夜の生活まで気づかうとは異常です。まさにアダルト・チャイルドとも言えましょう。

それを見た不妊のラケルは、恋いなすびをもらおうと必死になり、ヤコブと夜を過ごすことを姉のレアに譲ります。レアはヤコブに「私は、息子の恋いなすびで、あなたをようやく手に入れた」(30:16) と、息子を夫婦関係に巻き込むような発言をします。

しかも、このレアとラケルの争いに、ヤコブは家長としての責任を果たそうとはしていません。これは残念ながら、アブラハムやイサクにも見られた姿勢であり、機能不全家族の特徴です。

とにかく、「神はレアの願いを聞かれ」(30:17)、レアはイッサカルゼブルンを産みます。このように、神は、嫌われているレアをあわれみ、彼女から六人もの男子を誕生させ、最後に女の子のディナも産みます。

その上で、「神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」(30:22) と記されながら、ヨセフの誕生が描かれます。不思議にも、レアとラケルがヤコブの愛を得ようと必死になったおかげで十一人の男子が誕生したのです。ヤコブは家長としては失格でしたが、神が彼とともにいてくださったからです。

神の祝福因果律を超えた形でヤコブに及びました。それにしても、レアもラケルも、極めて人間的な動機で動きながらも、それぞれの子を神の賜物と受けとめ感謝をしていました。家族としての関係は歪んでいるのですが、それぞれなりに、神を見上げて歩んでいたというしるしです。

この後、ヤコブは郷里に帰ることを望みますが、ラバンは彼のおかげで家が豊かになっていたことを認め、帰すのをしぶります。

30章27、28節は、「おまえの目に気にいってもらえるなら言外に「とどまって欲しい」の意味)……、私は占いによって、(ヤハウェ) がおまえのゆえに私を祝福してくださったことを知ったから。おまえの望む報酬を言ってくれ。私はそれを払おう」と訳すことができます。

それを聞いたヤコブは、ラバンが納得できような譲歩的な提案をしてやぎと羊を飼い続けることに同意します。当時の羊は白いのが一般的で、やぎは黒毛が一般的でしたから、ヤコブは例外的なものだけを自分のものにしたいと願い出たはずなのです。

34節のラバンの返事は、「よろしい。おまえの言うとおりにしよう」(共同訳) の方が良いと思われます。ところが、ラバンは、そのようにきっぱりと返事をしながら、その日のうちに本来ヤコブに与えられるべき例外的な家畜を自分の息子たちに渡して、「三日の道のり」という遠くへと引き離します。

これは明確な裏切りですが、ヤコブは「ラバンの残りの群れ」を黙々と飼い続けます。30章37-39節にあるヤコブの工夫が「しま毛」「ぶち毛」「まだら毛」のものを産ませた理由は分かりません。それは彼が神に祈りつつ、知恵を働かせて「ラバンの残りの群れ」を飼った結果、神の恵みによって羊もやぎも、ラバンがヤコブに与えると約束した例外的なものを次々と産んだということだと思われます。

しかも、彼はラバンと争いはしなかったものの、「こうして、弱いものはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった」(30:42) という結果を生み出すことができました。まさに、ラバンは人を陥れることで貧しくなって行くのです。

ヤコブはラバンに裏切られながらも、自分の家族も家畜を増やしました。それは(ヤハウェ) がヤコブとともにおられたからです。これこそ祝福を受け継いだ証しであり、その結論が、「このようにして、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった」(30:43) と記されます。

私たちもヤコブと同じように、自業自得の罪によって、孤独と不安に苛まれることがあるかもしれません。しかし、主にあっては、取り返しのつかない失敗はありません。そこで、主に立ち返るとき、「わたしはあなたとともにいる」と言われる主と出会うことができます。それこそがすべての富、力、交わりの源となります。

実際、ヤコブは、主からの祝福」以外の何も持たないで、信仰も未熟なまま旅に出ました。しかし、苦しんだり、騙されたりしながらも、11人の息子が与えられ、驚くほど豊かにされました。そして、それを通して、彼の信仰は育まれて行ったのでした。主の祝福を求める者には、主が道を開いてくださいます。

たとえ人から騙され、裏切られても、主がともにいてくださるなら、すべてが祝福に変えられます。

そのことが詩篇37篇では、「悪を行う者に対して熱くなるな……彼らは草のようにたちまちしおれる……主 (ヤハウェ) に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主 (ヤハウェ) をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

あなたの道を主 (ヤハウェ) にゆだねよ……主が成し遂げてくださる……主 (ヤハウェ) の前に静まり、忍んで主を待て……主 (ヤハウェ) を待ち望む者、彼らは地を受け継ぐ。ただ少しの間に、悪しき者はいなくなる……しかし、柔和な者は地を受け継ぐ。また、豊かな平和 (シャローム) をおのれの喜びとする」(1、3-5、7、9-11)と約束されます。

誠実を養う者は、天国と言うより、「地を受け継ぐ」という祝福があるのです。