Ⅰペテロ2章13〜25節「職場と信仰―不当な苦しみ?受けつつ生きる」

技術的トラブルでメッセージの最後の10分ほどが録音できていません

2020年5月31日ペンテコステ

私が学生のとき何回か集った聖書研究の交わりで、「就職して、明らかに神のみこころに反すると思われる仕事を命じられた時、どう行動すべきか……」ということが話し合われていました。私はそれを聞いて、違和感を覚え、そこに集うのをやめました。

職場の中に、自分の意に反する仕事があることは当然のことで、それ以上に、その仕事を通して自分が社会の役に立つことができるという視点を持つべきだと思っていたからです。しかし、自分が体験した仕事の矛盾は、自分の想定のレベルをはるかに超えていました。

今日はペンテコステですが、聖霊の働きは何よりも、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3) という告白を導くことにあります。私たちがイエスの御名によって、父なる神に祈る中に、聖霊の働きがあります。

1.「あなたがたの神、主 (ヤハウェ) にすがりなさい」

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい……自由な者として……神のしもべとして従いなさい。すべての人を敬い……神を恐れ、王を敬いなさい。しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです (13-19節)

ここでの「人が立てたすべての制度」の中に、貨幣を媒介とした市場経済も、その核心部分としての証券市場も含まれます。また「すべての人を敬い」という中に、仕事の矛盾に悩みながら、それをより良くしようと葛藤を味わってきた先輩たちが含まれます。また、「意地悪な主人」の中に、ノルマを果たさせるために否応のないプレッシャーをかける人も含まれます。

ただし、最後の文章の「神の御前における良心」という訳は、解釈を加えすぎかと思われます。これは単に「神への意識のゆえに」と訳すべきでしょう。共同訳は「神のことを思って苦痛に耐えるなら」と訳しています。私たちはあまりにも自分の短い経験の狭い視野から「神の御前における良心」を主張しがちではないでしょうか。私自身がまさにそうでした。

私の場合は「神のことを思って」というより次元が低いですが、「神が自分の苦しみに目を留めていてくださることを信じて、神に祈りながら仕事をしていた」という自覚はあります。それは身勝手のようでも、「神への意識」があったことは確かです。

そして神は、私が必死に「神にすがった」ということ自体を喜んでいてくださいました。私たちは創造主への信仰をあまりにも人間的な道徳に片寄って考えすぎているかもしれません。ヨシュア記23章7-10節にはヨシュアの遺言が次のように記されています(傍点筆者)。

彼らの神々の名を口にしてはならない……それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ今日までしたように、あなたがたの神、主 (ヤハウェ) すがりなさい (ヤハウェ) は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。あなたがたは一人で千人を追うことができる

私には自慢できるような働きは何もありません。どう考えても、自分があの札幌支店の個人営業職で、投資信託の募集のノルマを果たし続け、また株式売買手数料もそれなりに稼いできたこと自体が不思議です。

とにかく、聖書に描かれた信仰とは、「主 (ヤハウェ) にすがり続ける者を、主 (ヤハウェ) が守り通してくださる」ということが基本です。創世記に描かれたヤコブの物語を読みながら、ヤコブは正しい人であったから神の祝福を受けることができたと思う人はまずいないことでしょう。その反対に、「ヤコブはお父さんやお兄さんを何度も欺くような狡猾な人間ではあったが、神の祝福を受け継ぐことの意味を理解し、主にすがり続けたからこそ、主の祝福を受けた」と読まれるのではないでしょうか。

2.「ふたつの統治 福音とこの世の権力」

ところで、先の「神の御前における良心のゆえに悲しみに耐える」と訳されているみことばを、あまりに個人的な道徳観で「良心に反する仕事を押し付ける不当な要求」と考えることは危険です。

この世界には暴力的な脅しや損得勘定で人を裏切るような人が後を絶ちません。それに対してこの世の権力によるさばきが必要です。それに関してマルティン・ルターは次のような現実的な対応を勧めています。

「キリスト教的な統治が全世界に共通のものとなることはこの世ではありえないことである……なぜなら、悪人はいつでも善人よりずっと多いからである。だから、一国全体や世界を、福音をもって統治しようと企てることは、すなわちまさしく、ひとりの羊飼いが一つの馬小屋に狼と獅子とわしととをいっしょに入れ、どれでも互いに自由に行き来させて、『えさを食べ、互いにおとなしく、仲良くしなさい。馬小屋は開いているし、えさも十分にある。犬や棍棒を恐れる必要はない』と言うようなものである。

ここではは平和をたもち、こういうようにおとなしくえさをもらい、治められるだろうが、長く生きることはないだろうし、どのけものでも、他のけもののまえに生き続けることはないだろう。

それゆえ、この二つの統治を熱心に区別して、両者とも存続させなければならない。一つは義たらしめるものであり、一つは外的に平和をつくりだし、悪事を阻止するものであって、この世ではどちらを欠いても十分ではないのである」

このルターの主張はときに「二王国論論」と呼ばれます。福音による統治では、キリストの教会が福音を人々に伝え、人々の神の前に義とし、神に喜んで仕えるように導く責任を負います。一方で、この世の権力による統治では、法律によって悪事を行う者を裁くことで、この世の悪を抑える責任が委ねられています。そして、この霊的支配と、権力による支配は、異なった論理で動きますから、互いの領域の論理を尊重する必要があります。

しかし、この二元論的な考え方が、ドイツではヒットラーの支配を正当化することに用いられたとも言われます。

ただし、弱肉強食が当たり前ともみられる市場経済の中で、自分も生き、また人をも生き延びさせる上で、このような区分けは大切な知恵です。株式売買が博打を正当化することになるからと言って、売買の自由を制限するなら、市場が市場として機能しなくなります。法律は、あくまでも、偽りの情報で市場を歪めることを禁止するもので、公権力は明らかな不正を裁くことしかできません。

そのような中で上司は、かなり無茶な仕事を命じることがあります。私たちはそこで深く悩み葛藤を覚えますが、「敬意をこめて主人に従いなさい」というみことばが、かえって良心の呵責から救ってくれるということもあります。実際、私自身の経験からしても、上司自身も悩みながら、そのように命じざるを得ないという面があるからです。

しかも、人間は、置かれた立場によって、まったく別のものの見方をするようになります。ですから、自分としては、今は納得できないとしても、立場が変わったら別の見方をすることになるかもしれないと思いながら、基本的に上司の命令に従うという姿勢を保つことが大切です。

確かに、主のみこころを真剣に求めて生きようとする者は、多くの場合、目の前の仕事に矛盾を感じるのが当然とも言えましょう。しかし、あちらを立てればこちらが立たずという二律背反的な葛藤は、仕事には付き物です。自分の狭い良心に従って、いちいち命令に異議を唱えてしまっては、組織が組織として成り立ちません。そして、機能しない組織は、それだけでこの世の市場経済では破綻に追い込まれることは必至です。

たとえば私自身も営業時代にノルマに押しつぶされそうになりながら働き続けていました。毎回、何の達成の目途もないという状態から始めますが、そのようなプレッシャーがなければ、だれが新規開拓のための飛び込み個別訪問を繰り返すことが出来るでしょう。迷惑がられながら戸別訪問や電話外交が出来るのは、潜在顧客から受ける非難よりも、社内の上司から受ける非難の方が怖いからに他なりません。

残念ながら、プレッシャーがなければ新規開拓が進まない現実があるのです。そこで大切なのは、その「不当な要求?」に、神のご支配の現実を見出すことです。主が与えてくださる解決は、多くの場合、不当な要求をする上司を目の前から取り除くことよりも、その不当な要求を全うさせてくださることです。

3.「人に従うより、神に従うべきです」

なお、ルターは「軍人もまた救われるか」において、軍人の務めに関して「もし私の主人が不正の戦いをしたなら、どうか」という問いに対し、「もし、彼が不正であることをあなたが知っていたら、使徒の働き5章29節にあるように、あなたは人に従うより、神に従うべきで』、戦ってはならず、仕えてはならない。なぜなら、そのときあなたは、神に対して安んじた良心を持つことができないからである」とも答えます。

これは一見、先にルターが、「この世の剣の権威を尊重するように」と勧めたことと矛盾するかのようですが、彼にとっては当然のことです。なぜなら宗教改革は、彼がカール五世という全ヨーロッパの支配者とも見られていた皇帝の前に立たされ、「私の良心は神のみことばに堅く結びつけられています。私は私の良心に反して行動することは危険であり、不名誉でもありますから、私は何も取り消しえないし、また取り消そうとも思いません」と答えたことによって決定づけられたからです。

この世の権威を誰よりも尊重したはずの人が、実際は、真っ向からこの世の権威を否定するような改革運動を起こしたのです。

ただし、ルターは同時に、「しかし主人が不正であるかどうかわからず、もしくは、これを知ることができないときは、あなたは不正確な正しさのゆえに、確かな服従を弱めないで、愛にもとづいて、最善のことを主人に期待すべきである」とも記します。

カルヴァン派とルター派の間で、この世の権威に対する対応を巡っての見解の違いが強調されることがありますが、「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29) を引用しながら、この世の権威への抵抗権を尊重するという点ではまったく同じです。ただ、この世の権力者をどの程度悪く見るのか、また善意に見るのかという、視点の違いが大きいのかもしれないとも思います。

たとえばトヨタの社訓とも言える豊田綱領の第五番目には「神佛を尊崇し、報恩感謝の生活を爲すべし」と記されていますが、創業者豊田佐吉は二宮尊徳の思想を受け継ぎ、豊田自動車初代社長の喜一郎は綱領に基づいて豊興神社を建てます。そして現社長の父の章一郎の時代まで、正月元日の朝八時半、トヨタの経営幹部は本社工場の北側にある松林に囲まれた鳥居をくぐり、ものづくりの神様を奉ってある豊興神社の境内に集まり、社長を頭に小さな社の前で手を合わせ、社運の隆盛を祈願する儀式を行っていたとのことです。

イエスを主と告白する者は、たとえ二宮尊徳や豊田佐吉を尊敬し、その思想を学んだとしても、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない……それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(出20:3-5) と言われたことばに背くことはできません。

現在は、神社参拝を強要するということはないでしょうが、日本社会では、神社参拝を日本固有の文化として受け止めさせようという圧力が決して弱くはありません。私たちはそのようなとき、「人に従うより、神に従うべきです」とのみことばに従うことができるように、神にすがるべきです。

4.「黙示録から励ましを受ける」

それにしても無教会の指導者で戦後に東京大学総長に立てられた矢内原忠雄は、第二次大戦の最中には、黙示録13章に預言されたとおりのことが日本で起きていたと、次のように記しています。

「思うに二・二六事件当時(1936年)のいわゆる非常時より、太平洋戦争の終了にいたるまでの十年間、わが国はサタン「」の権力の風靡するところとなった (黙示13:2)。天皇を現人神としてその神格の承認を国民に強要し、神社参拝を命令し、獣の像を拝せざる者には厳しき弾圧が加えられた。

獣はまた大言とけがし言を語る口を与えられ、もろもろの族、民、国語、国をつかさどる権威を与えられた (13:5-7)。而して、多くの偽祭司、偽預言者、偽宗教家、偽学者、偽思想家、偽評論家どもは、あるいは一身の危険を恐れ、あるいは利益に迎合して、獣のために或いは論じ或いは行うて、国民をして獣を拝ませた (13:12-14)。……キリストに対する貞潔は失われ、教会の中にも獣に対する賛美の声が満ちた」。

つまり、矢内原は、戦時中の日本で黙示録の預言が成就していたと分析しながら、同時に、その暗闇の時代も全能の神の御手の中にあったと信じていたのです。

彼は当時を振り返りながら、「(国家権力)は猛威を振るった。しかし、それはまことに『一年と二年と半年の間』(12:14) であった。過ぎ去った今、往時をかえりみれば、ひと時の悪夢である。而して我に帰れば、神の勝利に対する賛美と神の恩恵に対する感謝のみが我が心に沸き起こる。

しかしながら、サタンは未だまったく滅ぼされたのではない。『七つのラッパ』(8-11章) は終わったけれど、やがてまた新しき審判の連環として『七つの鉢』(16章) が始まるであろう。その時、キリストに対する操守を全うして己が永遠の生命を失わぬよう、今の中にヨハネの幻影の教うる意味を心して学んでおかなければならない」と記しています。

私たちは信仰の迫害を受ける時、それが永遠に続くような錯覚を覚えますが、大患難の時代はいつも三年半程度の短期で終わっていました。たとえば303年にローマ皇帝ディオクレチアヌスが帝国東部でキリスト教徒に大迫害を加えますが、その直後の305年に退位します。翌年にはコンスタンティヌスがイギリスで皇帝に立てられ、308年には帝国西部で権力を確立し、313年にはミラノ勅令によって帝国全土にキリスト教を公認させます。

つまり、歴史的な大迫害の直後に、イエス・キリストが全ローマで神としてあがめられるという道が開かれていたのです。

なお、矢内原が警告した「七つの鉢」の時代とは、17、18章に描かれる「大淫婦」、「大バビロン」ではないでしょうか。それはローマ帝国の支配下で、ヨーロッパからアフリカ北部、中東が一つの市場になりましたが、それに伴って商人が大きな力を持ち、政治権力さえもお金で左右されるようになりました。

現代もグローバル市場経済の中で、この世の富と権力が結びつき、信仰者に富と権力の前に絶対服従させようとする動きが生まれます。それはお金と権力を神とする偶像礼拝です。その誘惑に屈してはなりません。

5.「善悪の基準があいまいな日本企業の文脈で」

2018年3月財務省近畿財務局の職員の方が自ら命を絶たれたとの報道がありました。上司から公文書改ざんを命じられ、それが発覚して調査を受けた翌日のことで、遺書には「このままでは自分一人の責任にされてしまう」「冷たい」などと記されていました。このような痛ましい事例が後を絶ちません。

残念ながら、東芝の粉飾決算のようには公にされない不正が民間企業には起きることがあります。それは犯罪ですが、倒産を避けるためには、その方法しか残されていないように見える場合があります。そして日本の風土として、そのようなときに「自分が泥をかぶって、会社を、また仲間を守る」ということが美徳とされる場合があります。

それは一見、キリストに倣った自己犠牲と見えることもあるかものしれませんが、神の目から見たら、それは会社や組織を偶像化しているに過ぎないとも言えます。

しかし、私たちは地上の主人に仕える場合にも、「人ではなく、主(キリスト)に仕えるように喜んで仕えなさい」(エペソ6:7) と命じられています。日本の組織の常識は世界的にはあまりにも非常識になっている場合があります。そして問題が発覚した場合には、泥をかぶってくれた人にすべての責任を負わせ、組織は生き残りをはかります。

それにしても私たちがそのような場面に置かれるとき、どのように行動したら良いのでしょう。いろんな解決方法があることでしょうが、何よりも大切なのは、主の前に静まり、主にすべての問題を訴え、主のみこころを求めることです。

それと同時に、最初から上司に敵対的に接することなく、その葛藤を理解することが大切でしょう。ただ同時に、明確な法律違反の命令に対しては、自分が日本的な価値観ではなく「神に従う信仰的な良心に束縛されているということを丁重に語り、命令を拒否し、場合によっては退職をも覚悟する必要があるかもしれません。

ただときには、ある部署全体の動きに抵抗のしようがない場合も多くあることでしょう。そのような際、部門のトップの方の葛藤に寄り添いながらも、「私はこれに納得できませんが、いざとなったらだれが責任を負うのかを明確にしてほしい」と尋ねることもできるかもしれません。

私たちはできる限り内部の責任者と正面から向き合うべきでしょう。そのようなときこそ、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる」(ピリピ4:13) というみことばの真実を体験できる時でもあります。

ただ、その場合、責任者は、何よりも内部告発を恐れると思われますから、たとえば「私は、部長が最終的な責任を一人で負うということを明確にしている限り、決してこのことを外部に知らせはしません」という約束はしても良いのではないでしょうか。

とにかく、「黙って従うふりをしていながら、いざとなったら内部告発する」というようなやり方は、独善的で、周囲の方々にも大きな犠牲を強いることになります。

もちろん、悪の暴走を止めるために内部告発が必要になる場合もあるかもしれません。多くの信仰者は、そのような葛藤の場に置かれて、どうすべきか悩みます。しかし、悩みながら、主に向かってうめきの声を上げるという、神との交わりを大切にする姿勢自体が神に喜ばれていることを忘れてはなりません。

一番困るのは、周りの人々の葛藤が見えていないために断定できるという独善性です。「御霊の初穂をいただいている私たち自身も……心の中でうめいています」(ローマ8:23) というのが聖書的な信仰です。

6.「不当な苦しみを……耐え忍ぶために……あなたがたは召されました」

20節には、「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです」と、私たちがこの世の職場の中で葛藤を覚え、また信仰のゆえに不当な苦しみを受け、それに耐える姿を、神は喜んでおられると記されます。

そして何よりも驚くのは、「このためにこそ、あなたがたは召されました」(21節) と記されていることです。これは私たちが不当な苦しみに耐え忍ぶために、クリスチャンにされたという意味です。

私たちは自分が苦しみ時に、「こんなはずではなかった……」「自分のどの選択が誤って、このようになったのだろう……」などと悩むことがあります。

しかし、そこであえて厳しく、あなたは「不当な苦しみを受け、そこでキリストの御跡に倣うように召された」のだと言われることで、覚悟が決まります。そればかりか、その苦しみのただ中において、キリストとの一体感を覚えることができ、そこに喜びが生まれます。

そこで私たちに求められている生き方は、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」(23節) というものです。ここで「脅すことをせず」とは、「神の厳しいさばき」を宣告することなく、という意味です。イエスは十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました (ルカ23:34)。私たちもその姿に倣うように召されているのです。

そして、キリストは何よりも不当な十字架の苦しみを受けることによって、私たちを罪の支配から解放し、「義のために生きる」ように変えてくださいました。キリストの苦しみには全世界を変える創造的な意味があったのです。私たちの苦しみもキリストにあって無駄にはなりません。

使徒パウロは不思議にも、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も……からだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちはこの望みとともに救われたのです」(ローマ8:23、24) と記しています。

つまり、この世の葛藤の中に置かれて、神の正義が実現することを待ち望みながらうめいている」ことの中に聖霊の働きが見られるのです。職場の中でこそ、聖霊のみわざを体験できるのです。