当教会の仲間が、素晴らしい演奏をユーチューブにアップしてくれました。それを聞きながら、ふさわしい詩篇を探したら、詩篇116篇が思い浮かびました。音楽を聴きながらこの詩篇を味わってみてください。
この詩篇はギリシャ語七十人訳では1-9節と10-19節で二つの詩篇に分けられ、それぞれの始まりにハレルヤということばが入っています。
ヘブル語原文でも、1節と10節には、「私は愛しています」、「私は信じています」という対比が見られます。
1節の原文は、「私は愛しています。それは、主 (ヤハウェ) が私の声と私の願いを聞いてくださるから」と記されています。不思議にも「愛する」ということばに目的語が入っていません。その上で「愛する」ことの理由が、「主 (ヤハウェ) が聞いてくださるから」と極めて直接的に記されます。
これは多くの詩篇の始まりが、「聞いてください!」という必死の嘆願から始まっているのと対照的に思えます。
しかし、3節で、「死の綱が私を取り巻き よみの恐怖が私を襲い」と記されていることばには、まるで「地獄での死の恐怖で震えている」ようなニュアンスがあります。まさにこの著者も、絶望的な状況の中で主の御名を呼び求め、それが聞き入れられたことの感謝からこの告白が生まれているのです。
そして、その恐怖の余韻が残る「私のたましい」に向かって「おまえの全きいこいに戻れ」と自分で優しく語りかけます (7節)。そしてその理由が改めて、「主 (ヤハウェ) が おまえに良くしてくださったのだから」と記されます。
そしてその結論としての告白が、「私は生ける者の地で 主 (ヤハウェ) の御前を歩みます」(9節) と記されます。
10節の原文の始まりも「私は信じています」という目的語なしの告白が記され、その上で、「私」ということばが強調されながら、「まことに私は語ります」と記されます。使徒パウロはコリント第二の手紙4章13節でこの箇所を引用しながら「それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります」と記します。
その直前に彼は「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(同8、9節) という逆説を告白します。パウロが苦しんだのは福音を「語った」からですが、彼が苦難に屈することなくそのようにできたのは、自分のうちに復活のいのちが生きて働いているのを「信じていた」からです。
ここでも、「私は大いに苦しんでいました」と告白されます (10節)。これは、主を信頼しているからこそ、強がることなく自分の弱さを表現できたという意味に理解できます。さらに「この私は恐れうろたえて言いました。『人はだれでも偽りを言う』と」(11節) と記されますが、これも自分の混乱したこころを正直に表現したものです。それは苦しみや恐れの中で、「主 (ヤハウェ) の御名を呼び求め」(13節) ることができるからです。
そして15節で「主の聖徒たちの死は 主 (ヤハウェ) の目に尊い」と記されるのは、主の目には、聖徒たちの死は、すでにこの世の死を超えた「いのち」と見られているという復活信仰の告白です。
またこの前後の14、18節では「私は自分の誓いを主 (ヤハウェ) に果たします」と繰り返されます。それはこの世の困難の中で、すでに自分のいのちが守られていることを前提に、「感謝のいけにえを献げる」(17節) ことです。著者は全体を通して、自分のいのちが主の愛の御手の中に堅く包まれていることを告白しています。
祈り
主よ、「私は愛しています」「私は信じています」と大胆に告白させてください。この地で私たちが体験する様々な死の恐怖も困難も、キリストのうちにあるいのちの豊かさを表すための舞台に過ぎないということを、いつでも覚えさせてください。
当教会の髙橋保夫さん(ヴァイオリン)、奈緒子さん(ヴィオラ)が米国に滞在中に、賛美歌演奏のCDを作成しました。今回20年前のCD音源をユーチューブにアップしてくださました。
「やっと長年の懸案だった宿題終えてホッとした感覚。当時の私達とオルガンの演奏、懐かしさと今だから味わう安らかさが心に沁みます。」とのことです。自由に転送してよいとの許可をいただいております。
ずっと、この演奏をかけたままで心が休まり、賛美歌の歌詞が浮かんできて、心に主への讃美が生まれます。ほんとうにほんとうに素晴らしい演奏です。ぜひ、ご本人に感想をお知らせください。アドレスご存知ではない方は、転送して差し上げます。
Songs from the Heart @ New York. Stony Brook Community Church