「天使にラブソングを」〜詩篇110篇

今、私はヘブル書の解説の本の仕上げに忙しくしていますが、それを通しての鍵となっているのが詩篇110篇です。ここにはダビデの子であるイエスが、同時にダビデの主となっており、神の右の座についてこの世界を治め、同時に、メルキゼデクの例に倣う祭司として、私たちのために執り成しをしてくださっているという途方もないことが記されています。

ヘブル書にはキリストの復活が明記されていないと言われることがありますが、この詩篇110篇を頻繁に引用することによって、キリストが死の力に打ち勝って、世界を治めておられるということが高らかに歌われています。詩篇110篇こそは最高のキリスト預言となっています。

ダビデがどのような意図でこれを記したかは永遠の謎でしょうが、これは新約聖書に最も多く引用されている旧約の箇所の一つです。

主イエスはパリサイ人たちに向かって、キリストがダビデの子と呼ばれるなら、「どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた……』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と問いかけました (マタイ22:41-45)。この問いには、当時、誰も答えられませんでした。それは、キリストが「ダビデの子」としての人間であるとともに、キリストが神の御子として「ダビデの主」であるという不思議を現わします。まさに神秘的な詩篇です。

イエスが引用された1節を用いて、使徒ペテロもペンテコステの日に、そこに集まっていたユダヤ人たちに向かって、「ダビデが天に上ったのではありません……神が今や主ともキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです」と訴えました。すると人々は心を刺され、イエスを救い主として受け入れました (使徒2:34-37)。復活のイエスは、ダビデの主として、神の右の座に着座されたからです。

ある方は、高校二年生のとき、その使徒の働きを読んでこのみことばに出会い、ほとんど意味が分からなかったものの、「ただただ、平安が降って来た感じ」に満たされてイエスを救い主として受け入れたとのことです。それこそ聖霊の働きです。彼女はそれから約20年もたって「主イエスこそが王として全てをその足元にすべ治めておられる」という神学的な真理として、文脈から理解して、これを証しできるようになりました。

彼女は恵まれた環境に育ち、知的能力も優れていましたが、心の奥底で人生が制御不能になることを恐れていました。しかし、自分の罪のために十字架にかかられたイエスが、この世界のすべてを支配しておられるという「感覚」が不思議な「平安」を生んだのでしょう。十字架の犠牲と王としての支配の関係は、人知を超えた神秘です。

2節ではキリストの支配が「敵のただ中」に現わされ、3節では主の民がサタンとの戦いの中で「喜んで仕える」ことが描かれます。3節の終わりは、「あなたの若者の朝露は、あなたに属する」とも訳すことができ、クリスチャンが日々、キリストからの朝露のような新鮮な力を受けて世界にキリストの支配を広げることと理解できます。

4節はヘブル人への手紙7章17節などに引用され、キリストが新しい契約の永遠の大祭司として私たちを神に近づけてくださることとして描かれます。

また5、6節では、神の「右におられる主」が「神のことば……王の王、主の主」(黙示録19:11-16参照) としてこの世の横暴な者たちを「打ち砕かれる」と描かれます。

つまり、キリストは大祭司であるとともに力に満ちた支配者であると描かれているのです。罪人のままの私たちを「神の子」とするためにダビデの子のイエスは永遠の大祭司として十字架にかかられましたが、そのイエスはすでに神の「右」の座に着座され、この世界を治めておられます。

終わりに日にそのことが誰の目にも明らかになるのです。このように、イエスの弟子たちはこの詩篇を通して、イエスがダビデの子で、ダビデの主でもあるという神秘を感じ取りました。

祈り

イエスが神の右の座に着かれた「王の王」であり、また新しい契約の大祭司であることを感謝します。その神秘が、この短い詩篇に預言的に描かれています。私たちの知性では完全に理解できなくても、その真理が私たちを導いてくださいますように。


日本でゴスペルが歌われるようになったきっかけに「天使にラブソングを」という映画があると言われます。そこで普段は静寂を命じられているカトリックのシスターたちが、身体全体で主を賛美し、イエス様に従って行くと歌われています。

以下は、その映画のフィナーレの部分です

I will follow Him(私はイエス様について行きます)という歌に、厳しい覚悟というよりも、心の底からの喜びが歌われています。イエスについて行く……とは、死の力に打ち勝ち、神の右の座に着いて世界を治め、私たちすべての罪と過ちのために執り成しの祈りをささげてくださっているイエス様について行くことです。そこには本来、喜びに満ちた感動があるはずです。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい (ヘブル12:2)

以下で、映画の最後の部分が見られます。繰り返して歌われる歌詞の部分を下に記します

I will follow Him

私は主(イエス)について行きます

Follow him where ever he may go

主がどこに行かれようとも

And near him I always will be

そして主の近くに、私はいつもいる

For nothing can keep me away

何も私を遠ざけることはできないから、

He is my destiny

主は目指すべきお方

I will follow him

私は主について行きます

Ever since he touched my heart, I knew

主が私の心に触れて以来、私は知りました

There isn’t an ocean too deep

主にとって深すぎる海はありません

A mountain so high it can keep

高すぎる山はありません

Keep me away, away from his love

主の愛から私を引き離すことができるものはありません

I love him, I love him, I love him

私は主を愛しています、愛しています、愛しています

And where he goes I’ll follow, I’ll follow, I’ll follow

主が行くところどこにでも私はついて行きます。ついて行きます

I will follow him

私は彼について行く

……

I’m gonna follow

私はずっとついていく

True love, he’ll always be my true love

真実の愛、主こそは真実に愛すべき方

From now until forever

今から永遠にずっと

……

He’ll always be my true love, my true love, my true love

主はいつまでも愛すべきお方、私の真実の愛で

From now until forever, forever, forever

今から永遠に、永遠に、永遠に

There isn’t an ocean too deep

主にとって深すぎる海はありません

A mountain so high it can keep

高すぎる山もありません

Keep us away, away from his love

何ものをも主の愛から引き離しはしません